第3話 埋葬官見習いエナ
朝、目が覚めたとき、最初に思ったのは、ここがまだ会社ではないということだった。
寝起きに会議の時間を確認しなくていい朝というのは、こんなに静かなのか、と一瞬だけ感動しかけたが、すぐに昨日のことを思い出してその感動は消えた。異世界の埋葬官の家で目覚めるのが幸福かどうかは、判断が難しい。
窓から入る光は白く薄かった。晴れという概念があるのかも怪しい空だ。足首の痛みは残っているが、昨夜よりはましで、立ってみるとどうにか歩けそうだった。
部屋の隅では、エナが机に向かって何かを書いていた。黒いインクではない。灰色がかった液を細いペン先に含ませ、羊皮紙に流れるような文字を連ねている。顔を上げないまま言った。
「おはようございます」
「……驚いた」
「起きてから三回、立つか座るか迷いました」
「見なくてもわかるのか」
「音で」
「便利だな」
「死者はもっと静かです」
私は返事を飲み込んだ。朝からその基準を出されると、精神衛生によろしくない。
「何を書いてる」
「昨夜の記録です。異邦人一名、墓標の読解を確認。第十四王死亡記録、発生。骨魚低空巡回、二回。村内死者、なし」
「業務日誌みたいだな」
「業務ですから」
「埋葬官って、具体的に何をするんだ」
「死を記録し、埋葬を執り行い、墓を守ります」
「それだけ?」
「それだけで国が成り立っています」
エナはそう言って紙を重ねた。
冗談でも誇張でもなく、本気でそう考えている声だった。
朝食は硬い黒パンと、酸味のある白い乳だった。私はパンを噛みながら、部屋の中をあらためて見回した。本棚には革表紙の冊子が詰め込まれ、壁には白い花が束ねて吊るされ、隅の箱には骨の破片のようなものが整然と並んでいる。
「その花、何なんだ」
「葬花です」
「葬花」
「この土地では、死者の口にひとひら入れます」
「意味は」
「言葉の代わりです」
「最後の言葉、みたいな?」
「ええ。死者はもう話せないので」
私は頷いた。そういう風習自体は理解できる。理解できることが少しでもあると、妙に安心する。
「君は見習いなんだろ」
「はい」
「師匠は?」
「去年、埋まりました」
「死んだのか」
「だいたい同じ意味です」
エナの言い方には本当に無駄がない。感傷も飾りもない。だがそのぶん、言葉の裏側に沈んだ重みがかえって目立つ。
家を出ると、村はもう働き始めていた。女たちが井戸で水を汲み、男たちが荷車に干し草を積み、子どもたちが家畜らしい灰色の獣を追っている。昨日よりはましに見えるのは、昼だからだろうか。だがやはり、皆どこか空を見ない。視線は低く、手元と地面のあいだを往復する。長く生きるコツなのだろう。
エナは黒衣の上に薄い外套を羽織り、鈴杖を持って歩く。その姿を見ると、村人たちはちらりと目を向けるが、声はかけない。敬意と距離が同時にある。葬儀屋に対する感情としては、どこの世界でもそう変わらないのかもしれない。
「嫌われてる?」
「半分は」
「残り半分は」
「縁起が悪いと思われています」
「それ、ほぼ全部では」
「慣れました」
村の中央にある少し大きな家が村長宅だった。扉の前には獣骨の飾りが吊るされていて、鼻をつく燻煙の匂いがした。中へ通されると、土間の奥にひげの長い老人が座っていた。肩幅の広い、樽のような体つきで、眼だけが妙に小さい。小さいくせに、人を見るときの焦点はひどく鋭かった。
「その男か」
老人は私を見るなり言った。声は掠れていたが、耳に棘が残る。
「墓を読んだと」
「読んだらしいです」
エナが答える。
「らしい、では困る」
「本人が戸惑っているので」
「戸惑っておるのは国のほうだ」
村長は立ち上がらず、私の足元から頭までゆっくり眺めた。その目にあるのは露骨な敵意ではなく、値踏みだ。昨日感じたものと同じで、共同体の中心にいる人間ほどそれを隠さない。
「名は」
「真柴遼」
「短く言え」
「リョウ」
「職は」
「会社員、だった」
「カイシャインとは何だ」
