1-8 Stage:バトルスタジアム[中層]
真っ黒だった彼の画面或は視界には、やがて映像が宿った。
視界、その全体を占める物を映像と呼ぶべきではない、「今自分がいる此処」と呼ぶべきだろうと悠月は直感的にそう思った。
左右からのびた寂れた観客席が、中央にあるモニターと階段に至るまで、緩やかなカーブを描いている。円形のドームか何かの様だ、ここは。誰もいない観客席とフィールドがナイターの光で真白く輝かされている。ナイターの光があるという事は、今は夜だろうか。空は真っ黒だが、星は見えない。悠月の視線のふらつきに同調するかのように、彼の足は動き出す。地に足が付いていても、鋭敏な動作反応に変わりはないらしい――その反応にまだ慣れの来ない彼の身体はよろめき、咄嗟に縺れた足と共に手が前に出る。
「……?」
――画面とかを介した映像などでは無い事は確か……一種の催眠みたいなものだろうか?
彼は芝生の地面に手を付きかけたまま考える。付きかけていた手を、口元に近づけ――息をしていない。それは即ち、この身体が悠月の実際の肉体ではないという事を、少なくとも意味している。しかし、それでもまだ彼は信じられないといった顔つきで、ゆっくりと体勢を直立の物と変える。自分は最早、学校の地下にすらいない。グラウンドの真ん中の、芝生のど真ん中にいる。悠月はなお把握出来ない状況を掴み取ろうする。
「よう、来たか」
背後で声。悠月は振り返り、少年を仰ぎ見る。そう、仰ぎ見る――少年、神町将司は、観客席の一番上方座席に立っていた。
「……神町、……なんでこんなところに」
悠月が言い終わらない内に、将司は前方の座席の背もたれに足を掛け。そのまま、悠月の立ち尽くす場所向けて走り出した。座席の背もたれ――細い足場を、踏み外す事無く、加速。速度増すごとに、奥から手前にいくに従って、座席の形の歪みは酷くなっていく。そして、彼が背もたれで無く、一番先頭の座席そのものに大きなクレーターを作り、その足が離脱した時――
彼は空中に飛び上がった。
幾度と無く回転する身体に妨げられ、悠月の視界で明滅するナイターのぼやけた光が映る。
やがて、彼は悠月の真上に。
その時、彼は見た。将司の右腕は、大きく――何物をも潰してしまいそうな程、巨大な拳。見間違いだろうか、悠月は一瞬そう思ったが、どうやら確からしい。彼の頭部の二つ分はゆうにある機械的な拳が、悠月の頭部を目がけていた――
瞬間。
風圧と共に、後ろに下がる感覚。
衝撃、
地響き、
巻き上がる砂埃。
気付いた時には、悠月は自分が今までいた場所とは数メートル離れた場所で片膝をついていた。
彼の立っていた場所では、将司の繰り出した『拳』が亀裂を走らせていた。『拳』は武器の様だ。巨人の腕を模した、アームド・アーマー。似たような型の装備を、悠月は[Another]で見た事がある……
「よう、避けれんじゃねえかよ、お前」
――避けた?
――僕が自分で『動いた』とでもいうのか、本能的な反射で?
そんな事あるわけが無いのに、彼は訝しげに目を細める。
『この空間』での経験など全く蓄積されているわけなど無いのだから……
「いや、お前……殺す気かよ?」
「安心しなさー、受けた攻撃はダメージゲージの減少って形で数値化されるだけの話で、実際には実害も痛みも無い。まあ、そこはゲームと同じだってこと」
「そんな……いや、都合良過ぎっつーか、あのさ、この空間って、マジで――」
またも言葉は遮られる。将司の背後に、大量の光のカードが円を描いているのが見て取れたからだ。『ウェポン・スクエア』……[Another]の戦闘システムの象徴、引けばそのカードに適合する「武器、装備」を取り出せるプレイヤーの「支配能力」の一つであるという事は、見るに明らかだった。
「別に驚く様な事でもねえんだぜ?」
は?と悠月が短い呼吸に似た声を発した瞬間、将司の追撃は迫っていた。
横に身体を振り回しながらの、裏拳。
だが悠月自身はそれがどんな攻撃かという事すらも考える事無く、ただ本能のままに避ける。つまり、それが悠月に今できる事の精一杯だったのだ。
追撃は止む事無く、次の拳。
再び。
四回くらいの追撃を避けた所で、不意に手があらぬ方向へ伸びた。悠月の手が、だ。
その動きを見て、将司は攻撃を止めた。だが悠月はそんな事など気にも留めずに、手の伸ばした先――空中に漂う光の四角形に釘付けになっていた。
――何故、『これが』……
悠月は数秒躊躇った。果たして悠月は、それに触れた。
四角形は光の粒子となって四散し、
そして結合し、一つの形を作りつつあった。
それが何であるという事は、既に悠月の脳内に記録されていた。
粒の中に線が浮かび、彼はその線に平手をなぞらす。
ここだ、という所で右手を深く握りしめる。
既に形成だけはされているらしい。
見えない感触、
手に残る抵抗が在る。
右手をゆっくりと動かしていると……
ある時、
銀色の鋭い光が流れる様に抜けていった。
形はようやく見える物となった。粒子の残留物がすっと弾け消え。
現れたのは一つの『刀』だ。
太刀という日本刀――長く、光り輝いた刀を、悠月は手慣れた様な挙動で構えてみる。
「これが……」
『ようこそ、[Another]の世界へ』
