1-6 律動
靴箱の影に悠月は入り込んだ。自分の靴が入っている場所を探すために。出席番号を人差し指で指し示しながら。この動作を無意識で済ませられる様になるまで、あと何週間かかるだろうか、と彼は少しだけ思う。少量の砂と共に、黒い靴を半分まで引き出しかけた時だった。靴箱の中からひらひらと、一枚の紙の様な物が落ちて着地した。紙にしては、落ちるスピードが少し速い。悠月は二、三秒落ちた物体に目を留め、それからしゃがみ込んでずり落ちそうになる鞄を肩で抑えつつも、右手で物体を手に取った。滑らかな感触。持ち上げた瞬間に、ああこれは、といった調子で悠月は息を漏らす。
――電子ペーパー。
映し出されている文字は、「RE;REIS」――というのは、ただのメーカーロゴだ。つまり、このペーパーはテキストを表示する前の待機画面にある。しかし悠月は、それを裏返した。そのメーカーのロゴ、会社の名前から目を背ける様に――電子ペーパーは多くのメーカーが制作に参入しているが、「RE;REIS」というメーカーだけしか作っていない電子ペーパーの一つに、両面表示型の製品があったからである。
……『佐伯悠月 彼について知りたければ、この場所へ』
裏面か表面かは分からないが、そこには文面と、地図が描画されていた。地図は、上からグラウンド、隣に体育館、下に向かって細長い生徒棟、本校舎、管理棟……学校の地図である事は、見るに明白だった。
悠月はえっ?と声に出しそうになり、数秒動けなくなった。
……『彼』。
彼は思わず辺りを見回した。隠れて彼の様子を伺っている者はいなかった。代わりに、靴箱を利用しようとする生徒がいたので、悠月は靴箱から離れ、再び校舎の中へ入っていった。
悠月はとても滑らかな決断をした。
その言葉が信じられる保障なんてどこにもなかったのに、悠月は導かれることにした。
靴箱から入り右に曲がった先が生徒棟一階の廊下。一年の生徒がまだ幾らか残っている様で、その内の何人かが悠月の方を一瞥してきた。悠月がそれを感じ窓側の方向に目を反らすと、グラウンドに運動部の生徒が散らばり部活の準備を既に始めている所だった。
廊下を突き当たった先に、本校舎への渡り廊下がある。本校舎の西端にある階段の麓のエレベーターを、地図の中のポインタは指していた。悠月が向かうと、エレベーター付近には、エレベーターを使いそうも無い男子生徒が数人屯していた。何の他愛も無い会話をしている様だった。あれか?まさかな……と思いつつ握った掌に隠した電子ペーパーをちらと見ると、その文面と、地図のポインタの指し示す場所は移り変わっていた。
東方向に三部屋分。使われる事の無い特別教室隣、第三倉庫の鍵を、悠月は持っている筈も無い。だが、その扉は施錠されてまま沈黙を保っていた。ノックしても反応がない。おい、どうすればいいんだよ――呼びかける思いで、電子ペーパーに目を反らす。
『この紙を鍵の穴にかざせ』
答えは既に帰ってきていた。は?と悠月はまた声に出しそうになったが、まさかと思いつつ表示された通りの動作をする。どこからどう見ても金属製の所謂普通の『鍵』で開く普通の鍵穴の奥は一瞬青く光り、「ガチャ」という擬音語しか浮かばない姿をしたそいつは「ピピッ」と鳴音した。
室内は、煙たい空気で充満していた。部屋には窓が無く真っ暗だったので、悠月は扉を開けたままにしておいた。壁際に積まれている、というか部屋全体に積まれている段ボールが邪魔だったので、それを退けて室内に入り込んでいく。その時、目前に射す光の線が消え、辺りは一気に暗くなった。と共に、背後で鳴音。どうやら自動で扉が閉まったらしい。慌てて扉の方へ駆け寄った時にはもう遅かった。
悠月の左手がざらざらした壁面を伝い、埃の塊を作る。それが気持ち悪いので何度か指と指を擦らせて払いながら、彼は電源スイッチのプレートを見つけた。悠月は天井を見つめ、 ぱつぱつっと明滅を繰り返しながら電灯が点くという幻想が一瞬その目に見える。
光を灯したのは、床だった。またも、淡い青の光。辺りを照らすには足りなすぎる光の線は真四角を描いていた。
どういう事だコラ――悠月は再びバックライトを灯した紙切れに問う。
『この部屋に入り口がある』
――入り口? そりゃ、入り口の無い部屋なんてあるわけがない……
