3-7 Zone:Genb(Replica)
天井のパイプの隙間から、線が漏れた。
白い線。誰もがそれを漏れ日に脳内変換するだろう。
光は悠月の顔の左半分を照らしたが、それが悠月の顔を焼く事は無かった。
柔らかな、ただの光。
床は冷たい。パイプがついた左手のすぐ傍にあった。
パイプは壁や床の全てを埋め尽くしている分けでは無いらしい。だが淡い光がその形が知れない空間を照らしても、その細い管達は複雑に絡み合い、古い家を飲み込む蔦のように空間を満たしてしまっている、と悠月は感じた。柔らかい光が、パイプに走る得体の知れず無機質な、だがしっかりと貼りついている文字を照らした。
音は無かった。ビデオテープで見る映画の沈黙場面で流れるノイズみたいな、微かなもの以外には。
「ありがとう、楽しかった」
「いや、楽しかった、て……」
「ごめん、びっくりさせて……」
少年は腕をついてしゃがみ込んだ。混乱する悠月をじっと見つめながら。数秒前の微笑みが嘘みたいに、彼の表情は暗く。暗いというか、押し出される物のない端正さが、それと似た物を感じさせたのかも知れない、と悠月は思う。
「――つか、どちらさんで?」
悠月は考えていた事を、素直に口にした。
「何でもいいよ、ただ……」
少年が微笑みを見せたのは最初のほんの一瞬だけで、しかし柔らかな表情を彼は保ちんがら地面に掌をつき、呼吸を繰り返していた。
脈動する腕の血管が、浮き上がっている。
本物の身体のよう。
「戦えた事は、意味があった」
頭の中で反芻する。
言葉や概念では無く、透き通る様な声そのものを。
「君にも、僕自身にも」
それが、本当に望んでいた事であるのだよ――と、口にしなくても、彼の顔かたちなどではなく、放たれる物、目に見えない物が語っていた。
彼の輪郭すらを曖昧にさせるほど、放たれる物は強く――余計な色が何もない静謐な空間の所為であるとも悠月は思ったが、彼の言葉も声も表情も、少なくとも嘘はついていないと感じていた。
「今の俺、負けたんだよな」
「分からない」
「あそこでさっきの白い奴撃たれてたら……」
「光子砲スクエアを撃つだけの余力があったかも分からないし、無かったかも分からない」
「それはずるいよ」
「今回はショック療法みたいな物だったから……」
数秒の間。
「そう、今度はちゃんとした形で」
「……でも」
出鱈目に強かったじゃん。
悠月はそう思った。
改めて勝負するまでも無く、その力は圧倒的で、悠月は瞬く間に蹂躙されてしまったのだ。確かに最後の悠月の攻撃は――
最後の攻撃。
思考と動作。
悠月は何かを考えようとした途端に、それを思い出した。
そう、あれこそが、思考と動作の融合そのものであった……という事。
そしてそれまでは、思考と動作の融合という手段を、言葉として意識してしまった、という事。
それはつまり意識である事に違いは無かったが、
『実際』が伴っていなかったという事。
盲目。
悠月は今になって、その事に気付いた。
いや、引き出されたのだ。
この少年は?
本当に、なんなのか?
