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やわらかな王の墓  作者: たむ


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第1話 王の墓はまだ空である

 人が別の世界へ落ちる瞬間に何を見るのか、私は知らない。光だとか、懐かしい声だとか、人生の走馬灯だとか、そういうものを当然のように語る人間は多いが、少なくとも私には何もなかった。

 最後に覚えているのは、蛍光灯の白いちらつきである。会社の非常階段、夜の二時二十分、踊り場にしゃがみ込んだ私は、修正済みの見積書をスマートフォンで確認しながら、次の会議では誰が私の責任にするのかを、妙に冷静に考えていた。

 営業の失敗は営業のせいではなく、製造の見積りが甘かったせいになる。製造の遅延は製造のせいではなく、営業が無理な納期を約束したせいになる。管理は管理で、全体最適という美しい言葉を使いながら、結局は誰か一人の背中に荷物を寄せて終わる。そういう会社だった。

 私はそれなりに有能で、それなりに便利で、それなりに替えが利いた。

 その夜、ふいに思った。

 このままここで死んでも、明日の会議はなくならないのだろうな、と。

 そして次の瞬間、私は土の上にいた。


 頬に冷たいものが触れていた。雨ではない。細く、しなやかで、湿り気を帯びた白いものだ。私は反射的に顔を上げ、それが地面から這い出た根のようなものだと知った。だが木の根ではなかった。白いそれは、ゆっくりと膨らみ、しぼみ、まるで呼吸するように脈を打っていた。血管に似ていた。いや、似ているというより、ほとんど血管そのものだった。

 私は声もなく後ずさろうとして、左足首に激痛を覚えた。ひどく捻っている。折れてはいないらしいが、立てるかどうかは怪しい。

 喉が乾いていた。背中は冷えていた。スーツの膝は破れ、ネクタイは泥を吸って重くなっていた。スマートフォンは画面に蜘蛛の巣のようなひびを走らせ、何度押しても黒い板のままだった。圏外、という表示すら出ない。

 顔を上げる。

 そこで私は、空を見た。


 曇天ではない。夜でもない。空そのものが灰色の膜のように低く垂れ込め、その向こう側を何か巨大な影が泳いでいる。最初は雲かと思った。しかし尾があった。背骨があり、肋骨があり、巨大な魚の骨だけが、海ではなく空をゆっくりと横切っていた。

 尾がしなるたびに、灰色の天井が波打つ。

 私はしばらく、それを理解できずに見ていた。理解できないものを見ていると、人は恐怖より先に沈黙するらしい。現実感というのは、理解できる範囲に世界を閉じ込めるための檻なのだと、そのとき初めて知った。


 風が吹いた。

 見知らぬ草木の匂いが鼻に入る。湿った土、乾いた樹皮、どこか甘い花の腐りかけた香り。耳を澄ますと、森は静かでありながら、決して無音ではなかった。葉擦れの音、遠くの滴り、地面の下を何か小さなものが走る微かな気配。

 私は自分の頬をつねった。痛い。夢ではないらしい。

 異世界、という単語が頭に浮かんだのは、そのずっとあとだった。最初に考えたのは、水を探さなければ死ぬ、ということだけだった。人間は極限になると案外常識的である。世界の法則が変わろうと、喉は渇くし、足は痛むし、今日生き延びる方法を考えるほかない。


 周囲を見回すと、木立のあいだに細い道があった。獣道にしては妙に踏み固められている。誰かが通っているのだ。誰かがいるのなら、水も、火も、食べ物もあるかもしれない。

 私は立ち上がり、木の幹に手をつきながら一歩ずつ進んだ。足首が熱を持ち、痛みが心臓の鼓動に合わせて脈打つ。

 十歩。二十歩。

 そのとき、どこか遠くで鈴の音がした。

 ひどく澄んだ音だった。神社の本殿で鳴る鈴にも似ていたし、病院のナースコールにも似ていた。救いを呼ぶ音と、管理を呼ぶ音は、案外近い場所にあるのかもしれない。

 私はその音に引かれるように進んだ。


 道の先は森の切れ目になっていた。そこに、小さな墓地があった。

 十基ほどの墓標が、円を描くように並んでいる。石ではない。陶器にも骨にも見える灰白色の材質で、どれも人の背丈ほどの高さがあり、表面には見慣れない文字が刻まれていた。

 読めるはずがない。

 なのに私は読めた。


 ――最初の王、民を飢えから救うため、自らの名を捨つ。

 ――第二の王、海を鎮めるため、母を埋む。

 ――第三の王、赦しを知らず、国を半分に割る。


 王の墓だ、と私は理解した。

 ここは知らない土地で、この文字は知らないはずなのに、意味だけが頭の中へ滑り込んでくる。胸の奥がわずかに冷たくなる。読まされている、という感じだった。

 墓標の列の一番奥に、ひとつだけ新しいものがあった。表面はまだ乾ききっていないようにしっとりと艶を帯び、刻まれた文字の溝に淡い影が落ちている。

 私は引き寄せられるように近づき、そこに刻まれた文を読んだ。


 ――第十三の王、まだ死なず。されど、すでに墓にあり。


「何だよ、それ」


 自分の声が妙に軽く響いた。

 その瞬間、背後で土を踏む音がした。


 振り向くと、少女が立っていた。

 十六、七に見える。黒い喪服のような衣を着て、肩口で切りそろえた髪が風にも乱れない。顔立ちは整っていたが、いわゆる可憐さや愛嬌というものがない。その代わり、表情の奥に沈んだものがあった。悲しみと呼ぶには冷静すぎ、冷静と呼ぶには深すぎる何か。

