第7話 死者の記録帳
その夜、私は眠れなかった。
宿舎の寝台は藁が詰め込まれた粗末なもので、横になるたび小さな虫でも潜んでいそうな音がした。だが眠れない理由は寝具ではない。昼から頭の中に引っかかっているのは、関所の記録所で見たあの文字だった。
エナの帳面には、第十四の王が死んだ。
関所の帳面には、王位継承予定者第十四位が死んだ。
どちらも間違っていない可能性がある。
そんな説明は、会社なら最悪の報告書だ。だがこの国では、それが成立してしまうらしい。
部屋は二人部屋だった。向かいの寝台にエナがいる。彼女はとっくに眠っているのかと思ったが、闇の中で声がした。
「起きていますね」
「君もな」
「考え事ですか」
「まあ」
「第十四の件」
「まあ」
少しの沈黙。
窓の外で風が鳴り、遠くで夜番の鐘が一つだけ鳴った。
「見ますか」
エナが言った。
「何を」
「記録帳を」
「見せていいのか」
「本来はだめです」
「じゃあ何で言う」
「あなたが読めるからです」
「それ、かなり危ない理屈じゃないか」
「はい」
闇の中で衣擦れの音がした。やがて、小さな机の上に蝋燭が灯る。薄い光に照らされて、エナが黒い帳面を持っていた。革表紙は手の油でやや艶を帯び、角はすり減っている。日々開かれてきた本の傷み方だ。
彼女は机へ帳面を置いた。
「触らないでください」
「見るだけ?」
「まずは」
頁を開く。昼間と違い、文字は最初から薄く浮かんでいた。昨夜の記録が、乾いた血のような暗い色で紙に定着している。
異邦人一名、墓標を読む。
第十四の王、死亡。
骨魚、低空巡回。
村内死者、なし。
「間違いなくこう書いてあるな」
「でしょう」
「でも関所は予定者第十四位だった」
「はい」
「この差は何だと思う」
「私にはわかりません」
私は文字をじっと見た。読む、というより、文字のほうから意味が流れ込んでくる感覚がある。日本語でもないのに、頭の中では自然に理解される。
ふと、一行目の“異邦人一名”に目が止まった。
「なあ」
「はい」
「これ、俺の名前じゃないんだな」
「記録ではそうです」
「人名は残らない?」
「死に近い帳面には、名は薄くしか残りません」
「君が名を持たないのと同じ理屈か」
「近いです」
私は椅子へ腰かけた。蝋燭の火がわずかに揺れる。
「死に近い場所ほど、個人名が剥がれるのか」
「そう考える人は多いです」
「君は?」
「私は、逆だと思います」
「逆?」
「本当は名が濃すぎて、帳面が支えきれないのかもしれない」
私は彼女を見た。
その考えは、制度として習った説明ではないのだろう。エナ自身の言葉だった。
「師匠の受け売りか」
「半分は」
「残り半分は」
「私の考えです」
彼女は少し迷うようにしてから、帳面の別の頁を開いた。そこには古い記録が並んでいた。葬列、病、飢饉、流産、処刑、崩落。死に関する事柄ばかりだ。
「埋葬官の帳面は、死だけを記録しているわけではありません」
「どういうことだ」
「死へ近づく出来事を記録します」
「近づく出来事」
「たとえば飢え。戦。流行り病。名の剥奪。婚姻の破棄。継承順位の変更」
「後半、かなり政治だな」
「この国では政治は死に近いので」
納得したくないのに納得できる。
「じゃあ第十四の王の死っていうのは」
「実際の死ではなく、死へ近づいた記録かもしれません」
「あるいは王になった記録」
「はい」
「それ、ほぼ同じ意味なんだな」
「この国では」
私は額に手を当てた。
王になることが死へ近づくこと。
墓が先に用意され、名が剥がれ、記録が個人より先に動く。
この王国の制度は、統治というより巨大な葬送装置に見えてくる。
「エナ」
「はい」
「埋葬官って、王家に従ってるのか」
「従っています」
「でも王家を監視もしてるよな」
「はい」
「それで成り立つのか」
「長くは成り立ちません」
あまりにきっぱり言うので、私は少し笑った。