「お前は」
「白楓」
「え?」
「マシロ・カエデ」
「名前?」
「そう……」
「俺は――」
「佐伯悠月」
「え?ああ……そうだけど(って、だから何で知ってんだ)」
数秒。
「あのウェポン・スクエアかなんかを飛ばす奴は」
「光子砲スクエア?」
「そう……どうやっていたわけ?」
「それを……まだ君は、求めてはいけない」
「何で?」分からないままに、返答。
「新しいと感じたかも知れない」
「見た事が無かったから」
「でもそれは新しさではなく、既にある物の焼き直しだから」
「ある物?」
「そう、……それは言葉で一度に説明できる物じゃない」
「段階を踏まなきゃならないという事?」
「その型は、まだ君には合わないという事」
「カタ?」
「そう、だから君は……本当は、僕の動きを見るべきでは無かったのかも知れない」
「なんだよ、それ」
「それは僕にも分からないよね、何がどう君に作用しどう転がすのかは」
「じゃあ俺は、これからどうするべきなんだ?」
「君はまず……受け取るべきだ」
「何を?」
「この世界の中にある君自身の形、僕の形、BUGの形……それらがどう動いてどう干渉し合っているか」
「でも俺は――色々な事があったからかも知れないけど、なんかもうこんがらがって訳が分からなってるっつーか」
「それが普通」
「どうしようもないくらいに……」
「でも、君はそれでも前に進もうとはしている」
「それだけじゃあ駄目なんだろ」
「そう、焦るのは良くない、でも、そうして闇雲にやって全く前に進まないという訳でもない」
「どうだろう……」
「それでも君が、今のままでは駄目であると思うならば……」
「どうすればいい?」
「何かの真似事でもいい、最初から新しい事をする事を求める必要はない」
「それは何の話?重力操作?武器の選択?」
「それもだけど……大事なのは、平面空間でも通用する、基本的な体術」
「体術?でも……」
悠月は笹川葵の機動を思い出していた。
彼女の機動、敵を駆逐する様を見ていても、秩序たる物というか――根底としてある基礎の様な物を感じる事は出来なかったからだ。
「『闇』のデッキを持つ彼女は、違う所から切り込んでいるきらいがあるね」
一々ドキッとさせる奴だな、と悠月は思う。
「違う所」
「何万人に一人か位、他の人間には決して為し得ない公式を作り、それで何とかやっていけてしまうような、所謂天才がいる」
葵に比べたら、俺なんて天才でも何でも無いって事か。
悠月は素直にそう思う。
「だからシステムも、あのデッキ、そしてCスキルを選んだんだろう」
「デッキが選んだ?」
「デッキの『一文字』はランダムに決められる物では無い、という事」
「それってどういう……」
「今はあまり詰め込まない方がいいだろうから、それ以上は言わない」
口元も目も笑っていないのに、笑っている様な口調で彼は言った。
「彼女は確かに凄いから、君は勿論彼女になれないし、僕だってなれない」
「それにアイツは、毎日のように仮想空間で模擬戦やってるって聞いた、神町経由で」
「そう、努力の天才でもあるよね……ああ、だから焦ってたのか」
どうやら、少年は人の心が読めるという訳では無いらしい。
「だとしたら、本当に勿体無い。彼女を抑えられる程の潜在能力が、君にはあるというのに」
「潜在能力?」
「そう――」
マシロの目が、瞬きを一度する間に逸れる。
「人の奥に潜在する物を、容易に取り出せるこの世界では、しかし、その量が多ければ多い程、混乱に陥ってしまう事だってある……『この空間との相性』を考察する中でも、それはただ単純に合う合わないとかで分けられるものではないのは、そういう要素も関わって来るから」
「……」黙って頷く悠月。ディティールなどはどうでも良いのだ。流れさえ分かれば……
「だから、潜在する能力を取り出す事が苦手ならば、それを正しく取り出す方法を体得しなければならない。誰かの真似事でも、それは十分」
「型破りな戦い方は、まだ俺にはできないって事か」
「型が無ければ型を破ることは出来ないよ」
マシロは言葉を吐き終わった後で深い息をついて、折れそうな位細い腕をふらつかせながら立ち上がった。
彼の目線が下から、空の方に首ごと移動する。漏れ日がマシロの顔の白を反射し、表情が読み取れなくなる。
「ああ、疲れた。こんなに長く話したの、久しぶりだったから……」
奔放そうで、人と接する事にエネルギーを使いそうには見えない、と悠月は感じていた。
「素直だね、君は」マシロは最後に、まだしゃがみ込んでいる悠月にそう言った。