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やわらかな王の墓  作者: たむ


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第22話 名を持たぬ者

 講義室を出たあと、私はしばらくエナと二人で回廊を歩いた。


 ネムは監査局へ呼び戻され、セリオは上層の会議へ向かったらしい。ようやく人目の少ない時間だった。とはいえ王都では、誰も見ていないようでいて、どこかに必ず記録の目がある気がする。完全に気を抜ける場所はたぶんない。


 回廊の窓から、中庭の低い木々が見えた。白い花がまた供えられている。王都では花と石と帳面が妙に似た顔をしている。


「なあ」

 私は歩調を少し緩めた。

「前から気になってたんだけど」

「はい」

「君の“名を持たない”って、どこまで本気なんだ」

「本気です」

「戸籍みたいなものも?」

「生家の記録にはあります」

「じゃあ公的には残ってる」

「埋葬官としては使いません」


 私は壁にもたれた。

「どうしてそこまで」

 エナは一度、廊下の先を確認してから答えた。誰もいない。

「死に近い仕事をする者は、名を薄くします」

「それは聞いた」

「名は呼ばれるための形です」

「うん」

「死は、形をよく拾う」

 

 私は数秒、意味を測った。

 迷信めいている。

 だがこの国では、迷信と制度の境が薄い。


「つまり」

 私はゆっくり言った。

「強く名乗ってると、死に見つけられやすい?」

「そう考える人がいます」

「君は?」

「半分は」

「残り半分は」

「名を持っていると、死者と生者を混同しやすくなる」


 私は眉を寄せた。

「それはどういう」

「埋葬官は、たくさんの死者の名を扱います。記録し、口にし、墓へ渡す」

「うん」

「そのたび自分の名が強いと、境が近くなる気がする」

 

 それは理屈というより感覚の話なのだろう。

 だが、感覚としては理解できる気もした。

 毎日他人の死を記録し、その名前を呼び続けるなら、自分の輪郭だって揺らぐ。名前を薄くするのは、呪い避けであると同時に、職業上の防具でもあるのかもしれない。


「つらくないか」

 私は聞いた。

「自分の名を使わないの」

「便利です」

「またそれか」

「名を呼ばれないと、期待される役も減ります」

「それは少し羨ましいな」

「ただし、失っても気づかれにくい」

 

 その一言は重かった。

 名を薄くすることで、死に拾われにくくなるかもしれない。

 その代わり、生きているあいだにも見落とされやすくなる。


「師匠も?」

「名を使いませんでした」

「家族は」

「いません」

「……悪い」

「事実です」


 私たちはまた歩き出した。

 石の回廊に足音が二つだけ響く。


「リョウは」

 エナが言った。

「名をどう思っていますか」

「どうって」

「大事ですか」

 

 質問が急で、少し困った。

 真柴遼。

 自分の名前はずっとそこにあった。好きでも嫌いでもない。呼ばれれば振り向くし、社員証にも住民票にも書いてあった。

 だが、その名前で生きていたという実感がどれだけあったかと言われると、少し怪しい。会社では苗字だけで呼ばれ、家庭でも役割のほうが先に来ることが多かった。


「あるんだろうけど」

 私は言った。

「大事にしてたかと言われると、微妙だな」

「そうですか」

「名前そのものより、その名前で何を求められるかのほうが重かった」

 

 エナは少しだけ目を細めた。

「それなら、王都で名が薄くなる感覚が早いかもしれません」

「脅すなよ」

「脅しではありません」

「この国の平常運転が怖いんだよ」


 中庭へ面した小さな休憩所に入り、私たちは腰を下ろした。

 石の長椅子。冷たい。

 向かいの壁には、また首を抱く王の小さな浮彫がある。もう驚かない自分が嫌だった。


「エナ」

「はい」

「君の本当の名、今も大事か」

 

 彼女はすぐには答えなかった。

 窓の外の白い花を見て、それから静かに言った。

「時々、思い出さないほうが楽です」

「そうか」

「でも完全に忘れたくはありません」

「じゃあ、大事なんだろ」

「……たぶん」


 その“たぶん”には、揺れがあった。

 埋葬官として名を薄くすることと、人として消えたくないこと。その両方のあいだで立っている声だった。


「俺は」

 私は少し考えてから言った。

「こっちへ来てから、自分の名前を呼ばれるたび、ちょっとほっとする」

 エナがこちらを見る。

「何でですか」

「物証とか異邦人とか、そういう欄になりかけてるからだろうな」

「はい」

「だから君が“リョウ”って呼ぶと、ああまだ俺は一応人間か、ってなる」

 

 言ってから、少し気恥ずかしかった。

 だが嘘ではなかった。

 この国ではすぐ役割や分類が先に来る。そんな中で固有名を呼ばれることは、思っていたよりずっと救いに近い。


 エナは目を伏せたまま、小さく言った。

「では、呼びます」

「うん」

「リョウ」

 

 短い二音だった。

 だが王都の石の冷たさの中では、その音だけ少し温度があるように聞こえた。


 そのとき、回廊の向こうで足音が止まった。

 ハルヴァだった。彼は私たちを見ると、少しだけ申し訳なさそうな顔をした。

「休息中に失礼」

「休息ってほどでもない」

「なら好都合です」


 好都合という言葉が来た時点で、たいていろくな話ではない。


「地方文書庫への第一照会に返答がありました」

 エナが立ち上がる。

「もう?」

「ええ。早かった。……ただし、返答内容が妙です」

「何て」

 私が問うと、ハルヴァは手元の紙を見た。


「“村はずれ古文書庫、昨夜半に一部崩落。保管写本のうち、王墓巡礼関係が欠損”」


 エナの顔色が変わった。

 私の胸の奥にも、冷たいものが落ちる。


「崩落?」

「自然崩落とあります」

 ハルヴァが言う。

「しかし、報せをよこした代筆者が追記している。“白い根の露出を確認”」


 誰もすぐには喋らなかった。

 王都の地下だけではない。

 村の古文書庫にまで、白い根が伸びている。


 私は立ち上がった。

「数え直し、国中で始まってるのか」

「その可能性が高い」

 ハルヴァが答える。


 エナは窓の外ではなく、どこかずっと遠くを見るような目をしていた。

 名を持たぬ埋葬官見習いの少女が、今ははっきり、失いたくない何かを思い出している顔だった。

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