マレーナの決意②
マレーナが目を覚ましたのは正午をまわり、三時を過ぎたころだった。なかなか目を覚まさないマレーナを心配して、ヨハンが何度も寝室に訪ねてきたらしい。
「私もとても心配したんですよ。症状が悪化したわけでもなさそうなので安心しました」
「それは申し訳なかったわね」
いつもと変わらないキャメロンを、いったい自分はどんな目で見ているのだろう。きっと彼女がなにも疑うことがないくらい自然に笑っているはずだ。
眠りに就く前は、キャメロンの顔を見たらカップくらい投げつけてやろうかと思っていたが、自分でも意外に思うくらい冷静に対処できていることに安堵する。
「なぜかしら。すごくよく眠れたのよ。……昨日は、あのお茶を飲んでいなかったのに。どうしてかしら?」
そう言ってキャメロンをチラッと見たが、その表情に変化はない。
「もしかしたら……疲れてよく眠れたのかもしれませんね」
「そうかもしれないわね。それなら、これからはしっかり歩くようにするわ。ふふふ」
「いかがなさいましたか?」
マレーナが突然笑いだしたことを不思議に思ったキャメロンが首を傾げる。
「歩いたら疲れて眠れるなら、あのお茶を飲む必要なんてなかったと思って」
「……まぁ、そう、ですね」
「実は私、あのお茶が苦手だったの。苦手というより、嫌いなほうだったわ」
これまで毎晩飲んでいたお茶はカモミール。リラックス効果があり、よい眠りを得ることができることから、好んで飲む貴婦人が多いお茶だ。
しかし、マレーナがこれまで飲んでいたカモミールには、健康を考えて薬草などをブレンドしている、とキャメロンから聞いていた。だからカモミールだけではない複雑な香りがするのだと。その薬草がなんなのか、本当に入っているのは薬草なのか、は確認したことがなかったが。
「だから、これからは白湯を飲むようにしようかしら。だって寝る前に嫌いなものを口にしたくないもの」
「……かしこまりました」
キャメロンは少し顔を曇らせながらも、マレーナの言葉に応じる態度を示す。
「それと、ヨハンを呼んでくれないかしら?」
「はい、すぐにお呼びします」
そう言ってキャメロンは何事もない顔をして部屋を出た。キャメロンがドアを閉めると、マレーナは大きく息を吐いた。
「私が白湯を飲むと言ったら、キャメロンはちょっと動揺していたわね。でも、その瞬間だけ……。顔に出さない淑女教育が役に立っているわね、キャメロン」
しかしそれはマレーナも同じだ。
(動揺なんてしないわ。絶対に殺されてなどやらない。あなたたちの思いどおりには絶対させない)
部屋のドアをノックする音が聞こえ、許可をすると険しい表情をしたヨハンが入ってきた。そしてマレーナを見て、ホッとしたように表情を緩める。
「マレーナ様」
「ヨハン、来てくれてありがとう」
「なかなか目を覚まされないので心配しました」
普段表情を崩さないヨハンの安堵した顔を見れば、それが心からの言葉だとわかる。彼こそマレーナの味方だ。
「キャメロン、ちょっとヨハンと話があるから二人きりにしてちょうだい」
「二人きりですか?」
「ええ」
「でも……」
キャメロンはなにか言いたげな顔をしている。
「なにか心配?」
「いえ……」
「仕事の話があるの。最近はメイソンとヨハンに任せっきりだし」
「それならメイソン様をお呼びしましょうか?」
「彼は忙しいでしょ?」
「それはそうですが……」
キャメロンはまだなにか言いたそうだ。しかし、ヨハンがそれを許さなかった。
「キャメロン、マレーナ様の指示に従いなさい」
「……はい、わかりました。部屋の前にいますので、なにかありましたらすぐにお声をかけてください」
「わかったわ、ありがとう」
そう言うと、キャメロンは部屋を出ていった。キャメロンの背中を見おくり、ドアがしっかり閉まっていることを確認してからマレーナに向きなおったヨハン。
「体調はいかがですか?」
「ずいぶんいいわ。気分は最悪だけど」
「いかがなさいましたか? 私を呼ぶということは、なにか問題が?」
さすがにヨハンは勘がいい。当然か。これまで、ヨハンをわざわざ寝室に呼ぶことなどほとんどなかったのだから。
うつむき気味に溜息を吐いてから、ヨハンを見る。
「メイソンとキャメロンに裏切られたの」
「いったい、それはどういう意味でしょうか?」
「あの二人、不貞を働いていたの」
「なんですって……?」
「しっ」
想像もしていなかった話に、ついヨハンの声が大きくなった。
「それを知ったのは昨日よ。客用寝室で密会していたわ」
「なんてことだ……」
ヨハンは青い顔をしているが、瞳はマレーナの期待どおり怒りを孕んでいた。
「いかがいたしますか?」
「もちろん、出ていってもらうわ。でも、ただ追いだすだけなんてありえない」
「もちろんです」
マレーナの言葉にヨハンも同意のようだ。
「私を裏切ったことを後悔させてあげないと」
マレーナの声は静かだが、ただならぬ覚悟を感じさせ、ヨハンの瞳が光った。
「とおっしゃいますと」
「私たち子どもがいないでしょ?」
「まさかメイソン様との間に子どもを?」
「ありえないわ」
「では?」
マレーナは眠れない時間に子どものことを考えていた。
