第17話 井戸の底の歌
王墓の間を出たあとも、しばらく私は自分の指先を見ていた。
白い根に触れたところだけ、感覚が少し遅れていた。痺れているというより、触ったものの意味まで一緒に残っている感じだ。冷たさが皮膚の上ではなく、もっと内側に貼りついている。
「色は変わっていませんね」
エナが言った。
「監査局の下役は白くなったのだろ」
「はい」
「俺は無事?」
「今のところは」
「その言い方やめろ」
墓室の外の回廊で、セリオは部下へ短く指示を飛ばしていた。声は低く抑えられているのに、近くの空気だけがぴんと張る。ああいう人間はどこの組織にもいる。怒鳴らずとも周囲を急がせる種類の権力だ。
「王の状態を再確認しろ。東墓廊は封鎖。根の露出は埋葬部記録第三式で仮記載、ただし閲覧制限。監査局への報告は文言を削れ。『席は口を開く』の句は現時点では伏せる」
「伏せるのか」
私が口を挟むと、セリオは振り向いた。
「広まれば混乱します」
「もう十分混乱してるだろ」
「混乱していることと、混乱に名前を与えることは別です」
それは王都らしい理屈だった。
言葉になった瞬間、事態は共有され、制度の中で増殖する。だから先に言葉を絞るのだ。
「今夜のうちに、もう一か所見てもらいます」
セリオが言う。
「まだあるのか」
「ええ。王都の古井です」
「古井」
「王墓と同系統の変化があった」
「何でもかんでも俺に読ませる気か」
「現状、あなたしか頼れない」
頼られているというより、使える道具が見つかった顔をしている。
だが、否定しきれないのが腹立たしかった。
私たちはそのまま宮城の地下を横へ移動した。墓廊とは別の細い通路を抜け、階段を少し上がり、さらに石造りの中庭へ出る。夜が近づいていた。灰色の空はすでに濃く沈み、建物の縁が黒く硬く見える。
中庭の中央には、丸い石囲いがあった。
井戸だ。
ただし普通の井戸ではない。縁が異様に広く、表面には無数の祈祷文らしき刻線が走っている。蓋はなく、かわりに黒い鉄格子がはめられていた。
「ここが古井?」
「王都最古の井戸のひとつです」
セリオが答える。
「建国以前からあったと言われています」
「また嫌なものを」
井戸の周囲には、白い花がいくつも落ちていた。供えられたというより、誰かが慌ててばらまいたような散り方だった。
鉄格子の隙間から、下をのぞく。
暗い。底は見えない。
だが水の気配がない代わりに、歌のようなものが聞こえた。
私は身を引いた。
「……何だ今の」
「聞こえましたか」
エナがすぐ訊く。
「歌みたいな」
「私には聞こえません」
「こっちは何も」
セリオも眉を寄せる。
私はもう一度、慎重に井戸へ近づいた。
耳を澄ます。
確かに聞こえる。女の声にも子どもの声にも似た、ひどく遠い歌。言葉としてはわからないのに、意味だけが胸の奥へ落ちてくる。
帰れ。
いや違う。
降りるな。
それも違う。
もっと曖昧だ。
数えるな、に近い気がした。
「歌ってる」
私は低く言った。
「底で何かが歌ってる」
「異邦人にだけ?」
セリオが問う。
「たぶんな」
エナは格子の縁に触れず、すれすれまで身を寄せた。
「根は?」
「見えない。でも、気配はある」
「読めますか」
「やってみる」
私は井戸の縁の刻線へ視線を落とした。
古い文字だ。墓標とも記録帳とも少し違う。
だがやはり、読めた。
――深きものより汲むべからず。
――名ある水は上へ、名なき水は下へ。
――王都の渇きはここで選別される。
「選別?」
エナが反応する。
「続きは」
私は刻線を追った。削れた箇所が多く、読みづらい。指先でなぞると、少しだけ意味が立つ。
――歌を聞く者、王の渇きに近い。
――覗く者、己が名の底を見よ。
私は思わず鉄格子から手を離した。
「最悪だな」
「何と」
セリオが急く。
「“歌を聞く者、王の渇きに近い。覗く者、己が名の底を見よ”」
言った瞬間、風もないのに白い花が一枚、井戸の中へ落ちた。
音はしなかった。
飲み込まれたみたいに、途中で消えた。
誰も喋らない。
宮城の中庭は、夕方というより深海みたいに静かだった。
「王の渇き」
セリオが低く言う。
「半身の均衡の乱れと関係があるか」
「知らない」
私は率直に答えた。
「でもこの井戸、王都の“渇き”を選別してるらしい」
「渇きとは」
「欲かもしれないし、祈りかもしれないし、水そのものかもしれない。そんなの俺に聞くな」
エナがぽつりと呟く。
「井戸の底の歌……」
「知ってるのか」
「村でも言い伝えだけはあります。王都の井戸には、王になれなかった者の声が溜まると」
「また嫌な昔話だ」
「昔話は、だいたい遅れて本当になります」
比喩の遅れる土地。
私はその言葉を思い出した。
ここでは何でも、長く語られるうち制度や現象へ変わっていく。
ならこの井戸も、誰かがたとえ話として語ったものが、本当にそうなってしまったのかもしれない。
夜の一番目の鐘が鳴った。
その音に応えるように、井戸の底の歌が一瞬だけ大きくなった。
私にしか聞こえない歌が、鉄格子の下で揺れていた。




