第4話 第十四の王の死
馬車の揺れは、会社帰りの終電よりも容赦がなかった。
関所までの道は石畳ですらなく、乾いた土が轍になって連なっているだけだ。車輪が穴に落ちるたび、包帯を巻いた足首に痛みが走る。荷台の樽はそのたび鈍く鳴り、御者の男は舌打ちした。
道の両側には低い草地と、まばらな白樹が続いている。葉がほとんどなく、枝は骨の指のように空へ伸びていた。遠くには丘陵が波打ち、その上の灰色の空を、昼でもなお骨魚の影がゆっくり動いている。昼間だからまだまし、という感覚が自分の中に芽生えているのが怖かった。
エナは荷台の隅で、昨夜の黒い帳面を膝に置いていた。風で頁がめくれないよう手を添え、何度も同じ場所を見返している。
「そんなに気になるか」
「気になります」
「第十四の王の記録」
「はい」
「書き間違いの可能性は」
「ありません」
「絶対?」
「記録帳は間違えません」
「人は?」
「人は間違えます」
それで会話が終わるのがエナらしい。だが私は食い下がった。
「じゃあ、記録帳を読む人間の解釈が間違ってる可能性は」
「文字は明確でした」
「他の埋葬官にも確認したら?」
「関所に記録所があります。そこで照合できます」
「それを先に言ってくれ」
エナは私を見た。
「あなた、焦ると口数が増えますね」
「焦ってるからな」
「正常です」
「この世界の正常判定、信用できない」
正午を少し過ぎたころ、前方に石造りの門が見えてきた。関所だった。村の木と土の造りとは違い、そこだけ妙に堅牢で、灰色の石壁が左右へ長く伸びている。門の上には、またしても王の紋章らしきものが刻まれていた。円の中に、縦に裂けた王冠と一本の墓標。王権と墓が同列に描かれている時点で、この国の価値観はだいぶ終わっている。
門前には荷馬車が数台並び、旅人や商人たちが順番を待っていた。兵士たちの鎧は鈍い黒で統一され、肩当てに白い糸が巻かれている。喪章に見えた。
「服まで縁起悪いな」
「王都兵は常に半喪です」
「常に?」
「王が半分死んでいるので」
私はもういちいち驚かないことにした。驚く体力がもったいない。
順番が来ると、兵士の一人が荷台をのぞき込んだ。日に焼けた中年で、鼻梁に古い傷が走っている。彼はエナを見ると眉をひそめ、次に私を見て露骨に嫌そうな顔をした。
「何だこれは」
「王都への召致対象です」
エナが村長から受け取った木札を差し出す。
「墓読みにございます」
「本当に?」
兵士の視線が私へ刺さる。
「おい、読めるのか」
「たぶん」
「たぶん、だと?」
私は答える前に一拍置いた。会社員時代、こういう相手には即答より“慎重に見せる間”のほうが有効だと学んでいる。
「読めた墓があった、というのが正確です」
「面倒な言い方をする」
「元の仕事の癖で」
兵士は鼻で笑い、門の内側へ顎をしゃくった。
「記録所で照合だ。埋葬官も一緒に来い」
関所の内部は予想以上に広かった。荷の検分をする土間、兵士の控え室、小さな礼拝堂のような部屋、その奥に石壁に囲まれた静かな一室がある。そこが記録所らしい。中はひんやりと冷え、棚には黒い帳面がずらりと並んでいた。
奥の机に座っていたのは、片目に布を当てた痩せた男だった。年齢はわからない。三十にも五十にも見える。片目しか見えないせいか、顔の印象が定まらない。だが指先だけは異様にきれいだった。白く、長く、爪の端まで整っている。
「何の用です」
男は目を上げずに言った。
「村付き埋葬官見習いエナです。昨夜の記録照合をお願いします」
「案件は」
「第十四の王死亡記録」
その瞬間、室内の空気が変わった。机に向かっていた書記役の若者が顔を上げ、入り口の兵士が小さく息を呑む。片目の男だけがすぐには動かず、ゆっくりと羽ペンを置いた。
「もう一度」
「第十四の王死亡記録です」
「……生存王は第十三である」
「承知しています」
「承知したうえで?」
「記録されました」
男は立ち上がった。椅子の脚が石床を掠る。彼は棚から一冊の帳面を取り出し、机の中央へ置いた。革表紙は擦り切れ、金具は黒ずんでいる。エナの持っているものより大きく、重そうだった。
「こちらは関所第六記録帳です」
片目の男は私を見た。
「異邦人もいると聞きました」
「どうも」
「墓を読んだ?」
「そうらしい」
「らしい、ではなく」
「読むつもりで読んだわけじゃないので」
「……変わった話し方をする」
そう言いながらも、彼は私を追及しなかった。代わりに帳面を開く。白紙のページ。そこへ彼が指先を触れさせると、しばらくして薄い灰のような文字が浮かんだ。
