第16話 墓標に触れる手
待たされたのは、思ったより長かった。
宮城では時間の流れ方が少し違う。
人が急いで動いているのに、決定だけが遅い。
何かが起きているのはわかるのに、それが正式な言葉になるまで誰も口を開かない。
私はその空気に、元の世界の役員会前の廊下を思い出していた。重要な判断ほど、先に皆が知っていて、最後にだけ決裁の言葉が落ちてくる。
やがてセリオ次官本人が来た。
部屋へ入るなり、彼は無駄な前置きをせず言った。
「異邦人、来てください」
「どこへ」
「王墓です」
私は椅子から立ち上がりかけ、半秒ほど止まった。
「ちょっと待て」
「待てません」
「生きてる王の城に来たと思ったら、いきなり墓か」
「だからです」
「だから?」
「今の王を理解するには、墓を見るほうが早い」
反論しきれなかった。
この国に来てから、王と墓がいつも並んでいる。いや、墓のほうが先にあった。
エナも立ち上がる。
「私も同行します」
「認めます」
セリオは即答した。
「記録保持者として必要です」
ネムも無言で書類箱を抱えたが、次官は首を振る。
「補佐書記はここまで」
「しかし」
「ここから先は宮廷埋葬部の管轄です」
ネムは一瞬だけ悔しげに唇を引き結び、それでも引いた。
彼は役所の線引きを知っている人間だ。
セリオの先導で、私とエナ、ハルヴァだけが回廊を進む。
宮城の奥へ、奥へ。
空気がさらに冷えていく。灯りは増えるのに、明るくはならない。白い石の壁、黒い床、低い天井。
途中、何度か下り階段があった。王墓は地下にあるらしい。
「今の王の墓も?」
私は歩きながら聞いた。
「ええ」
セリオが答える。
「第十三王墓は宮城地下、東墓廊の最奥です」
「本人はまだ生きてるんだろ」
「ええ」
「墓は空?」
「制度上は、半分埋まっています」
「制度上って便利な言い方だな」
「便利なのは長生きする、と聞きました」
その台詞を彼が知っているということは、王都の中ですでに私たちの会話がどこかへ伝わっているのかもしれない。嫌な透明度だった。
長い下り廊下の途中で、壁龕に小さな石板がいくつも埋め込まれているのが見えた。
近づくと、それぞれに王名と短い文が刻まれている。
歴代の王墓案内らしい。
また読める。
――第四王、笑まぬまま七年。
――第七王、名を三度削る。
――第九王、赦しの後に断絶す。
――第十一王、空位を恐れ、子を数えすぎる。
「記録というより悪口だな」
私が呟くと、エナが小さく言う。
「墓標はたいてい率直です」
「生きてる王への遠慮は?」
「墓には、あまり」
「怖いな」
やがて、一枚だけ新しい石板が現れた。
文字はまだ浅く、白い粉が縁に残っている。
――第十三の王、まだ死なず。されど、すでに墓にあり。
森で見た文と同じだった。
私は立ち止まり、喉が詰まるような感覚を覚えた。
王都まで来ても、文は変わらない。
つまり、あれは村の幻や読み違いではなかったのだ。
「ここから先です」
セリオが低く言う。
最奥の扉は、木ではなく石でできていた。左右に開く重い扉で、表面には無数の細い溝が走っている。まるで文字を書く前の頁のようだった。
扉の前には埋葬官が二人立っている。どちらも黒衣、顔色が悪い。
彼らはセリオへ一礼し、私を見ると、ほんのわずかに目を細めた。
やはり値踏みだ。
ただしここでは、“何に使えるか”ではなく“何を読むか”を測っている目だった。
扉が開く。
冷気が流れ出る。
内側は広い墓室だった。
中央に、ひとつの巨大な墓標が立っている。灰白色で、背丈は私の二倍以上。形は棺というより、立てられた門柱に近い。その表面には深く文字が刻まれ、足元には白い花が幾重にも供えられている。
だが私が息を呑んだのは、墓標そのものではなかった。
墓標の根元から、白い根が伸びていた。
一本や二本ではない。
細い根が束になり、まるで血管のように床へ広がっている。
そしてその一部が、墓標の側面を這い上がり、刻字の溝へ絡みついていた。
文字と根が一体になっている。
「これが」
私は言った。
「第十三王墓」
「ええ」
セリオが答える。
「そして、今朝から根の脈が強まりました」
エナが前へ出て、息を潜めるように墓標を見上げた。
「こんなに露出しているのは見たことがありません」
「宮廷埋葬部でも前例が少ない」
「王の状態と連動している?」
「その可能性が高い」
私は墓標へ近づいた。
文字が視界へ入る。意味が流れ込む。だが、表面の文は森と同じだ。
問題はそこではない。
側面を這う根の筋が、別の列を成している。
「読めるか」
セリオが問う。
「たぶん」
私は手を伸ばしかけ、止めた。
「触っていいのか」
「本来はだめです」
エナが言う。
「ただし、今は例外を積み上げる段階です」
「この国、例外を積み上げすぎだろ」
けれど、触れなければ読めない気がした。
森の根、監査局の根、そしてこの墓標。
どれも意味を押しつけてくるが、ここではもっと強い。
私は一度深呼吸し、白い根へ指先を触れた。
冷たい。
だが石の冷たさではない。
生きたものの皮膚のような、内側に湿り気を含んだ冷えだった。
その瞬間、どくん、と脈が跳ねる。
頭の奥へ、意味が流れ込む。
――器は満ちかけている。
――半身はもはや支えとならず。
――名はほどけ、席は口を開く。
――触れた手よ、誰を王と読む。
私は反射的に手を離した。
背中に冷たい汗が流れる。
「何と」
セリオの声が鋭くなる。
「読め」
「待て、今整理する」
エナが一歩近づいた。
「リョウ」
「聞こえた、っていうか、押し込まれた」
「言葉は」
「“器は満ちかけている。半身はもはや支えとならず。名はほどけ、席は口を開く”」
墓室の空気が張りつめる。
セリオが低く繰り返す。
「席は口を開く」
「最後にもうひとつ」
私は喉を湿らせるように息をついた。
「“触れた手よ、誰を王と読む”」
沈黙。
それは単なる静けさではなく、全員が同じ最悪を想像した沈黙だった。
「私に言ってるのか」
私はかすれた声で言った。
「たぶん」
エナが答える。
「墓が、あなたに」
私は墓標を見た。
灰白色の巨大な面。根に絡まれた刻字。
森で最初に見たときより、ずっと近い。ずっと現実だ。
そして今、はっきりわかる。
この国の王墓は、過去を記すだけの場所ではない。
未来の座席表でもあるのだ。
白い根が、もう一度だけ脈打った。
私の指先に、まだその冷たさが残っていた。




