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骨董店の店主

作者: くまたろう

その町は、何百年も昔から時が止まっているかのように、古びた景色を保ち続けていた。


長い年月の風合いに染まった木造造りの日本家屋は、凛としながら美しい姿で佇む。


町の長屋の一画に、店を構える若き骨董店の店主はいつも、縞模様の甚平か藍染めの浴衣を身にまとい、袖のたもとへ組んだ腕先をつっこむのが気に入っていた。


毎日、陳列の棚に並べた骨董ひとつひとつに向かい合って、話しかけながら、その品にあった手入れを施すのが日課だった。


「やぁ今日も寒いねえ。」


店主は、掛軸に描かれた猫に向かって話しかけた。


もちろん、返事なんてあるわけがない。


掛軸には、小さなシミができていた。


絵のなかの猫に覆いかぶさるように、ポツポツとまだらを作って、掛軸全体を蝕んでいる。


もともと個人宅の土蔵で見つけて買い取った時から保存の状態は悪く、専門家にはこれ以上の修復はムリだと言われた。


それでも、ひとめ見たときから、店主はこの絵の猫に強く惹かれた。


猫の生き生きとした表情や、可愛らしい仕草はなんとも言えず良く、見るたびに心を和ませてくれるのだ。


傷みが激しいため、売り物にはならないだろう。


しかし、店の壁にかけて、いつか客がそれを見つけて褒めてくれる日を、ずっと待っていた。


だが、シミだらけでぼやけた掛軸など、誰も目に止めやしない。


シミは毎日、少しずつ、広がりを見せた。


店主は深く悲しいため息をついて、掛軸の前を離れた。

店を開ける準備を始めると、ガラリと店の引き戸を開け、軒先に紺の暖簾をかける。


よく冷える朝だ。

吐く息が、白く雲っていた。


外はしぃん、と静まりかえり、人っ子ひとりいる気配はない。


白いものが空から舞い降りて、下駄のつま先に、ふわりと溶けて消えた。


雪だ。


店主は仄暗い白空を見上げ、どおりで今朝は一段と冷えるわけだと思った。


ぶるっと身ぶるいし、腕をたもとにしまう。


猫背になって縮こまりながら、店の中へ引っ込もうとした瞬間。


急にあたたかなものが、足元に触れた。


驚いて下を見ると、雪と見間違えそうなほど真っ白な子猫が、こちらをじっと、見上げていた。


いつの間に近寄られたのだろう?

気づかなかった。


小さな猫は、みぃ、と凍える声で鳴いた。


「……おはいり。」


店主は、今日一番目の客を、店の中に呼び入れた。


引き戸を閉めて振り返ると、猫は、陽の当たる窓辺の椅子を選び、ちょこんと座っていた。


木目が美しい、古い木の椅子だ。


「ああ、そこはダメだよ。」


注意したところで、人間の言葉が猫に通じるはずもない。


店主一番のお気に入りの場所を陣取って、猫はくつろぐ。


「やれやれ。困りましたね。」


店主は苦笑すると、手を差し伸ばして猫を持ち上げた。

あいた椅子に座ってから、猫を膝の上に戻す。


猫は何事もなかったかのように、おとなしく背を丸めてうずくまった。


店主の手が、猫の柔らかな毛並みを撫でる。


雪の化身のような白さなのと、雪の日にやってきたことから、店主は、猫をユキと名付けて呼ぶことにした。


ユキは毎日どこからともなく姿を現して、ぽかぽかと暖かい椅子の上に座りに来るようになり、ひと冬をそこで過ごした。


暖かくなり始めて、鳥がさえずえりだしたころ、ユキは、パタリと来なくなってしまった。


掛軸は傷みがさらに進んで、猫の姿は闇に飲み込まれるように、消えかけていた。


ただ、シミの暗がりの向こうから、猫の金色の瞳がらんらんと輝いて、店主を見つめ返すのだった。


ユキに会えないまま、春が終わり、夏が過ぎて、秋が散っていく。




再びの冬。


店主が店を閉めようとすると、コトン、と戸口の向こうで音がした。


気になって戸を開けると、そこには15、6歳ほどの少年がちょこんと立っていた。


色白で痩せていながら、目だけはらんらんと力強く輝いている。


「ねえ、まだお店、あいていますか?」


もう店じまいにしようと思っていたのだが、店主はにっこり笑って、中へ通した。


少年は店の中をまっすぐに進むと、猫の掛軸の前で、ピタリと足を止めた。


「この掛軸、もう真っ黒だね」


「いいや、そんなことはない。ほら、この辺りなんてどうだい。綺麗じゃないか。」


店主は少しわくわくしてきた。

初めて、お客がお気に入りの掛け軸に気付いてくれたのだ。


「……この絵を、僕に譲ってくれませんか?」


少年の突拍子もない言葉に、店主は驚いた。そして、慌てて首を横に振った。


「いいや、これは売り物ではないんだ。それに、こんなに状態の傷んだもの、君にも誰にも売れないよ。」


「……ありがとう。大事にしてくれて。」


少年は断られたのに、嬉しそうだった。


「え?」


「この掛軸は幸せ者だね。こんなにも愛されて。ずっとひとりぼっちだったけど、忘れ去られていた暗い土蔵から引っ張り出してもらえて、こんな風に飾ってもらうことができたんだもの。」


