Prologue, Monologue
「BGMはないのか?」
「え?何?」
「フィールドで流す音楽だって」
「この空間の最終的な目標は個人の内にある『小さな世界』どうしが諍いを起こさないために、絶対的に守られる自分だけの箱庭を作る事。これはそれのプレーン・フィールド。いわば全ての素体。貴方だけの空間が出来た時の要求する事ね……というかそれは必要な物?」
「良い音楽なら……良い音楽は物語を運ぶのを助けてくれるから、ゲームとかなら」
「機能的に再使用されている様な物でも?怪人AとBゴーレムが違うキャラクターでもボスという冠の元に同じBGMが定義付けられてしまう、という事だってあるでしょう?」
「なら……ええと、これはどう?僕が作るシーンにぴったり合った音楽を付けるんだ、コンピュータが自動的に、リアルタイムでさ……ゲームっていうのは自分の選択で自由に展開を作る事が出来るだろう?あるいはそう思わせられる事で自分がその世界に没入する、という感覚を得る」
「それは……難しい事を要求するのね」
「音楽に合わせて僕が踊った方がいい?」
「そういう邪推な考えはおよしなさい、というのが本音ね」
「ははは、およしなさい、だって。何年前の人間だよ」
「仮想空間への没入制限を解除します。以降貴方は現実との接触の一切が遮断されます」
「本当のフィールドに入る訳か……」
「片足を突っ込む、の方が正しいかしら」
「最終制限を解除するまでは、起こる事が想定されている。決意のための空白って事?」
「いいえ、この制限を解除すれば貴方はもう戻れない……審判の時までの、安らかな待機の時間を享受する事ね」
「何が起こるかな?精神が仮想空間に取り込まれるとか?もしかして記憶が無くなるかも……」
「悪い可能性を想定して嬉しそうにするのは貴方ぐらいのものよ」
「悪いものではないさ。それに、あの世界にさえいければなんだってできる。空だって飛べる」
「長く入り浸り過ぎない事ね」
「うん、土産話を君やみんなに持って帰るのが一番の楽しみかな」
「また後でね」
「うん、また後で」
――――そこからの記憶が無い。もしかしてこれは後付けされた記憶なのかもしれない――――
はじめに光あり。はじめそこにあるものは一つの光でしかない。そんな単純な世界であれば、こんなに困ることなどなかったのだ。実際の世界はカラみ合っていて、静かに残酷で、そのクセなにもない。終わる日の夢を何度も見た。待っていると、やがてその日はやってきた。何もかもが滅茶苦茶にされた日。僕はそれを神様だと思って崇めまくった。だがやがてその日は終わり、変わりない連続も再びやってきた。だから今日はそれの一部だ。今日も僕は、裏切ない朝の灰色の光で、ベッドの上で、目を覚ますのだ。安息と閉塞が朝を満たすのだ。そう信じて僕は目を開けた。今日という奴は僕を裏切った。開けた視界の前に初めて現れたのは、いつもの部屋の天井ではなかったのだ。
空。
話にならない程広々とした、色濃い空。
それを隔てる物は何も無い。大気すらも感じられない。
それくらいに透き通って見えた。
だが、何故だろうかそれが心地良いとは思えなかった。
空だけではない、海もあった。コンクリートで固められた灰色の海だ。
どこまでも灰色の海が続いていた。遠くの方は靄の所為で確認出来なかったが、この世の全てがそこで途切れている様な気がした。
僕そのものは、現実味の無い程真っ青な空を眺め、高い高いビルの屋上、それも手摺の向こう側に立っていた。今にも下方の海に飛び込んでいけそうなバランスを、目を瞑ったままにどうやって保てていたのか――それが不思議な事であると認識するのに、数秒も掛けた。
自分がここにいるのは確かなのに、どこか遠くにいる感覚。
ここに来るまでの過程が思い出せないからだろうか?
そういえば。
僕は視線を動かし、下にある物を見ようとした。
急速回転して切り替わる風景。
灰色。白いライン、無機質。
地面だった。
しかし……
何も映していない。
誰もいない。
人はいない。
クルマ、烏。それもない。
誰も何も……僕以外の、何もかも。
悲しみとかは生まれなかった。ああそうなのか、という感じだ。何故、自分は無表情のままでいられるのか。無である事を装う事で、何かを抑え込めてしまえているのか。そしてそうか、僕は起こる事を知っていた。知っていたから落胆しているのだ。それがああそうなのか、という感じになって顕れているのだ。僕は少し僕の事をわかってきた。
しかし、何故だ?何を知っていたのか、僕はそれを知りたくないと思っている。それを知る前に、今ここから飛び込みたいと思っている。
近づきたい気持ちと、投げ出したい気持ち。ずうっと開けた目が乾燥して貼りつく程に、熟考。わからない、わからないと心の中で繰り返し、僕が再度見上げた先の空で。
一つ、此方に近づいてくる点があった。
「何だろう…」
その存在を目にした時、僕は、『そのセカイで』初めて言葉を発した。
やがて、近づいてくるそれの形ははっきりと見えた。
人だ。人の形……
あんな広い空に、たった一人。
それだけで、警戒の念など消えていく様な気がしていた。
落ちてきているのかな?
僕は考えた。
そこまで考えた所で、急速に引かれるような力に、あっ、と声を漏らした。
瞬きの間。
するっと何かが抜けていって、
落ちる、という感じ。
ほんの一瞬の内に、視界は空では無く、地面の真下の閑静な道路に移り変わっていた。
──今の僕は微妙なバランスの上で立っている、という事をすっかり忘れていたのだ。油断の末にそれを無くした僕の体は、ビルとビルの間の谷を、回転しながら落ちつつあった。死ぬ、という気は何故かしなかった。いや、気はしていたけれど何故か僕はそれを恐怖として認識していなかった。それよりも、風が体に入って痛い、目に入って痛い……早く静かになってくれないかな、という感じ。そんな感じがすっとおさまったのは、ぐるぐる回る僕の視線が、ビルの硝子面に映る姿をとらえた時だ。
手足があちこちに引っ張られている様な体勢。
学生服みたいな水色のシャツに黒いズボン。
そして、真っ白に棚引く髪は、男性にしては少し長い位だ……
スローモーに、僕の目は見開かれていく。
落ちている事すら考えずに、その姿、つまり僕自身の姿を観察していた。
次に僕が見たのは、背中の後ろに付き纏うかのように浮かぶ、複数の長方形。
カード?
多数のそれは自由気ままにあっちこっちに浮いているわけではない。誰がリーダーで隊列を組め、と呼びかけているどうか分からないけれど、それは綺麗な円の形を描いている。それに対して身体は反応する。手が動く。カードを掴む、それがするべき動作であるという事を知っているのだ。
耳鳴りがして、僕は再び上を見上げた。まだ、近づいてくる影。人の形をした「影」は、黒いマントみたいな物に姿を隠している。風に激しく揺れる布のスキマから、光るのは銀色の、剣の切っ先……
瞬間、全ての物が静止した。
僕の体は、「影」の刃に貫かれる。
そんなビジョンが少しでも瞼の裏を過った。
ゆっくりと目を開けて、僕の手にいつの間にか握られた白色の刃と、「影」の刃が接触し、嫌な音を弾かせているのを見るまでは。