第13話 水差しと祈り
地下から戻されたあと、私たちは最初の部屋ではなく、少し広い応接室のような場所へ通された。
待遇が上がったのか、隔離が強まったのか、判別しにくい。
長机に水差しと薄い茶が置かれ、窓には格子があり、外の中庭が見える。中庭には灰色の石と、背の低い木が三本。木の根元には白い花が供えられていた。王都では花まで落ち着いて枯れているように見える。
ハルヴァは書記を連れて出ていき、ネムは照会文の追記に取りかかった。エナは記録帳へ今起きたことを書き留めている。
私はというと、水差しを見つめていた。
喉は渇いているのに、飲む気になれない。
「毒でも入ってると思ってる?」
ネムが顔を上げずに言った。
「半分くらいは」
「なら王都に馴染み始めています」
「嬉しくない」
エナが先に水を注ぎ、一口飲んだ。
「大丈夫です」
「君の大丈夫は信用が」
「昨日より腐っていません」
「まだその基準なのか」
結局、私も少し飲んだ。冷たい。鉄の匂いがする。井戸水とも違う、石を通した水の味だ。
その冷たさで、ようやく頭が少し整理された。
「なあ」
私は二人へ向けて言った。
「“名のない席”って、何だと思う」
「王位そのもの」
ネムがすぐ答えた。
「あるいは、正式な称号を持たないまま権能だけ行使する地位」
「代行とか?」
「ええ」
「嫌な単語だな」
「王都は代行で回っている部分が多いです」
エナは少し考えてから言った。
「埋葬官にもあります。名を持たず、役だけを持つ席」
「君のことか」
「近いです」
「じゃあ、この国自体がそうなのかもしれないな」
私は呟いた。
「名より先に席がある」
「はい」
エナが頷く。
「だから人は、席に合わせて薄くされる」
その言い方に、私は妙な既視感を覚えた。
元の世界でも、人は役職に合わせて削られる。
本来の性格や欲望をそのまま持ち込めば摩擦が起きるから、都合のいい部分だけ残して均される。
ここではそれが、もっと露骨に“名を薄くする”と呼ばれているだけなのかもしれない。
中庭で、小さな鐘の音がした。
誰かが祈りの時間を告げているらしい。廊下を歩く役人たちの足が一瞬だけ止まり、また動き出す。完全には止まらない。祈りも業務の隙間に差し込まれる。
「この国の祈りって、何に向いてるんだ」
私は聞いた。
「神?」
「半分」
エナが言う。
「残り半分は、順番です」
「順番に祈るのか」
「順番が乱れないように」
「本当に行政だな」
ネムが淡く笑う。
「王都では、水を飲む前に祈る人もいます」
「何て」
「“正しい渇きでありますように”」
「嫌すぎる」
「ですが、渇きにも順がありますから」
私は額に手をやった。
すべてがそこへ戻る。順。席。名。死。
この国では、個人の感情や事情より、その人間がどこに並ぶかのほうが先に決まる。
扉が叩かれた。ハルヴァではなく、若い下役の女が一人、盆を持って入ってくる。黒パンと薄切りの燻肉、白い果実を煮たものが少し。
彼女は机へ盆を置き、私へちらりと視線を向けた。好奇心と警戒が半分ずつ。
「監査室長代行より。こちらで食事を」
「ありがとうございます」
ネムが受ける。
女は出ていきかけ、ふと思い直したように私へ言った。
「……ほんとうに、墓を読むんですか」
「読むらしい」
「それで地下の根も」
「そうらしい」
「気味が悪いですね」
「知ってる」
彼女は少しだけ口元を動かした。笑ったのか、顔をしかめたのか分からない表情だった。
「王都では、気味の悪いものが役に立つこともあります」
「だろうな」
「でも、役に立つと長生きできるとは限りません」
「それも知ってる」
彼女は一礼して出ていった。
扉が閉まり、私は燻肉を一枚つまんだ。塩辛い。だが腹に落ちる感じは悪くない。
「村でも王都でも、値踏みは同じだな」
私は言った。
「違います」
エナが答える。
「村では“何に使えるか”を見ます」
「王都は?」
「“何にしてしまえるか”を見ます」
私は食べる手を止めた。
その違いは大きい。
使えるかどうか、ではない。何に変形できるか。どの席へ押し込めるか。
王都はたぶん、人間を材料として見る場所なのだ。
ネムが紙へ追記しながら、低く言った。
「王位に関わる席はなおさらです」
「やめろ」
「事実です」
「励まされてる気が一切しない」
「励ましてはいません」
外の鐘がもう一度鳴った。
祈りの時間が終わったらしい。
中庭にいた下役たちが再び歩き始めるのが見える。誰も空を見ない。格子越しの灰色は相変わらず低く、建物の上を骨魚の影が流れた。
私は水をもう一口飲んだ。冷たさが喉を通る。
正しい渇き、という言葉を思い出してしまう。
人が水を欲することにさえ順番や正しさを持ち込むなら、この国はもうだいぶ末期だ。
「リョウ」
エナが言った。
「はい」
「今、逃げたいですか」
「さっきよりはな」
「まだ少しですか」
「少しじゃない。かなりだ」
「それなら正常です」
私は苦笑した。
「正常判定が不吉すぎる」
「王都では、逃げたいと思えるうちは大丈夫です」
「思わなくなったら?」
「席に馴染み始めています」
その言葉は、なぜか水より冷たく感じた。
扉の向こうで足音が止まる。今度は複数だ。
ハルヴァの声がする。もう一人、もっと低くよく通る男の声。
重い鍵が回る。
私は反射的に背筋を伸ばした。
扉が開く。
入ってきたのはハルヴァと、黒ではなく深い灰銀の衣をまとった男だった。年齢は五十前後。痩せているが威圧感がある。指には印章のついた指輪。役人というより、もっと宮廷に近い空気をまとっていた。
「紹介します」
ハルヴァが言う。
「宮廷埋葬部次官、セリオ殿です」
次官。
私は内心でうんざりした。
肩書きが重くなるほど、話は厄介になる。
セリオは部屋を一瞥し、最後に私へ目を止めた。
その目には、村人や兵士や下役たちのような露骨な値踏みはなかった。
もっと洗練された、しかしずっと冷たい種類の査定があった。
「あなたが異邦人」
「そうです」
「地下の根を読んだと」
「読みました」
「結構」
彼は椅子にも座らず、まっすぐ言った。
「王墓が動き始めています。あなたには、今夜、宮城へ来てもらいます」
私はパンを噛みきる気力を失った。
どうやら水差しと祈りの時間は、ここで終わりらしかった。