 右手に鈴の下がった細い杖を持ち、左手には白い花を一輪、逆さに提げている。

 少女は私と墓標を見比べ、少しも驚かない声で言った。


「その墓を読めるのですね」


 日本語だった。

 だが抑揚の置き方が微妙に違う。歌のような波があって、こちらの耳が勝手に意味へ寄せていく。


「読める、みたいだ」

「なら、やはり外から来た人ですね」

「外?」

「ここではない場所から」


 少女は当然のことのように言った。

 私は笑いそうになった。笑うしかなかった。説明不足にもほどがある。だが目の前の墓と空の骨魚を見てしまったあとでは、否定する材料も乏しい。


「君は誰だ」

「埋葬官見習いのエナ、と呼ばれています」

「呼ばれています、って」

「本当の名は、死者に近づきすぎるので持ちません」


 意味がわからなかったが、追及する前に足の痛みで顔が歪んだ。エナはそれを見て、ようやく私の全身を観察したらしかった。泥に汚れたスーツ、裂けた袖口、傷んだ革靴、腫れた足首。

 彼女は白い花を墓前に供え、淡々と言った。


「歩けますか」

「たぶん、あまり」

「では村まで案内します。日が落ちる前に」

「落ちるとまずいのか」

「王たちが息を始めるので」

「……墓の中で?」

「ええ」


 冗談を言っている顔ではなかった。

 私は深く息を吸い、痛む足を庇いながら一歩踏み出した。エナが杖を差し出してくる。私はそれを借り、ぎこちなく体重を預けた。

 墓地を離れるとき、どうしても気になって振り返る。第十三の王の墓は、灰色の空の下で湿ったように光っていた。誰も埋まっていないはずなのに、まるで持ち主の到着を待つ席のようだった。


「第十三の王って、今の王なのか」

「そうです」

「生きてるのに墓がある?」

「この国では、王は即位した日に半分死にます」

「半分」

「残りの半分で国を治め、最後の一片で自分が誰だったかを思い出します」

「詩みたいでわからないな」

「制度ですから」


 制度。

 その言葉を聞いた途端、私は奇妙に安心した。制度のある世界なら、理不尽にも手順がある。手順があるなら、隙もある。

 会社員というものは、制度に殺されながら制度の抜け道を探す生き物だ。


 森を抜けると谷あいに村が見えた。屋根はどれも低く、家々が地面に伏せるように建っている。風を避けているのか、空を恐れているのかはわからない。中央の井戸のそばには、首を切られた王の石像が立っていた。よく見ると両腕で何かを抱いている。近づくにつれ、それが自分の首であることがわかった。

 私は立ち止まった。


「趣味が悪いな」

「この国では、王はよく民に愛されます」

「愛されてこれか」

「ええ。とても」


 エナは真顔だった。

 井戸端にいた老人や女たちがこちらを見た。視線が私の服装を舐めるように移動し、泥、革靴、ネクタイ、顔、足首、手、と順番に値踏みしていく。排除ではない。歓迎でもない。共同体が外から来たものを測る目だ。この人間は役に立つか、害になるか、どれだけ食うか。

 胸の奥に、嫌に懐かしい感じが走った。

 異世界でも同じか、と私は思った。人間がいる場所では、まず所属より査定が先に来る。


 エナは私を村はずれの小さな家へ連れていった。扉を開けると、乾いた薬草と古い紙の匂いが鼻を打つ。部屋には棚が並び、羊皮紙の束と骨でできた風鈴が吊るされ、窓辺には白い花が逆さに干してあった。

 彼女は無駄のない手つきで水を汲み、布を裂き、私の足首に薬草を当てて巻いていく。手つきが妙に慣れている。


「名前は」

「真柴遼」

「リョウ」

 エナはその音を一度だけ丁寧に繰り返した。

「では、リョウ。明日、王都へ行ってください」

「いや、急だな」

「第十三の王が、あなたを待っているからです」

「会ったこともないぞ」

「墓があなたを読ませたので」


 その言葉の意味を聞き返す前に、家の奥で風鈴が鳴った。

 骨の小片が触れ合う、歯のような乾いた音。エナの表情が初めてわずかに変わる。彼女は立ち上がり、本棚の奥から黒い帳面を取り出した。

 開いたページは真っ白だった。

 しかし、数秒ののち、紙の裏から血が滲み出るように暗い赤の文字が浮かび上がってきた。


 私は息を呑んだ。

 エナはその文字列を見つめ、初めて人間らしく眉を寄せた。


「どうした」

「……おかしい」

「何が」

「死者の記録です」

「誰か死んだのか」

「ええ」


 彼女はページから目を離さずに言った。


「王です」

「第十三の?」

「いいえ」


 そこで初めて、エナは私を見た。


「第十四の王が、いま死にました」


 意味がわからなかった。

 第十三の王がまだ生きているのに、第十四の王が死ぬ。順番が壊れている。いや、もしかするとこの国では、死のほうが先に来るのかもしれなかった。墓が先にあり、人はあとからそこへ追いつくのかもしれない。

 外で夕方の鐘が鳴り始めた。

 それは村の時刻を知らせる音というより、国全体がゆっくりと沈み込んでいく合図のように聞こえた。

 エナは帳面を閉じ、静かに言った。


「リョウ。あなたは運が悪いです」

「知ってる」

「そして、たぶん王に向いています」

「それは運が悪いどころじゃないな」


 骨の風鈴が、もう一度だけ鳴った。

 私はその音を聞きながら、自分がどこに来てしまったのかではなく、ここで何に巻き込まれるのかを考えていた。

 たぶん、その時点で私はまだ理解していなかった。

 この国では王が人を支配するのではない。

 墓が、王を支配しているのだということを。

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