第二話
あれから数日後、俺は小綺麗な居酒屋で、立花薫と言う娘と生ビールを酌み交わしていた。ちなみに彼女は、東都大4年生で、過酷な就職活動の末に内定を貰ったのだった。今日はそのささやかなお祝いだ。
「もっと、ちゃんとした店を考えていたんだけどな」
俺がそう言うと立花薫は唇の上にうっすらと泡の髭を付けながらニコニコしている。
「お酒が飲みたかったんです。それに私、上品なお店は苦手だから……ここ神山さんが良く来るお店なんですか?」
ま、そうか、それに、そんなに高級な場所に連れて行くほど親しい間柄では無かったと思い出した。なんせ、先日、俺が駐車場の出口で轢き殺しそうになった娘なのだ。今日の事はお祝い件お詫びの意味も若干ある。
「今日の格好を見たらこの前とは違って女らしいので、一瞬誰だか判らなかったよ」
俺は、先ほど待ち合わせの場所に現れた立花薫を見て当人だと気が付かなかったのだ。実に間抜けな話だと自分でも自覚する。
「あの時は黒ずくめのリクルート仕様でしたから」
美味そうに生ビールを空けると
「冷酒呑んでもいいですか?」
と訊いて来るので
「何でも頼めば良いよ。今日はお祝いなんだから」
と答えるとついでにと言って「焼き鳥」を頼んだ。
氷を入れた入れ物に冷やされた冷酒が入っていて、運ばれてくる。
「神山さんも一緒に……」
そう言われて、小さな冷酒用のグラスに冷酒を注ぎ合い彼女が口をつけるのを見て自分も口に運ぶ。
冷やされた液体が口から喉へ流れ込むといくばくかの間を置いて喉から体全体に旨さが伝わって行く。
「ああ、美味しい! 日本酒好きなんです」
俺は、二十二歳の彼女が日本酒が好きだと言う事と先日の就職活動の事が頭の中で上手く繋がらず、少し不思議な感じだった。まるで、彼女そのものが自分の生きている範囲、テリトリー以外の住人のような気がしたのだ。
焼き鳥を口に運び、次は冷酒を口に流し込む。その繰り返しで瞬く間に一本は空けてしまった。もう一本頼むのは当たり前の感じだっだ。
「次は店員は冷えた冷酒だけを持って来て、空になった瓶と交換した。冷酒は氷に囲まれて、冷えた状態が続くと言う具合だ。
他にも色々な料理を頼んだ。立花薫は良く食べ良く飲んだ。俺も普段よりも飲んだかも知れなかった。陽気な彼女を見ていて酒が進んだのだろう。俺としてはこれも不思議な事だった。
おそよ今まで気分で酒が進む、なんて事はおよそ無かった。何時でも自分で決めた量に従って来た。友人は
「幾ら呑ましても酔わないからつまらない」
そう言ってくれたが、違うのだ。酔うまで飲まないのだ。沢山呑んでいる様でも自分が決めた量の範囲内なら酔わない。それが俺だった。
彼女がスマホで時間を確認すると
「あ、こんな時間だ。電車が無くなるので、そろそろ……」
そう言いかけて、立ち上がろうとして腰を抜かしてしまった。
「あれ? 私……変……」
それだけを言うと意識を無くしてしまった。二人が座っていたテーブルの後ろは白い壁になっている。
その壁にもたれながら立膝で座り込んで意識を無くしている立花薫を見ながら、『これは大変になった』と思わずにはいられなかった。
とりあえず、店員を呼んで、勘定にして貰う。払ったら後はこの娘をどうするか? だ。
家まで送って行くにしろ、場所も住所も訊いていなかった事に気がついた。
……どうするか……
持ち物を勝手に見たくは無いので、何処かで休めせるしか無いと判断する。終電がと言っていたが、時間は十一時を少し回った頃だ。この時間で終電を気にするのは、家が遠方なのかも知れないと思った。実家住まいと言う事もあると考えると、少しマズイかと思わなくもない。
正体を無くした立花薫を強制的に立たせ、肩を担いでふらふらになりながら表に出ると、生憎ポツリポツリと雨粒が顔に当たった。
仕方ないので、近くにあったカラオケ店に入り込む。アルコールの解毒作用を期待してアイスコーヒーを頼んだ。それ以前に彼女が飲める訳が無いのだがな……
三十分も寝かせていただろうか、やっと何か動き出した感じなので、頬を軽く叩きならが声を掛けると「う~ん」と言って目を少し開けた。
「コーヒー飲め、多少は楽になるぞ」
そう言って口元にグラスを近づけると、喉が乾いていたのか、一気に半分ほど飲んでしまった。
それから我に返ったみたいで
「あれ、私、帰らないと終電が……そう言ってスマホで時間を確認しようとするが、どうやら焦点が合わない感じらしく、あの大きな数字が読み取れないらしい。
「十一時四十五分だ。まだ、電車はあるのか?」
その俺の声に反応して
「十一時四十五分……ああ、もう少しで電車が出ちゃう……私鉄の支線だから終電が早いんですよ……途中からタクシーかな……」
それだけを独り言の様につぶやく様に言うとまた意識を失いそうになるので
「家は何処なんだ?」
大きな声で尋ねると
「柴又……かつしかしばまた……」
それだけを言ってまた、意識を失った。
柴又……寅さんの故郷か……それだけしか知らなかった。映画はTVで見たが映画館に足を運んだ事は無かった。俺が柴又と言う名前に関してはそれが全ての知識だった。
『仕方ない、ここからタクシーで柴又まで連れて行き、そこで起こして……そこから先は……その時考えよう』
なんともいい加減だが、今から思うと恐らく俺も酔っていて思考が廻らない状態だったのだろう。
兎に角、先程と同じ様に肩に彼女を担いで表に出て、タクシーを拾う。雨は止んでいた。
最近はすぐに掴まるので助かる。
「柴又まで」と言うと運転手は
「柴又のどちらですか?」
俺はそこまで訊いていなかったのを思い出し適当に
「帝釈天の傍まで」
と適当に誤魔化した。彼女を担いでいるうちに目が醒めてくれれば良いと祈る。
タクシーは深夜の道をかなり飛ばして行く。高速を使わないのは柴又が高速の出口から離れているので、時間的に使っても使わなくても変わりが無いそうだ。
車中でも立花薫は全く目が覚めるそぶりすら見せなかった。いいさ、帝釈天の門前で頬を叩いて起こしてやるつもりだから……
「着きましたよ」
運転者の事務的な声で我に返ると車は帝釈天の門前に止まっていた。五千円札を出すと、僅かなおつりを出そうとするので
「要らないから」
そう言って車を降りる
「どうも……」
後ろで運転手の気のない返事を聞き流して車を降りる。
初夏だというのに冷たい風が門前町を吹き抜けて行く。
ああ、俺は、どうしてこうなったのだろうか? 近くのベンチに彼女を座らせて頬を軽く叩き
「おおい、柴又だぞ! 帝釈天だぞ!」
と声を掛けるが反応が無い。俺は最悪の事を考えていた……