「じゃあ今、だいぶ危ない?」
「ずっと危ないです」
「正直だな」
「慰めが必要ですか」
「いや。変な慰めよりいい」
エナは帳面を閉じかけて、ふと止まった。
「あなたにも見せるべきものがあります」
「まだあるのか」
「読めるかもしれません」
彼女は後ろの見返しの内側から、薄い紙片を一枚取り出した。普通の頁ではなく、誰かが後から挟み込んだような紙だ。端が擦れて、何度も折りたたまれた跡がある。
「師匠が残したものです」
「遺書?」
「覚え書きです」
その紙に書かれた文字は、記録帳の文字とも少し違っていた。癖のある手書きらしい。だがやはり、私は読めた。
――王墓は未来を食う。
――ゆえに王国は、死者によってではなく、まだ死んでいない者の消耗によって保たれる。
――記録の順が乱れるとき、墓は王を選び直す。
――そのとき異邦人が現れるなら、数え直しが始まった徴である。
私は紙から目を離せなかった。
「これ……かなり物騒だな」
「師匠はよく物騒でした」
「そこじゃない。異邦人って、俺のことだろ」
「そうだと思います」
「数え直しって何だ」
「わかりません」
「墓が王を選び直す、って?」
「わかりません」
「君、肝心なところ全部わからないな」
「わからないことをわからないまま記録するのも、仕事です」
その言い方に、私は妙に感心してしまった。
わからないことを、わかったふりで塗りつぶさない。
会社ならむしろ逆だった。空白は許されず、見通しのない見通しが要求され、精度の低い予測が確定事項みたいな顔で並べられる。
エナのやり方は不親切だが、誠実ではある。
「師匠は何で死んだ」
私は問うた。
エナは少しだけ視線を伏せた。
「王墓の調査で」
「事故?」
「そういうことになっています」
「君は違うと思ってる」
「はい」
「殺された?」
「そこまでは」
「でも怪しい」
「はい」
蝋燭の炎が揺れた。
宿舎の壁の向こうで、誰かが寝返りを打つ音がする。
「王都へ行けば、その師匠の件もわかるかもな」
「わかるか、隠されるかです」
「どっちが多い」
「後者です」
「知ってた」
私は椅子にもたれ、天井を見上げた。
異世界へ来て二日目にして、私はすでに王家の記録のねじれと、埋葬官の師匠の不審死と、王墓が未来を食うという不吉な覚え書きに巻き込まれている。
たいした幸運だ。
「リョウ」
「ん」
「逃げたいですか」
不意の問いだった。
私は少し考えた。本音を言えば、逃げたい。元の世界へ帰れるなら帰りたい。帰っても会社が待っているだけだとしても、それでも今よりはまだ、世界の法則がわかる場所だ。
だが同時に、奇妙な感覚もあった。
ここでは少なくとも、物事が露骨だ。死は死として置かれ、制度は制度として人を縛り、墓は墓として王を待っている。元の世界のように、曖昧な善意や前向きな言葉の陰でゆっくり擦り減る感じが少ない。
「逃げたい気持ちはある」
私は言った。
「でも、逃げても別の帳面に載るだけな気もする」
「そうかもしれません」
エナは紙片を畳み、また見返しに挟み込んだ。
「眠ってください。明日は早いです」
「王都まで?」
「はい」
「着いたら」
「もっと眠れなくなります」
脅しなのか忠告なのか、たぶん両方だった。
蝋燭が消され、部屋は再び暗くなる。
私は寝台へ戻り、毛布を引き上げた。
目を閉じると、紙片の文が浮かんだ。
王墓は未来を食う。
墓は王を選び直す。
異邦人が現れるなら、数え直しが始まった徴である。
私は、数え直される側なのか、数える側なのか。
まだわからない。
だが少なくとも、もう帳面の外にはいないのだろう。
窓の外で、骨魚がひとつ、ゆっくり空を渡っていった。
見えなくても、その影が世界の上を滑っていくのがわかった。
この国では、眠っているあいだでさえ、何かに数えられている。
そんな感覚だけが、朝まで薄く肌に貼りついていた。




