3-終
悠月は駅の駐輪場で自転車の鍵を掛けた。
ハンドルを握ったままで、暫くスマート・フォンの画面を見つめていた。
古い友達からのメールが来なくなってから、既に一週間が経過していた。
「ええ、本当に――今回も先輩には助けられました」
うちにはまだ固定電話の受話器を握っている奴がいる、なんて言ったら将司は大笑いするだろうか。テーブルに置かれたパソコンの画面にはいつものフォルダやらファイルやらで可哀想にも埋め尽くされた小動物の壁紙が表示されていた。姉がたった今終わらせたであろう戦いの軌跡は、タスクバーの小さな四角形の元に最小化されていた。それを見たら殺すみたいな勢いで、姉は軽く持っていたボールペンを一番力の入る持ち方に転換し、リビングに入ってきた悠月をキッチンから一瞥した。
暖色がテーブルを照らしていて、その上に茶碗に入ったご飯と皿にはキャベツの千切り、それにトンカツが添えられていた。これには悠月も驚いた。毒なんか入っちゃいないだろうか、と不安になるが、悠月自体も珍しく大人しく席に座って、彼女の電話が終わるのを待つ。今日はどう考えても特別な日なのだ。
姉が電話をしている相手は仕事相手の先輩で、名を黒崎という。女性みたいな喋り方をした変わった美形の男性で、悠月は一度だけ彼と話した事があった。格好良いけど苦手な大人だ、と悠月はその時思った。
「……明日私、ジョウキョウするから」
受話器を置きながら朱里は、唐突に言った。ジョウキョウ――それが一日のみの滞在にしろ長期に渡る滞在にしろ、長い橋を渡って『京』に行く事をさした言葉であるという事は、悠月が生まれた時にはもうそこにある常識だった。海を越えた先にある丸い島みたいな都市、蜃気楼の中に浮かぶ墓標みたいな風景を思い出した。それにしても唐突にどうして、と悠月は訊こうとして、眉を潜めた。慣れない奴と長い間話した所為だろうか、感情表現が先行せず、後からついてくる。
「仕事、で黒崎さんと打ち合わせ」
悠月が訊こうとした前だった。むかいがわの椅子に座る朱里を一瞥して、悠月は皿の上に視点を落とす。
「……今日は俺が作ったのに」
「いいから食え」
「姉ちゃん先に食えよ」
「何を疑ってんの? いいから食え」
「……いただきます」
悠月が口にトンカツを真っ先に口に含むのを見て、微妙に表情が柔らかくなるのを見て、朱里はにんまりする。
「気持ち悪い」
「いただきまーす」
ボソリと呟く悠月を他所に、朱里は二人しかいない冷たい部屋には不似合いな元気さを爆発させる。
悠月は何度それを鬱陶しいと思ったが知れないが、今は違っていた。むしろいつもより明るさに満たされている程の自分の今が、姉によってキープされている事に悠月は今気付いたのだ。今だって、この椅子から離れてベッドに倒れ込めば、明日から押し寄せてくる色々な事を思い出すんじゃないかとか、思っているから彼の口の動きは一定の速度を保ったままであった。朱里が食べるのに集中しだしたので、悠月も意識を食事の方に向けようとしたが、ふと手が止まる。
「お疲れさん」
「なあに、急に……気持ち悪いよ」コロッケを頬張りかけた朱里の顔が歪む。
「いやさ」
「私の心配はいーよ、アンタこそいじめられたりしてない?」
「てねーよ」
「暗いとか言われたりしてない?」
「うっさい」
「あー、そこ否定してよ、心配だなあ」
沈黙。
朱里がコロッケを口に運ぶ手を止めている事を悠月は気にしだす。
「……母さんがさ」
「また会ったのか」
「相変らず口を開いてはくれなかったけど」
「そりゃあ……」
「悠月が行けば目も口も開けてくれるんじゃないのかなあ、って」
白衣の男は硬質のテーブルに円い水を張った。
井戸の底を眺める様に、男はその水を眺めていた。
水は窓になった。男のいる世界でない世界を映していた。
世界には海があった。
海の上には円い陸があった。
陸の上には都市があった。
都市には五つの橋が架かっていた。
橋は三角のドーナツの様な陸のそれぞれの地点とを結んでいた。
その陸たちはシンプルな形をしていて。
ドーナツの上に覆いかぶさるように、透明なドームが掛っていて。
ドームの外の大陸は、まっさらで、沈黙していた。
『人はあの時を生き延びた』
男の声は反響した。
『もう十分に生き延びた』
何かに吸い込まれていくように反響していた。
『幻聴や幻覚は実際にない、だから気にしなくてもいいのだ』




