第18話 飢えを忘れた国
井戸を離れたあと、セリオは私たちを宮城の上層へは戻さなかった。
地下と地上のあいだにある、半地下の記録食堂のような場所へ案内した。役人や埋葬官が簡単な食事を取る場所らしく、長机が並び、湯気の立つ鍋と黒パン、塩漬けの肉が用意されている。時間が遅いせいか人は少なかったが、残っている者は皆、疲労を服のようにまとっていた。
「食べておいてください」
セリオが言う。
「今夜は長くなるかもしれない」
「断る権利は」
「ありません」
「だろうな」
私は椀を受け取り、薄い豆の煮込みを口へ運んだ。
味はある。だが、どこか妙に軽い。腹へ落ちても満たされる感じが薄い。
二口、三口と食べたところで気づいた。私は空腹のはずなのに、強く食べたいとは思っていない。
「……なあ」
私はエナへ小声で言った。
「この国へ来てから、腹は減るのに、飢えてる感じが薄い気がする」
エナはすぐには答えなかった。
代わりにネムが顔を上げる。
「気づきましたか」
「何に」
「王国の飢えです」
私は匙を止めた。
「飢え?」
「この国の人々は、飢えに鈍いのです」
「そんなことあるか」
「正確には、“飢えを忘れやすい”」
ネムは自分の椀を見ながら淡々と続けた。
「王都ではときどき配給が滞ります。地方ではもっとひどい。にもかかわらず、大飢饉のわりに暴動が遅いことがある」
「遅い?」
「我慢強いからではありません。空腹を制度に薄められている、と考える者がいます」
私は眉を寄せた。
「制度に?」
「ええ。王が民の飢えを引き受ける、という建国神話がある」
「また比喩だろ」
「最初は」
エナが言った。
「でも長く続くうちに、本当に少しそうなったのではないかと」
私は椀の中を見た。
薄い煮込み。温かいが、欲望を強く刺激しない味。
王都の市場も、宿の食事も、どこかそんな感じだった。足りないのに、足りなさが激しく表面化しない。
「王が飢えを引き受ける?」
「そう言われています」
エナが言う。
「最初の王は民を飢えから救うため、自らの名を捨てた」
「墓標にあったな」
「はい。その解釈のひとつです」
「つまり、王が飢えの器になってる?」
「あるいは、民の飢えが王へ寄せられる」
「それ、めちゃくちゃ危ない仕組みじゃないか」
「だから王は半分死ぬのかもしれません」
その説明はぞっとするほど筋が通っていた。
国の痛みや飢えや死を、王という役割へ集中させる。
だから王は最初から半分死ぬ。
個人として生きていては耐えられない量が流れ込むから。
セリオが食堂の端からこちらを見ていた。聞こえているのだろう。
彼は近づいてきて、低く言った。
「軽々しく広める話ではありません」
「でも否定はしないんだな」
「建国神話は、否定しても消えません」
「便利だな、その言い方」
「あなたの国にも似たものはあったでしょう」
私は少し黙った。
あった。
誰かが現場の痛みを吸収してくれているという前提。上が責任を取るという建前。実際には、痛みは下へ、名誉だけが上へ流れることも多いが、それでも制度は誰かが引き受けてくれるという物語を必要とする。
この国はその物語を、もっと露骨に王へ集中させているだけかもしれない。
「飢えを忘れた国か」
私は呟いた。
「忘れたほうが回るから?」
「はい」
ネムが答える。
「忘れていれば順番を守れる。怒りは遅れる。暴動も遅れる」
「比喩も遅れるしな」
「ええ」
食堂の隅では、埋葬官たちがほとんど会話もなく食事をしていた。皆、痩せている。だが飢えているようには見えない。
それが余計に不気味だった。
欠乏はあるのに、欠乏の表情が薄い。
それは安定ではなく、感覚の鈍麻だ。
「王が民の飢えを引き受けているなら」
私はセリオを見た。
「今、王の均衡が乱れてるってことは」
「王へ流れていたものの配分が変わっている可能性がある」
セリオが答える。
「王都で死者が増え、根が脈を強め、井戸の歌が現れる」
「王が受け止めきれなくなってる?」
「あるいは、席が移ろうとしている」
またそこへ戻る。
席。器。空位。継承。
王個人の人格より先に、制度の空腹が動いている。
私は残りの煮込みを食べきった。
やはり満腹感は薄い。
だが逆に、もっと欲しいとも思わない。
この妙な感覚が、もし王国全体へ広がっているとしたら――。
人々は、自分が何を欠いているかを正確に怒れなくなる。
「だから村も静かだったのか」
私は思い出すように言った。
「骨魚がいて、王の石像が首を抱いてて、明らかに変なのに、皆あれを生活として受け入れてた」
「受け入れているというより」
エナが静かに言う。
「怒るための飢えが薄いのだと思います」
その言葉は、ひどく悲しかった。
空腹はつらい。
だが、空腹を怒れないことはもっとつらいのかもしれない。
自分が足りていないと感じる力そのものが削られているのだから。
食堂の窓のない壁の向こうで、夜の風が鳴った。
誰かが運んできた白い花が、卓上で小さく揺れている。
この国は、飢えを忘れるかわりに、何を覚えているのだろう。
死の順番だけは、誰も忘れないのだろうか。