疑いつつも目線を走らせた先には、淡い青の四角形。それしか考えられない。丁度人が一人入り込めそうな四角形でもある。その場でしゃがみ込んでみると、四角形だけが床から浮き上がっているような形で、どうやら手が引っかかる程の隙間があるらしい事に気付く。悠月は考えた通りにする。近づいた瞬間に青が何度か明滅を繰り返し、引っ掛けた時にその光は消えている。手元に小さい鍵穴も見えたが、その四角形――否、扉は、何の抵抗も無く上方に開かれた。暗闇の中に階段が、また別の黄色い光で照らされる。手前から奥へ、幾つもの電球がその階段、地下へと続く道へ誘うかのように、光り出した。
……『彼について知りたければ――』
悠月が階段を渡り終えた先に、その階は存在した。とても校舎の中とは思えない――天井にはごちゃごちゃした配線が張り付いているし、廊下を踏みつけた時に出る音も何か乾いている。というよりは、この空間自体が乾いているのだ。喉が張り付く――嫌だなあ、おい、まだなのか? 考えながら悠月はポケットの中をまさぐった。探っている内に立ち止まって呟いた。
「あ、ない」
電子地図は綺麗さっぱり姿をくらましていたのだ。まさかどこかで落としたのか――?悠月が手を出した時に、ざらついた感覚と共にぱっと粉が舞った。彼はその時辺りを見回していたのでそんな事には気が付かなかった。
――まじか、おい。どうすればいいんだ?
奥側には右方向に曲がり路のある廊下が続いていて、二つほどの部屋が見えた。不思議な扉だ、鉄製で、頑丈に設計されているらしい。悠月は振り向いて、自分が通ってきた道を見た。何の部屋も見えず、風の音が散らばっているだけだ。
風の音――?
前方を向き直り、聴き耳を立てる。
ブゥゥ――ゥゥゥ――ン
一定の周期で混じるノイズ。
それは今正に発生した音だ。風の音では無い。
――機械?
勿論こんな怪しげな場所で怪しげな機械が蠢いていないなどと考えたりはしない。しかし――その音が、どこから来ているのかは気になった。悠月はそこに導かれているのではないか、という気すらしたのだ。
冷たい壁に触れると、その機械の振動が伝わってくる。否、そんなはずはない。悠月自身が震えているのだ。自身の身震いにすら彼は気付かなかった。自分は今、緊張している。壁面を垂直に伸びる意味不明なパイプは、途中で直角に曲がり上に伸びている。悠月はその流れに目を奪われる。目線は上へ。足は前へ。壁を這わせていた指が、カツンと音を立てたのを合図に、悠月は『P1』と書かれたプレートを見つける。
例の、鉄製に閉ざされた扉。
音は悠月を誘うかの様に、そこから漏れている。
扉を押してみると、それは何の抵抗も無く開いた。重たげな扉が見かけ倒しにしか思えない程に。入った途端に空気の抜ける様な音がして、室内の電気が点った。しかし、最低限の照明だ。その照明は、中央の割れた卵の様な機械を照らしていた。下から伸びる幾つものケーブルは、個室にしては広いほどの部屋の四方八方に伸びている。悠月はコントラバスの様に低い、穏やかな一定のリズムを響かせる室内の中で、バスドラの様な足音を鳴らし、それに近づく。近づく途中で、人一人しまい込めそうな座席がある事に悠月は気が付く。
座席にはネックバンド型のヘッドホン状の物体が転がっていて、そこから伸びたコードは肘掛けを上越しに下の方へと伸びていた。周到と言う程あまりにも綺麗に置かれ過ぎているそれを拾い上げ、メーカーの名前を確かめようとする。そこで悠月は妙な事に気付いた。コードは通常のヘッドホンの様に音が出る部分から伸びているのではない。ネックバンドの丁度真ん中、つまりこれを実際に掛けると首の後ろ、またはそのやや上から伸びる様に、コードは付いているのだ。
更に気付いた。いや、悠月にしては「何故これに真っ先に気が付かなかったのだろう」と考える程だった。ハウジング部分の印刷面、一番目に入りやすい円型の金属の中央に、[Another]という文字は書かれていた。
――『アイツ』、まさか。
――こんなものを……? いや、でも何のために……
悠月は自分でも気づかぬ内に卵形の機械に手を触れ、連なりを探した。すぐに見つかった。卵型の機械の方にも、[A]と[n]と[o]と[t]と[h]と[e]と[r]の連なったものが、はっきりと見れた。