いつの間にか、巨大モニターに映像が映し出されていた。雑音とノイズの入り混じる画面の中で、一人のニヒルな男の顔面が浮かび上がっていた。
「よーう、先生!」
「先生……!?」一瞬は驚く悠月だが、まあ妥当な風貌ではある。
『随分と早い、それに荒業のようだが、ちゃんと案内は出来たのか?将司』
将司が一瞬ビクッと身体を震わせて首を傾げる。
「いやそれがこいつさー、俺が行った時にはもう筐体に入ってるみてーだったから……」
『……今なんと?』
「でもこの通り、安全に接続できてるみたいだからとりあえずはいんじゃないすか……ね?」
どうやら悠月は正当な案内を受けていなかったらしい。
『お前な……』
『先生』と呼ばれたその男性は溜息をついた後で、視線だけを静かに揺らめかせ、刀を握りしめた悠月の方を捉える。厳格な面構えに、悠月はかえって教師――というよりは、何か別の厳しい使命を帯びている様に感じられた。
『佐伯悠月君、突然この様な体験をしてもらって混乱していると思う。説明が至らずして巻き込んでしまってすまない。私の名は香流晃一、一応君らのクラスでも数学を教えている』
「お堅いなあ」将司が軽く拳を振りながら言う。
『お分かりの通り、この世界は現実ではない……そしてこの世界での法則についても、君はよく知っているはずだ。しかし当然、君の抱く疑問は多いはず』
「……この身体は?」
『今の君はアバターだ……と説明して解るだろうか』
「なんとなくは分かり……ます」
『いや、解るというのは言葉の上での意味ではなく……つまり、正しい概念が言語として伝達可能なのだろうか、という意味なのだが……まあ、とりあえずはヘッドホン型の機器を通して君の脳はこの世界に接続されている……と言っておけば良いだろうか』
「やっぱ局長に説明させた方が良かったんじゃあ」
将司が横槍を入れる。悠月は取り残されている様な感覚に浮かばされつつも、刃の柄に沿わせた指を順々に折ったり開いたりしながら、的確な説明を待っていた。もう指を遊ばせる程に、身体は慣れている。
『彼が来るのを待っている猶予は無い』
「猶予?」
『そうだ、悠月君……私達には猶予が無いのだ』
それをまず最初に説明しなければならない――と、香流が口を開こうとした瞬間。耳鳴りと地響きが同時に、悠月と将司に居る空間を襲った。いや、耳鳴りのが先に来た――悠月はそれを「察知」して、「咄嗟に」身を屈めたのだ。
ボタンを押すより簡単な挙動だ。
『どういう事だ』
『異なる二つのフィールドが相互に干渉しあっています……これは間違いない!BUGによるクラッキングです!』
『ええっ!?』『そんな……』
『何故開かれた……!こちらから鍵を差し向けてはいないはずだ』
『まさか、あの少年の鍵としての力が、予想以上で――』
『八雲!接近を遅らせるだけでいい』
途切れ。その間に流れる怒号と雑音。
『だめです、ここにあるコンピューターでは埒が開かない――これまでに無く強いエナジーを持ったBUGと見て間違いないでしょう』
『何もかも間が悪すぎるぜ』
『ならば、本拠にあるスパコンへの接続を許可する! 彼等が奴の巣に引きずり込まれるのだけは何としても回避しろ』
『……わかりました』
懐かしさを帯びたダイヤル音。
『強制離脱は? もしもの時は間髪入れずやれと言っただろう!』
『信号確認と同時にやりましたよ』
『こちらの挙動を何もかも上回っている!くそっ、既に何層ものブロックがかかっています!』
『万事休すか――』
『まだだ!将司、悠月君!俺の声がまだ聞こえるか!?』
モニターの奥が雑音と共に揺れ動く中で、今迄は気付かなかった香流以外の声もが飛び交っている事に悠月はようやく気付く。
「グラビティ・スクエアはこのステージじゃ使えねえのか、先生! 使えりゃまだ引きずり込まれんのを回避できる手段は、あ……」
将司の悲鳴に似た叫びが、この世界にも飛ぶ。非常事態なのだろうか……悠月は身を屈めたままで、覚束ない思考を走らせる。しかし、右手の剣は離さないように。状況が把握出来ないながらも、何かあれば「こいつ」が何とかしてくれる……『なんとかしてくれる』?これは確信?そうであればいいという願い?
――いや、それより『俺は何をしなければいけないんだ?』
そもそもこの異常を食い止めるために、自分はこの世界に放り込まれたのではないのか……悠月はそう直感していた。
――いや、普通に考えてそうであるに違いない……
否、
そもそも何故、自分は自分の意志でここまで来ようと思ったのか?
こんな状況で考えられるはずも無い問題だ。
激しく揺れ霞みがかった視界の中で、しかし悠月は確かに、地面が裂けるのを見た。亀裂は悠月らの足元にまで走り、次の瞬間には穴が開くだろうという確信が彼の脳内を満たした。
「やべえ!先生、……」
そこで将司の声が途切れてしまったので、悠月は首を振って将司の姿を探した。自分を支えていたものが急に崩れ、開けた穴の底に広がる黒が悠月の肌を冷たく震わせる。破片が辺りを無茶苦茶に舞い、悠月も無茶苦茶に辺りを見回した。伸ばされる手。それが将司の手だという事に、すぐには気が付かなかった。だから悠月の手を伸ばすのも、遅れてしまったのだろう。彼が手を伸ばした時、将司は四散する破片と粉塵の影に消えてなくなり、悠月は更に落ちていった。