二人の間には子どもはおらず、妊娠をしているわけでもない。その状態で離婚をすれば困るのはマレーナだ。だから――。
「子種をもらうつもりよ」
「……は?」
「メイソン以外の男性の子種をもらうの」
その言葉にヨハンがぎょっとする。
「な、なにをおっしゃっているのです? なりません!」
パンを買うのとはわけが違う。子種をもらうということは相手と性交をするということなのだ。
「メイソンとの子どもなんて絶対ありえなし、とてもではないけど再婚なんて考えられない。それなら、赤の他人の子どものほうが、ずっといいわ。口が堅くて、ただ子種だけを提供してくれる赤の他人のほうがずっとまし」
契約結婚を持ちかけることもできるが、結婚をしてしまえばメイソンのような野心を抱かないとは限らない。離婚をしても、子どもを理由にどんなふうにかかわってくるかもわからない。それなら、ただ子種をもらうほうがいい。
「しかし、そんな都合のいい相手など――」
「ギルドに依頼するつもりよ」
「ギルドですか?」
「身元が確かで、一切詮索をしない男性を紹介してもらうわ」
「いや、しかし……」
あまりに話が突飛だし、リスクが大きすぎる。
「ほかに方法がないの」
「養子を貰いましょう。それが確実です」
「でも、ウェストモントの色を持つ子はいないわ」
「それでもいいではありませんか。なにも、マレーナ様がそのようなことをなさらなくても」
「そうね……」
ヨハンが言わんとしていることは理解しているし、まったく知らない男に抱かれてまで子を産んで、その子がウェストモントの瞳の色を持っていなかったらどうするのだ? と考えないわけではない。
「それでも、チャンスがあるなら自分の子どもを産みたいのよ」
「……」
マレーナは性交渉が好きではないし、あんなに苦しいことのなにがいいのかも理解できない。できることなら赤ん坊が天から降ってくればいいのにと思ったことだってある。
でも、腹を痛めて産んだ子を腕に抱き、慈しむ自分の姿を想像してしまうのだ。
「自分の子どもを抱きたいのよ」
「マレーナ様……」
ヨハンは小さく息を吐いて首を振った。
きっとヨハンがなにを言ってもマレーナは自分の意志を曲げないだろう。それに、マレーナの切実な願いをヨハンが無視することはできない。
「わかりました。その話はもう少し考えましょう。とにかく今は体調を戻すことが大切です」
「ええ、そうね。まずは、そこからね」
「新しい医師を探します」
「ええ、もちろんそれも大切だけど、私、体調が悪い原因がわかったの」
「え? 本当ですか?」
ヨハンはマレーナの言葉に驚いて目を見ひらいた。
「私は、メイソンたちに毒を盛られていたの」
「なんですって……? まさか、そんなことを……」
「彼らが話をしているのを聞いたから間違いないわ。メイソンとキャメロンは、私を殺したいそうよ」
「な、なんてやつらだ!」
ヨハンは怒りで顔をゆがませてドアの向こうにいるキャメロンを睨みつけ、握りしめた拳にさらに力を入れた。
「これからは、給仕をキャメロン以外の人にさせて。いえ……それより私が使用人たちの食堂に行くわ」
「しかしそれは……」
「最近皆とあまり顔を合わせていないし、コミュニケーションを取るためにもそうするわ」
「かしこまりました。では、そのようにいたします」
「ありがとう、ヨハン」
ヨハンに任せれば、うまく手はずを整えてくれるはずだ。
「ところで、お食事はまだでしたな。なにか食べ物をお持ちしましょう」
「ありがとう。温かいスープをお願いできるかしら?」
「かしこまりました」
そう言ってヨハンが出ていくと、入れ替わりにキャメロンが寝室へ入ってきた。
「マレーナ様、気分はいかがですか?」
「ずいぶんいいわよ。今、ヨハンがスープを持ってきてくれるから、それを飲んだら少し休むわ」
「そんなこと、私がしましたのに」
「いいのよ、あなたも私につきっきりで大変だったでしょ? 部屋に戻って少し休みなさい」
マレーナがそう言うと、キャメロンは嬉しそうにお礼を言って、そそくさと寝室を出ていった。
その後ろ姿を見おくってマレーナは大きな溜息を吐く。
普段と変わらない態度を心がけても、キャメロンを前にすると緊張して顔が強張る。それに対してキャメロンは、これまでと変わらない笑顔をマレーナに向け、心配そうにマレーナの顔をのぞき込んだ。その顔は愛らしく、とてもではないがマレーナの死を望んでいるようには見えない。
「淑女教育のたまものね……」
こんなふうに彼女の成長を知りたくはなかったけど、と思わず乾いた笑いがこぼれる。
しばらくするとヨハンがスープを運んできた。
「今日は、ニンジンとジャガイモのスープですが、少し固形の野菜と肉を追加してもらいました」
「まぁ、手間をかけさせてしまって申し訳ないわ」
「なにをおっしゃいますか。マレーナ様のためなら、料理人たちはいくらでも頑張りますよ」
「ふふ、嬉しいわ。皆にお礼を言っておいてくれる?」
「かしこまりました」
その日から、マレーナは朝の食事を使用人たちととるようになった。毎日散歩をして体力をつけ、夕食はメイソンととり、寝る前には白湯を飲む。
そんな生活を続けていたところ、半年もたったころには、体力もずいぶんと回復し、仕事をこなせるまでになった。
読んでくださりありがとうございます。