「書類を作って、謝る仕事だ」
村長は数秒、黙った。それから低く鼻を鳴らした。
「なら役に立つかもしれん」
私はうっすら腹が立ったが、訂正はしなかった。実際、だいたいそういう仕事だったからだ。
村長は箱から木札を取り出した。掌ほどの大きさで、表面に細かな刻印がある。
「王都までの仮通行証だ。関所で見せろ」
「もらえるのか」
「もらえるのではない。押しつけられるのだ」
彼は重い声で続けた。
「王都から使いが来ておる。墓を読んだ異邦人を連れて来いと。拒めば村ごと調べを受ける」
「早いな」
「王家と埋葬官は、死の匂いには敏い」
言ってから、村長はようやく少しだけ表情を変えた。疲れ、というより諦めに近い。
「余計なことはするな。王都では口を慎め。問われたことだけ答えろ。英雄気取りも、正義の告発もするな。そういう顔ではないから安心だが」
「褒められてる気がしないな」
「褒めておらん」
エナが木札を受け取り、外へ出るよう促した。私は一礼だけして村長宅を出た。背中に老人の視線が刺さる。責任を押しつけられることへの警戒と、厄介ごとが自分の手を離れることへの安堵。その両方が混ざった視線だった。
家の外で、私は吐いた息を整えた。
「ずいぶんな歓迎だ」
「村長はまだ親切なほうです」
「比較対象を知りたくない」
「王都に行けば知れます」
歩きながら、私はエナを横目で見た。
「君、いくつだ」
「十七です」
「十七で埋葬官見習い」
「人が減ったので」
「昨日も聞いたな」
「便利な言葉です」
「嫌な便利さだ」
エナは少しだけ歩幅を緩め、私の足に合わせた。気づかれない程度の配慮だが、わかると妙にありがたかった。
「なあ、君の本当の名って」
「持たないと言いました」
「じゃあ、持っていたことはある?」
「あります」
「思い出せる?」
「もちろん」
「呼ばれたい?」
「いいえ」
間髪を入れない返答だった。
「この国では、死に近い仕事をする者は名を薄くします。死が呼びやすくなるから」
「迷信か」
「制度です」
「何でも制度だな、この国」
「制度は迷信が長生きした姿です」
私は思わず彼女を見た。エナはいつも通りの無表情だったが、今の言葉だけは少し温度があった。師匠に教わったのか、彼女自身の考えなのかはわからない。
村のはずれに戻ると、荷馬車が一台止まっていた。痩せた二頭立てで、荷台には布と樽が積まれている。御者台の男がこちらを見て、嫌そうに眉をひそめた。
「王都行き?」
「途中までです」
エナが言う。
「関所まで乗せてもらいます」
「埋葬官か。縁起でもねえ」
「生きた客です」
「今は、だろ」
私はその会話に割って入る気力がなかった。どうやらこの世界で私の扱いは、出荷前の不審物くらいのものらしい。
馬車に乗る準備をしながら、私はふと村のほうを振り返った。低い屋根、井戸、首を抱いた王の石像、空を見ない人々。
この村はきっと、もう長いことこうして生き延びてきたのだろう。王が半分死のうが、骨魚が空を泳ごうが、畑を耕し、水を汲み、よそ者を警戒し、死者に花を含ませる。その繰り返しで。
制度とは、たぶん個人を守るためではなく、個人に慣れさせるためにある。そう考えるとぞっとした。
エナが荷台に上がり、こちらへ手を伸ばした。
「乗ってください、リョウ」
「行けば戻れない気がするな」
「戻っても、もう前の場所ではありません」
「……そうだろうな」
私は彼女の手を借りて荷台へ上がった。細い指だったが、思ったより力があった。
馬車が動き出す。車輪が土をきしませ、村が少しずつ遠ざかる。
そのとき、井戸のそばで遊んでいた子どもの一人がこちらへ叫んだ。
「王さまになるなよ!」
周囲の大人が慌ててその口を塞いだ。だが遅かった。声は乾いた朝の空気の中をまっすぐ飛び、私の胸に刺さった。
私は笑うことも怒ることもできず、ただ遠ざかる村を見つめた。
子どもの言葉が呪いなのか忠告なのか、その時点ではまだわからなかった。




