わたしがみる世界。
ーーどうして。
彼女の口から放たれたその短い言葉が、静まりかえった教室を、我が物顔で支配した。息をするのでさえも、許されないその不気味な静寂さに、自然と眉間が寄る。まるで、彼女がこのちっぽけな空間に君臨しているみたいではないか。”あの子”の方を盗み見ると、耐えきれないように笑みを噛み締めていた。
”あの子”の綺麗な顔が、歪みに歪んだところをみれた私はきっと幸せ者なのだろう。
教卓の前。正確に言うと、黒板の前に背を向けながら立つ彼女は、肩を震わせ、泣いていた。黒板に書かれた、彼女に対しての数えきれないほどの罵倒。それらは、彼女の繊細な心に深く突き刺さったらしい。
ーー本当、気持ち悪い女ね。
普段の私ならこの言葉を、我慢しながら飲み込んでいた筈。だけど、私の放ったその言葉は、存在を主張するように、空気を揺らしていた。
馬鹿な私は、己の失態に気づき、しまったと思ったものだ。柄にもなく、冷や汗をかいた。
これでは、奴らの”生贄”になってしまう、と。だけど、私が知らぬ間に時は進んでいたようで、辺りは静寂になどに包まれていなかった。あったのは、地響きなような騒がしさ。歓喜なのか、悲鳴なのか、その違いを知らない私にはよく分からなかったけれど。
ああ、いい眺め。
所詮役立たずの教員共が、雪崩のように耳障りな音を立てて、教室に入ってくる。廊下には、ハイエナの如く群がる馬鹿共。そいつらの目は、驚愕と同情、好奇心の目で溢れていた。そりゃあ、気になるでしょうね。なぜあの彼女が泣き崩れているのかが。だけど、この世には知らなくてもよい真実だって存在している。ハイエナごときが、よってたかって真実を探ろうとするのなら。それは、自らの身を得体の知れないものに授けるのと同じなのよ。
もう一度、”あの子”の方を盗み見ると、ーーー無表情だった。女の教員に支えられ、このやけに冷えきった教室から去る彼女を、ただただ見つめていた。いや、違う。”あの子”の目は、いつも、何かをうつしてそうで何もうつしていなかった。それは、よく見ないと気付かない。少しの違和感を感じる程度。
それに気づいたのはいつのことだろうか。
「加奈子、!」
遠くで、彼女を呼ぶ、私も”あの子”も、よく知っている男女の声がした。それは、雑音で襲われているこの狭すぎる教室にも、しっかりハッキリと届く憎たらしいほどの澄んだ声だった。今、最も、聞きたくない声。それはきっと、”あの子”も同じだろう。私はそれ以上考えるのはやめて、穏やかな日を降り注ぐ、窓の外を見た。のどかな、どこにでもありそうな田舎風景が私の眼下に広がっている。
それがあまりにも優しげで、まるで時間が止まってしまっているかのような錯覚をおかしそうだった。
そして、今私がここにいることがとても滑稽で、意味のないもので、哀れなものだと気づかずにはいられなかった。
ああ、
私たちは一体どこで間違ったのだろう。
開いた窓から吹いた生温い、だけど心地よい風が私の黒すぎる長い髪を攫った。
それは一瞬の出来事で、反応するのに少し遅れてしまう。これが、この全てが、長い長い夢ならば。私たち二人は、救われるのだろうか。この暗く、深い、色のない感情に。私たちはきっと飲み込まれていく。
ああ、どうして。
どうして、彼女は恵まれているの。
どうして、私と”あの子”だけが、苦しまなければならないの。
全て、全て、彼女のもの。
全ては恵まれた者のもの。
産まれもった時からもつ彼女の才能のおかげで、彼女は私たちが求めて求めて手に入らなかったものを手にしている。
私は、死に物狂いで努力をしたのに。
”あの子”だって、努力したのに。
何一つ、叶わなかったんだ。
努力をすれば夢が叶うだなんて、一体誰が言ったの。あんなの嘘よ。嘘なのよ。
一際大きな風が、私の憎たらしい長い髪を大袈裟に揺らし、視界を遮る。それを嫌々かきあげれば、見たくもない、酷く醜い世界が見えた。