1-4 胎動
眼鏡の男――香流晃一という名の数学科教師は、本校舎の階段の、踊り場の窓から悠月と将司が会話しているのを見ていた。
まだ20代前半にも見える風貌で、銀縁の細い眼鏡を掛けている。彼はその会話を、訝しげな目つきで見ていた。もっとも彼の真顔と比較し大差無いので、訝しげという言葉もそう当てになる物ではないのだが……しかし事実彼はそれを訝しいと思っていた。生徒と生徒の他愛の無い会話に対し、「これは予想外の状相だ」とすら考えたのだ。
彼は厳しい顔つきを変えないままで、日の当たる所から離脱し、階段を下る。下り終えた所にあるエレベーターの扉が開き、彼はそれに乗る。バリアフリーのために作られた物であるのだが、使う生徒はあまり多くないため、別の誰かと乗り合わせる事はそう無い。
階数は、一階と二階、三階しか表示されていない。それから、その下には何も描かれない階数ボタンに見せ掛けた液晶画面。彼は一階のボタンをダブルクリック。それから急速に指を走らせ、三階のボタンでばってんを描く。すると、二階のボタンが明滅を始めるので、香流は指を置く。画面に小さく青い文字で『認証中』と表示される。『認証中』の文字はやがて暗転し、『B1』の文字が鮮やかに浮かび上がる。ゆったりとした駆動音と共に……
校舎の地下一階の廊下を歩いた生徒は、この学校の生徒の中でも、今の所三人を残して誰一人いない。普通学校にあるとは思わないだろう。香流は無機質で閑散とした通路に、足音を響かせる。昼間でも日が通らないため、最低限の照明がその足元を照らす。通路の横にあるのはただの白い壁ではない。『P1』『P2』『P3』『PX』といった四つの部屋が並んでいる。
入り組んだ通路のとある突き当りに、そしてその扉は存在する。重たげな鉄の扉に、再び認証画面。室名が記載されたプレートは無い。
扉を開けた先は、電子機器の堆積。壁面を埋め尽くすかのようなディスプレィ。十人程の「職員」が、香流の顔を見て一瞬頭を垂れ、「ちぃっす」「お疲れさまです」といった挨拶が、教室分二つ分の広さの部屋に散らばる。雰囲気だけは相変わらずだな、と香流は思う。香流はその中でただ一人、スーツで無い服を着た女性の元へ向かう。彼女もまた眼鏡をかけていて、デスク上の複数のモニターの画面上に目を走らせている。彼女が座る椅子の斜め後ろで香流は立ち止まる。それから彼は自分が入ってきた扉の方を振り返り、その上にある大き目のモニターを見る。普通の黒板に投影するようなプロジェクターのスクリーンサイズを、一回りくらい大きくした程度だろうか。香流は顎に手を当て、暫くモニター上の数値を見つめる。
「わかりますか」椅子につく彼女、八雲弥生がその後方で声を発する。
「……やはり、『泳いでいる』らしいな」
「ええ、東京へのサーヴァへのアクセス件数値は加速度的に増えています。例によってまだ『浮上』はしてこないので、一概に決定づける事は出来ませんが……」
「しかし、例のサーヴァに申告無しにアクセスしてくるとなれば、『BUG』でまず間違いない……のだろう?」
「……この時点で『通常の措置を用いて』仕留める事が出来ればいいのですけど」
さてここまで全ての疑念をストップしてみて、与えられた義務に対し事務的な態度を示してみたが……と、香流は振り返って八雲の横顔を見て考える。眼鏡を掛けた女子大生――多くの成人職員に囲まれた中で、やはり彼女を見ると異質であるな、と思う。慣れたはずの違和感が一瞬にして、戻ってくるのだ。しかし、彼女が世界有数のハッカーとして「BUG」に対抗するための重要なキィの一つになる事を意識すれば、そうおかしい事でもないのだ。元々そのために彼女はこの「学校」に「徴収」されてきたのだから。
――「学校」……か?
まるでこの部屋は、子供の頃に見た夢の世界であるな、とその時彼は思う。小さい頃、学校のどこかには生徒の誰も知らない地下の扉の様な物があって、それを開けた先は夢と冒険に満ち満ちているのだ、などとと考えていた記憶があるのだ。ただ少なくとも「ここが」大学に附属しているというだけの他に何の特異な点の無い高等学校の下にある世界だとは思えないな、と香流は考える。
可笑しな話だ。
だが、こんな事よりも可笑しな話を、香流はその何倍もの数知っている。
「しかしすまない、午後の講義を休んでまで来てもらって」
「ここで実習している方がずっと勉強になりますから」
「だが無理を……」
弥生は急に香流の方を振り返って急に微笑んでみせた。それからすぐに、モニターに返る。彼女は秀才で、声も落ち着いているのだが、冷たいという訳でもない。こういう所がよく分からないな、と香流は思う。よくわからないと言えば――と、香流は辺りを一応念入りに見回してから弥生に訊く。
「見た所局長がいない様だが、早めにこちらで待機させた方が良いな」
「あれ? マシロ君、今頃彼と会ってるんじゃ無いんですか?」
「いや実は、神町の方が先に接触してな」
「ええっ……あの二人、どうなんです?気が合いそう?」
「この前もそうだったが、君はそういう心配をするのが好きなのか?」
「彼、すごいおとなしいそうじゃないですか。マシロ君と話すって聞いた時も不安で」
香流は溜息をついてからもう一度、モニターを眺める。――いずれにせよ、今は緊張状態だ。これ以上状況が良くなる事も、長く停滞した状況に抑えられるとも思えない。
「マシロがどうか分からない時のために、掛けに出るのも悪くないが」
「え?」