日付。地名。死者数。通過葬列。病の報告。
そして、頁の下部に、昨日の時刻の記録がにじみ出る。
王位継承予定者第十四位、死亡。
私はそれを見て、背筋が粟立つのを感じた。
「……王じゃないな」
思わず口に出る。
エナがすぐに顔を上げた。
「何ですか」
「第十四の王じゃなく、王位継承予定者第十四位、だ」
「違います」
「違わない。そこにそう書いてある」
「昨夜の帳面には、“第十四の王”と」
「見間違いじゃないのか」
「私は見間違えません」
片目の記録官は、二人のやり取りを静かに聞いていた。それから、自分の帳面の文字を指でなぞる。
「確かにこちらでは、“予定者第十四位”です。王そのものではない」
「そんな」
エナの声が初めて揺れた。
「記録帳は間違えません」
「ええ。ですから、どちらも間違っていない可能性があります」
私は眉をひそめた。
「どういう理屈だ」
記録官は片目でこちらを見た。
「立場が変われば、記録も変わることがあります」
「そんな曖昧なシステムあるか?」
「この国ではあります」
彼は続けた。
「たとえば、王位継承予定者第十四位だった者が、昨夜のどこかの時点で“第十四の王”として記録されるべき条件を満たしたのかもしれない」
「でも第十三の王は生きてる」
「生きていても、王でなくなることはあります」
「半分死んだうえに、王ですらなくなるのか」
「珍しくはありません」
私はもう笑うしかなかった。この国の王制は、会社の組織図より複雑で、しかもずっと陰気だ。
エナは黒い帳面を抱え込むようにして立っていた。顔色が悪い。十七歳の少女がここまで動揺するということは、埋葬官にとっても本当に異例なのだろう。
「王都へ急ぐべきです」
彼女が言う。
「上位の記録所に照会しなければ」
「もう使いは走っています」
記録官が答えた。
「おそらく王都では今ごろ、あなたより先に騒いでいる」
「では」
「あなた方も行くといい。異邦人も連れて」
彼の視線が、再び私に止まった。
「墓を読める者は、たいてい記録のねじれにも近い」
「嬉しくない特性だな」
「嬉しいかどうかは関係ありません」
室内が妙に静まり返った。兵士も書記も、皆こちらを見ている。私はその視線の中に、ただの好奇心ではないものを感じた。期待と不安、それに責任の転嫁先を探す匂い。異常が起きたとき、組織はまず“何かの印”を必要とする。私はたぶん、その印にされかかっている。
関所を出ると、風が強くなっていた。空の骨魚が、昼だというのに低く旋回している。影が関所の石畳を横切るたび、兵士たちの顔に薄い不安が走る。
「リョウ」
エナが歩きながら言った。
「昨夜、私の帳面には確かに“第十四の王”とありました」
「うん」
「嘘ではありません」
「わかってる」
「あなた、少し疑ったでしょう」
「少しな」
「正直です」
「嘘をつくのが面倒なだけだ」
エナは数歩黙ってから、小さく言った。
「ありがとうございます」
「何が」
「全面的に否定しなかったことです」
「会社にいたころ、記録が食い違うのは珍しくなかった」
「それで?」
「だいたい現場より上の都合がねじれてる」
私がそう言うと、エナは初めて、本当にわずかに目を見開いた。
「王都も、そうだと思いますか」
「むしろ王都ほどそうだろ」
彼女はすぐには返事をしなかった。だが、その沈黙は単なる無言ではなく、何かを考え始めた沈黙だった。
関所の外では、次の王都行きの隊商が準備を整えていた。大きな幌馬車が三台、護衛の兵士が六人。御者たちの顔には露骨な嫌そうな色が浮いている。異邦人と埋葬官を乗せるのだから無理もない。
私は空を見上げた。灰色の天井の下を、巨大な骨魚がゆっくりと横切っていく。
その腹のあたりに、昼なお淡い青い灯がまた生まれ、ひとつ、ふたつ、地上へ落ちてきた。
風に流され、その灯は王都のある方角へ消えていく。
「なあ、エナ」
「はい」
「王都、今たぶん碌なことになってないよな」
「ええ」
「引き返す選択肢は」
「ありません」
「だろうな」
私は幌馬車へ向かって歩き出した。足はまだ痛む。頭の中はもっと痛い。
だが、たぶんもう戻れない。
この国の記録に一度でも引っかかった以上、私はあの墓標と同じだ。まだ死んでいなくても、すでに何かに数えられている。
王都へ向かう風は冷たかった。
その冷たさの中に、どこか紙とインクの匂いが混じっている気がした。
記録の匂いだ、と私は思った。
人が死ぬ前から整理される国の、乾いた匂いだった。




