第25話 沈んだ鐘の音
供花庭を出たころには、夜はさらに深くなっていた。
宮城の空は相変わらず低い。見上げれば灰色の膜の向こうで、何か巨大なものが動く気配だけがある。骨魚だろう。王都では、見えなくてもそこにいるとわかる影が多すぎる。
巡礼老人は、庭の出口まで来ると急に歩みを止めた。
「ここから先はおぬしらだけでよい」
「待て」
私は呼び止めた。
「まだ聞きたいことが山ほどある」
「山ほどあるうちは、半分も聞けておらぬ」
「嫌な言い方だな」
「本当だ」
老人は白鈴のついた杖を軽く鳴らした。かすかな音が、石の回廊に沈むように広がる。
「次に会うときは、井戸の底の歌がもう少し近くなる」
「会う前提で言うな」
「順があれば会う」
それだけ言って、老人は本当に去った。
見送ろうとしたが、低い門をひとつ曲がっただけで姿が消える。
王都の宮城は入り組んでいるとはいえ、不自然なくらい消え方が早かった。
私は白い供花を手の中で持て余したまま、ため息をついた。
「何なんだ、あのじいさん」
ハルヴァが低く答える。
「知らないほうが楽な種類の人です」
「身も蓋もないな」
「ですが正確です」
エナは老人の去ったほうを見たままだった。
「花の二列……気づくべきでした」
「無理だろ」
私は言う。
「意味を教えられなければただの並びだ」
「でも埋葬官なら」
「埋葬官でも人間だろ。全部見えるわけじゃない」
エナは少し黙った。
その沈黙に、責任感の強い人間特有の苦さがあった。
見えなかったことを、自分の怠慢へ結びつける癖。
私も元の世界で何度もやった。構造の問題まで自分の注意不足として引き受けてしまう。
宮城の別棟へ戻る途中、遠くで鐘が鳴った。
夜の時刻を告げる鐘だろう。
だがその音は、これまで聞いてきた鐘と少し違った。高く響かず、どこか水の中を通ってくるみたいに鈍い。
「今の」
私は足を止めた。
「鐘?」
ハルヴァが問う。
「聞こえたろ」
「聞こえました」
「何か変じゃないか」
エナが目を細める。
「沈んでいます」
「沈んでる?」
「鐘の音が」
またこの国特有の、比喩みたいな説明だと思いかけた。
だが違う。実際に音が重い。音の輪郭が落ちて、底へ沈みながら広がっている感じがする。
二つ目の鐘が鳴る。
今度はもっとはっきりわかった。
音が上へ抜けない。
宮城の石や、地下の根や、井戸の底が、鐘の音を吸っている。
「これは……」
ハルヴァが言いかけたところで、回廊の反対側から埋葬官が駆けてきた。
「次官殿!」
彼はハルヴァをそう呼びかけてから、相手が違うことに気づいて慌てて言い直した。
「失礼、監査室長代行殿! 東墓廊より急報です!」
「何が」
「鐘が、墓へ沈みます」
「意味を整えて言え」
「ですから、音が墓標へ吸われて、戻りません!」
私たちは顔を見合わせた。
さっきの鐘の重さは気のせいではなかったのだ。
「次官殿は?」
ハルヴァが問う。
「すでに東墓廊へ」
「行きます」
エナが即答した。
私は持っていた供花を見下ろした。
白い花は相変わらず軽い。
だが今は、それが妙な証票みたいに思えた。
王への花。器へ向けた無言の要求。二つに分かれた十三。
そこへ鐘まで沈み始めた。
私たちは早足で東墓廊へ向かった。
回廊を曲がるたび、鐘の音が聞こえる。
鳴っているのに、どこかへ落ちていく。
まるで宮城全体が大きな水槽になって、その底へ鐘が沈んでいくみたいだった。
東墓廊に近づくと、空気が明らかに変わる。
冷たいだけでなく、圧がある。耳が少し詰まる。
墓室の前には埋葬官と宮廷兵が集まり、誰も大声を出していないのに、混乱だけが濃く漂っていた。
その中心にセリオがいた。
彼は墓室の扉を半ば閉めさせた状態で立ち、こちらを見るなり言った。
「異邦人」
「来た」
「鐘が沈んでいます」
「聞けばわかる」
「十三王墓が音を飲んでいる」
私は墓室の奥をのぞいた。
白い根が、昼よりさらに増えている。
墓標の周囲だけではない。壁、床、天井近くの石の継ぎ目にまで細い根が伸び、脈打つたび、鐘の残響がその中へ吸い込まれていくのがわかった。
音が消えているのではない。
飲まれている。
「何を読めばいい」
私は問う。
「鐘ですか、墓ですか」
「両方だ」
セリオが即答する。
私はまた、最悪の中心に立たされている。
だが、逃げて済む段階でもないらしかった。
沈んだ鐘の音が、なおも墓標へ落ちていく。
それは単なる異変ではなく、王都そのものの呼吸がどこかへ吸われている音に聞こえた。
私は白い供花を胸元の木札へ挟み込み、十三王墓の前へ進んだ。
誰かが止めるかと思ったが、誰も止めない。
もうこの場では、私を止める言葉より、読ませたい欲のほうが強いのだろう。
墓の前に立つ。
鐘が三度目に鳴る。
低く、重く、沈む。
その音の底で、私は確かに聞いた。
墓が、小さく息を吸う音を。