店主は驚いた。

まるで、ずっとそばで見てきたかのように、店主しか知らないことを言い当てたからだ。


「この掛け軸は、僕の家にあったものです。……以前、父があなたをお招きして、蔵の整理をしているのを見かけました」


店主は、あのお客にこれくらいの年頃の息子がいただろうかとふと疑問に思い、なにか思い出そうとしてみたが、少年はその隙を与えずに、さらに話しかけた。


「このお店、僕、好きです。また、来てもいいですか? ……買い物はできないかもしれないけれど」


少年の真剣なまなざしに、店主は笑って答えた。


「はは、いいんだよ。そんなの気にせず、いつでもおいで。」


すると、少年はうれしそうに、にっこりと笑った。

それ以来、毎日のように、少年は店に立ち寄るようになった。


そして、店主のことをなぜか「先生」と呼びたがった。


理由を聞くと、少年は「学校の先生よりも物識りで礼儀正しくて、頭が良さそうに見えるから」と、なんともコメントのしにくいことを言ってくれた。


窓辺にある、古い木の椅子に腰掛けて、少年がうとうとと、まどろむ。


冬の、弱くやさしい日差しが差し込む、その場所で。


外では、白い大粒の雪が降りしきっている。


「先生。今夜はきっとつもるね。」


「ああ、そうだね。」


店主が窓をながめると、あたりは日が沈み、暗くなり始めていた。

店のなかは、静かな暗がりが広がりはじめて、ぼんやりとした影が落ちる。


色あせて、闇にのみこまれていくかのように。


「もう、今日はおかえり。家に帰れなくなってしまうよ。」


「……。」


少年は黙ったまま、窓辺の椅子から外を見つめた。


「どうしたんだい? 今日は帰って、また明日おいで。」


「僕の帰る場所は……。」


少年は、目を伏せた。


「今夜、ここに泊まっていってもいいですか?」


店主はドキリとして、少年を見た。


「それは……まず、家の人に連絡をしないと。心配するでしょうからね。」


すると、少年はかぶりをふった。


「いいえ。もう、誰もいません。」


その目は、さみしそうに笑っていた。


店主には、ある予感があった。


それを確信するのがこわくて、それ以上、聞くのをやめた。




夜になって店じまいをすると、ふたりは夕食を食べ、腹一杯になってくつろぎながら、部屋の縁側から庭をながめた。


庭には、古い大きな木があった。


少年ははだしのまま、庭に出た。


白い雪が降りつもった上を、寒さなど感じていないかのような軽やかな足取りで、進む。


細い手で、そっと木に触れて、撫でた。


「この木は、桜?」


少年がたずねると、店主はうなずいた。


「そう。わたしの生まれるずっと昔から、そこにいるんだ。でももう、花をつけなくなってしまってね。ずっと、眠ったままなんだよ。」


少年は、身体を木の幹にあずけて、目を閉じた。


「僕も、そろそろ眠りたいなあ。」


店主は慌てて立ち上がり、声をかけた。


「ああ、いけない。子供は寝る時間だったね。寝床の支度を……。」


「ちがうよ、先生。」


少年は瞳をあけ、いたずらっぽく店主を見つめた。


まるで店主の心の中の不安を見透かしているような目つきで。


「ねぇ先生。僕をここに埋めてくれる?」


店主はこわばった顔を上げ、少年を真顔で見た。


「僕、ここで眠りたい。」


店主は引き止めようと焦った。


「そんなところで眠らなくても、お前には、あの窓辺の椅子があるだろう? あそこはもう、君の場所なんだよ。」


「ううん、僕、ここがいい。」


少年は、かたくなだった。

強い意思のこもった口調でありながら、少年は、幸せそうな笑みであふれていた。


「ね。先生、約束。」


店主に向かって腕をのばし、小指を差し出す。


「あの椅子はお前に譲るから、まだ、そばに居てくれないか?」


もう引き止めても無駄なのだと悟りながら、店主はあきらめきれずにいた。


「また会いに来ます、先生。毎年、桜の咲く頃には必ず。」


店主は、泣きそうなのをこらえて、目をぐっと閉じ、少年と無言で指切りを交わした。


急に絡めた小指の気配がなくなって、目を開けると、そこにはもう、誰もいなかった。


店主は、何かに弾かれたかのように慌てて店内へと駆け込み、掛軸の前で、ガクンとひざを落とした。


シミだらけの掛軸には、もう猫の姿はどこにも見当たらなかった。




まだ溶け切らない雪をかけわけて、店主は木の根元に、小さな穴を作った。


そのなかへ、そっと大事に掛軸を置くと、土をかけて戻した。


「約束。待っているからな。」




それからというもの、店主は心にぽっかりと穴があいたようになった。


お気に入りの窓辺の椅子には、誰も座りにこなくなった。




雪がとけて、だいぶ日もたったある日。


店主は久しぶりに、誰も座らなくなった椅子に、そうっと腰掛けてみた。


窓の外は暗く、月夜がやわらかな光を降り注ぐ。


ユキが、ながめていた景色だ。


いつも、ふらりとやってきては、ここから眺めていた。


懐かしむ店主の目に、白い小さなかけらが映った。


それは風に乗り、ひらひらと舞う、白い花びら。


店主は思い出したように、縁側のある部屋に駆け込み、庭に出た。


強い風のうなりと共に、桜の花びらが店主の身体をとりまき、踊るように舞う。


ユキが、春を引き連れて、戻ってきたのだと思った。


「ありがとう、お前。また、会いにきてくれたね。」


ほほえんだ目から、涙がこぼれ落ちる。


「おかえり。」


それは、久しぶりに流したあたたかい涙だった。





< お わ り >









さいごまで読んでくださり、

ありがとうございます。


お気に召していただけましたら幸いです。

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― 新着の感想 ―
[一言] どこか浮世離れした雰囲気ですが、事物の細かい描写、特に古い事物に関して丁寧に表現されていますね。舞台が骨董店であることにも通じる統一感があって素晴らしいと思いました。
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