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やわらかな王の墓  作者: たむ


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2/12

第2話 骨魚の泳ぐ空

 夜というものは、暗くなることだと思っていた。


 けれどこの国の夜は、暗さではなく、重さで訪れるらしかった。夕方の鐘が鳴ってからほどなく、窓の外の灰色はさらに濃く沈み、空そのものがゆっくりと村へ降りてくるように見えた。雲が厚くなるのではない。世界の天井がきしみながら下がってくる。そんな感じだった。


 エナの家の窓は小さく、板戸を閉めるとほとんど外の色がわからなくなる。それでも隙間から差す気配だけで、私は外が変化しているのを感じた。空気が冷えていく。土の匂いに金属のような硬さが混じる。遠くで犬とも鳥ともつかない鳴き声がして、すぐにやんだ。


 私は粗末な寝台の端に座り、包帯を巻かれた足を見下ろしていた。痛みはまだあるが、少し熱が引いた気もする。エナの塗った薬草から、青臭い香りが立っていた。


「それ、効くのか」

「効きます」

「言い切るね」

「効かなかった人は、文句を言いに来ません」


 私は顔を上げた。エナはかまどの前にしゃがみ込み、鍋をかき混ぜていた。冗談を言ったのか、本気なのか、相変わらずまったくわからない。


「怖がっているんですか」

「何を」

「外を」


 そう問われて、私は少し考えた。怖い、と認めるのは癪だったが、たぶん怖かった。知らない世界で、知らない空の下にいて、しかもさっきから私は、この国の常識というものに一度も追いつけていない。王は半分死ぬ。墓は生者のために立つ。存在しないはずの次代の王の死が記録される。会社の会議資料のほうがまだ理解できた。


「怖い、というより」

「というより?」

「気持ち悪い」


 エナは少しだけこちらを見た。灯りに照らされた横顔は幼く見えるのに、目だけが妙に老いていた。


「それは正しい感想です」

「正しい?」

「この国は、たいてい気持ち悪いので」


 鍋の中身は根菜を煮たような汁物だった。見たことのない白い芋と、細長い豆、獣の肉らしい薄い切れ端が浮いている。食欲はなかったが、香りは悪くない。エナは二つの木椀によそい、片方を私に差し出した。


「食べてください」

「毒見は?」

「必要ならあなたからどうぞ」

「そういうところだけ反応が早いな」


 だが、匙を入れてみると味は意外にやさしかった。塩気は薄い。代わりに、草の苦味と芋の甘みが舌に残る。腹に熱が落ちる感じがして、ようやく自分がどれだけ空腹だったか知った。


 しばらく黙って食べていると、外で低いざわめきが起きた。人の声ではない。風でもない。何か巨大なものが空気をこするような、鈍く長い音。


 私は匙を止めた。

「何だ」

「骨魚です」

「空にいたやつか」

「夜は低く泳ぎます」


 低く泳ぐ。その言い方の自然さにぞっとする。


 エナは食事を置き、壁際に立てかけてあった鈴杖を取った。

「見ますか」

「見ていいものなのか」

「見たくなくても、そのうち見ます」


 彼女は板戸をほんの指二本ぶんだけ開いた。冷たい空気が部屋へ差し込む。私は身を乗り出し、隙間から外をのぞいた。


 村は沈んでいた。灯りはほとんどなく、家々の屋根が黒い波のように地面へ張りついている。その上を、巨大な影が音もなく横切った。


 骨だけの魚。


 昼に見たものより近い。頭骨の空洞、長く連なる脊椎、扇のような尾びれの骨、その一本一本が月光の代わりの灰色を受けてぼんやり白く浮いている。だが、骨なのに死んでいない。骨なのに泳いでいる。尾がしなるたび、空の膜が水面のように揺れる。私は喉の奥が冷たくなるのを感じた。


「あれは何なんだ」

「王国の上澄みです」

「余計わからない」

「昔は、もっとたくさんいたそうです」


 エナの声音には説明する気配がなく、ただ事実だけを置いていく癖があった。


「害は?」

「落ちてきたら死にます」

「それはだいたい何でもそうだろ」

「影を踏み続けると、時間を食われます」

「時間を?」

「老いる人もいます。眠る人もいます。逆に何日も変わらない人もいる」

「……ちゃんと気持ち悪いな」

「でしょう」


 そのとき、骨魚の腹のあたりから、かすかな光がいくつも落ちた。蛍にも似た小さな青白い粒が、夜気の中をふらつきながら村のはずれへ流れていく。


「あれは」

「骨灯です。死の近い場所に集まります」

「じゃあさっきの墓地か」

「あるいは、これから死ぬ場所」


 私は戸を閉めさせた。見ているだけで胸が悪くなる。世界が理屈より先に象徴でできているみたいで、そこへ放り込まれた自分が急に薄っぺらく思えた。


 エナは戸を戻し、何事もなかったように椀を片づけ始めた。

「明日の朝、村長のところへ行きます」

「何しに」

「王都へ向かう通行証を受け取るために」

「まだ行くの確定なんだな」

「王命がなくても、墓が呼んだ人は王都へ行きます」

「行かなかった例は?」

「あります」

「どうなった」

「後日、墓から出ました」


 私はしばらく黙った。


「それは比喩か」

「今回は違います」


 火がはぜた。骨の風鈴がかすかに鳴る。私は天井を見上げた。この家も、この村も、この少女も、皆おそろしいほど平然としている。狂気に慣れると、人は日常として受け入れるしかなくなるのだろうか。だとしたら、この国で正気を保ついちばんの方法は、正気の基準を捨てることなのかもしれなかった。


「エナ」

「はい」

「君は、あの記録のことをどう思ってる」

「第十四の王の死、ですか」

「そうだ」

「ありえません」


 彼女は振り返らずに答えた。

「王は必ず順に死にます。順に墓へ入り、順に記録される。そうでなければ国が軋みます」

「軋む?」

「今みたいに」


 窓の外で、何かがきしんだ。木か、空か、あるいは国そのものか。私は背筋を伸ばしたが、エナは慣れた顔でかまどの火を落としていく。


「あなたが来た日と重なったのは偶然ではないと思います」

「だろうな」

「だから王はあなたを呼んだ」

「まだ会ってもない王に好かれる覚えはない」

「好意とは限りません」

「最悪だ」


 エナはようやく小さく息をついた。笑ったのかと思ったが、違った。ただ少しだけ肩の力が抜けたようだった。


「寝てください、リョウ。明日は歩きます」

「足、歩けると思うか」

「歩けなくても連れていきます」

「やさしいな」

「埋葬官は遺体の運搬に慣れています」

「その比喩はやめろ」


 寝台へ横になると、藁の匂いがした。薄い毛布の下で足の疼きを感じる。目を閉じても、灰色の空と骨の魚の影がまぶたの裏を泳いだ。


 私はこの世界のことを何も知らない。だが、ひとつだけわかることがあった。

 この国では、生きている者より、死ぬ予定の者のほうが強く管理されている。

 会社で見た、退職予定者の席が異様にきれいに片づけられていく光景を、私は不意に思い出した。人は不要になる前から整理される。役職も、机も、名札も、送別会の予定さえも。

 王の墓というものは、つまりその究極なのかもしれなかった。

 人が王になるのではない。

 墓に入る順番を与えられた者が、王と呼ばれるだけなのだ。


 外でまた、骨魚が低く鳴いた。


 その声は海のない世界の、潮騒のように聞こえた。

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