第9話 比喩の遅れる土地
王都へ近づくにつれて、景色は少しずつ変わっていった。
畑は増えたが、色は薄い。土は痩せ、植えられた作物もくすんでいる。小さな村や修道院が点々と現れるが、どこも屋根は低く、鐘楼は短い。高いものを嫌う国なのだろうか、と最初は思った。だが違った。高く作れないのだ。
空が近すぎるから。
灰色の天井は、王都へ向かうほど本当に低くなっているように見えた。圧迫感がある。手を伸ばせば届くというほどではないが、雲と空の境界が曖昧で、世界に蓋がされた感じが消えない。
「気のせいじゃないよな」
私は幌の隙間から外を見ながら言った。
「空、低くなってる」
「はい」
エナが答えた。
「王都へ近いほど、墓の力が強いので」
「空と墓がつながってるのか」
「つながっている、と考えられています」
「考えられてるのか、そうなのか、どっちだ」
「わからないことは、だいたい考えられています」
ネムが小さく笑った。
「この国の学問は、半分が記録、半分が言い換えです」
「信用できないな」
「ですが、言い換えなしでは人は耐えられない」
「比喩ってことか」
「ええ」
エナは少し考えてから言った。
「この土地では、比喩が遅れて届きます」
「前にも聞いたな」
「たとえば、“王が国を食べる”という言い方があります」
「怖いな」
「最初はただの言い回しでした」
「最初は」
「今は少し、本当にそうです」
「少し本当、の幅が広すぎる」
ネムが書類箱を抱え直しながら口を挟んだ。
「この国では、言葉が制度に追いつかれることがあります」
「どういう意味だ」
「昔は象徴だったものが、何百年も続くうち実務になる」
「王が半分死ぬとか?」
「ええ。あれもおそらく起源は儀式の比喩だったのでしょう」
「それが今は制度」
「制度は、長生きした比喩です」
私はエナを見た。
「前も似たこと言ってたな」
「たぶん本当だからです」
その考え方は妙に腹落ちした。
元の世界でもそうだ。
“家族のような会社”は比喩だったはずなのに、本当に私生活へ踏み込んでくる。
“風通しのよい組織”は比喩だったのに、責任の穴だけがよく通る。
言葉は長く使われると、現実を侵食し始める。
街道の脇に、小さな石碑が見えた。ひとつではない。十歩おきほどに立っている。高さは膝ほど、表面に何か刻まれているらしい。私は目を凝らした。
「読めるかもしれませんね」
ネムが言う。
「試しますか」
「馬車止めるのか?」
「あなたの扱いはそれなりに重要です」
「嬉しくない特権だな」
先頭の護衛へ声をかけると、隊列は一度止まった。私は地面に降り、足を庇いながら石碑へ近づいた。
文字が刻まれている。やはり未知の文字だ。
だが読めた。
――ここより王都域。
――名を高く掲げるべからず。
――順を越えて望むべからず。
――死を忘れるべからず。
「入都規則?」
私が呟くと、ネムが頷いた。
「古い境界文です」
「“名を高く掲げるべからず”って何だ」
「出世欲を慎め、家名を誇るな、功績を吹聴するな、など諸説あります」
「嫌な国だな」
「とても」
ネムはしれっと言った。
「“順を越えて望むべからず”は?」
「継承順位の混乱を防ぐため、と一般には」
「一般には?」
「他にも、身分違いの婚姻、職位の越権、相続争い、兵の独断など、何にでも使われます」
「便利な脅し文句だな」
「制度はそういうものです」
私は最後の一文を見た。
死を忘れるべからず。
「これ、宗教か?」
「半分」
エナが言う。
「残り半分は行政です」
「この国、行政が暗すぎるだろ」
護衛兵が早くしろと声を上げたので、私たちは馬車へ戻った。
走り出したあとも、私はさっきの石碑の文を反芻していた。
名を高く掲げるな。順を越えるな。死を忘れるな。
抑圧を詩の形にして並べたみたいな文句だ。
だが、それが何代も石碑として立ち、道ゆく者に見られ続ければ、人はやがてそういうものだと思い込む。
比喩は遅れて届く。
そして届いたときには、もう個人の感覚より大きくなっている。
「なあ」
私はエナへ向き直った。
「君、埋葬官になりたいと思ってなったのか」
「なりました」
「思っては?」
「……少し違います」
「どう違う」
「向いていると言われたので」
私は黙った。
今日、二度目に聞く嫌な言葉だった。
「向いている、って便利だよな」
私は言った。
「断りにくい」
「はい」
「しかも、引き受けたあとで壊れても、“向いていたはずだ”って言われる」
「はい」
「君、嫌じゃなかったのか」
「嫌でした」
エナは窓の外を見たまま答えた。
「でも、誰かがやらなければ村の死者が埋まらない」
「だからやった」
「はい」
「やっぱり君も王に向いてるじゃないか」
その瞬間、彼女はほんの少しだけ険しい目で私を見た。
「それは、侮辱です」
「……悪い」
「わかっていないだけなのは知っています」
私は息を詰めた。
感情をあらわにするエナを初めて見た気がした。怒鳴るわけでも、泣くわけでもない。ただ、静かに拒絶する。それがかえって痛かった。
「王に向いている、という言葉は」
エナは低く言った。
「この国では、あなたは壊れても使える、という意味に近いです」
ネムがそっと視線を伏せた。反論しない。つまり、そういうことなのだろう。
馬車の中に沈黙が落ちた。
私は自分の軽さを恥じた。
わかったような顔で言葉を拾い、すぐ理解したつもりになる癖が、まだ抜けていない。元の世界でもたぶんそうだった。苦しんでいる人間へ、構造の説明を返してしまう。正しいことと、傷を撫でることは別なのに。
「悪かった」
もう一度言う。
エナは少しして、小さく頷いた。
「はい」
それで許されたわけではない。だが、その一言が受理されたことだけはわかった。
夕方前、街道は小さな丘を越えた。
その先で、私は初めて王都を見た。
遠く、灰色の空の下に、巨大な城壁が横たわっていた。
高いというより、長い。地平を切るように延々と続く壁。その内側に、低い屋根が無数に重なり、中央には塔ではなく、太い柱の束のような建物が立っている。天へ伸びるのではなく、空を押し返すためにそこにあるような形だった。
そして都の上空には、ほかよりずっと多くの骨魚が泳いでいる。
「……気持ち悪いな」
私は率直に言った。
「正しい感想です」
エナが答える。
王都は美しくはなかった。
威厳というより、圧力でできていた。
比喩が長く生き延び、ついに都市の形を取ったらこうなるのかもしれない、と私は思った。




