マレーナの幸せ②
「マレ、いや……ウェストモント伯爵」
呆然としているマレーナに、十年前よりずっと距離を置いて話しかけたルイス。
「はい……」
静かに返事をしてルイスに向きなおり、じっとルイスを見つめる。
目の前のルイスは、あのころとまったく変わらない容姿をしていた。黒く染めた長めの髪をひとつに結わき、眼鏡をかけて――いや、変わっていないことはない。あのころのような若さはないし、雰囲気もずいぶん落ちついている。その分、色気が増したようだ。
しかし、変わったのはマレーナも同じ。いろいろな経験をして、少しのことでは動じない度胸を身につけたし、シーンに合わせて完璧な表情を作ることにもすっかり慣れた。正義感だけではやっていけないことも知っているし、狡猾に立ちまわることも覚えた。もう、あのころのマレーナではない。
それなのに、あっという間にあのときの気持ちがマレーナの体を支配する。
「お元気でしたか」
「はい、毎日忙しくさせていただいております」
「そうですか」
「……」
言葉が出てこない。
二人の間には誰にも言えない秘密があるが、懐かしさに花を咲かせるような思い出があるわけではない。それでも、言葉にしたい思いがある。あのとき告げることができなかった言葉が。
でも、それを口にしていいのか。そうしたところで二人の関係がどうなるわけでも――。
「……キングストンは、あのときの子ですか?」
沈黙を破ったのはルイス。マレーナは顔を上げ、小さく微笑む。
「……はい、あなたに似てきれいな銀髪でしょ?」
「そうですね。あの瞳は、ウェストモントの色ですね」
「……ええ、そうです」
マレーナが望んだ、青みがかった黒い瞳。その瞳を持つキングストンはマレーナの執念の結果なのだが、正直に言って今のマレーナには、キングストンの瞳が青みがかった黒い色だということはそれほど重要ではない。
キングストンがお腹の中にいる間、マレーナがずっと願っていたことは、無事に生まれてくること。健康なら男の子でも女の子でもいいし、瞳の色なんて何色でもかまわない。ただ、無事に生まれてきてほしい。それしか願うことはなかった。
もちろんキングストンがウェストモントの瞳の色を持って生まれてくれたことはうれしい。でも、もしキングストンの瞳が黒かったとしても、残念だとは思わなかっただろう。
マレーナとって大切なのはキングストンという存在であって、瞳の色なんておまけのようなものなのだ。
「行動力はあなた譲りかな?」
それに、頑固な――いや、芯の強そうなあの顔は、十年前のマレーナを思いださせる。
「あの子が、あなたに会いに行ったのですか?」
「……ええ」
「そうですか……。では、契約違反したのは私ですね」
「いえ、こちらにも非がありますから」
アントンが好奇心に従ってキングストンをギルドの中に入れるようなことをしなければ、迷わずルイスの所まで連れてくるようなことをしなければ、ルイスはこの場にいなかったかもしれない。
「……あの子、わかっているんですよね」
「そう、ですね」
子どもにさえ説明できない二人の関係を。でも――。
「私、あのときのこと、後悔しています。今日までずっと後悔していました。……キングストンとあなたが重なるたびに、苦しくて」
「……」
ルイスはうつむいて唇をギュッと結ぶ。
(やはり、依頼を受けるべきではなかった。俺は、ここに来るべきじゃなかったんだ)
「あのとき、自分で依頼完了の報告をしに行くことができなくて、ヨハンに……家令に行ってもらいました。私はどうしても、あなたの顔を見ることができなかった」
自分の気持ちが怖かった。抱いてはいけない感情を抱いていると認めるのが怖かった。だから、ヨハンに行ってもらったのに。
「ずっと後悔しかなくて。……なんで、あのとき、ちゃんと伝えなかったんだろう。どうして、結婚を申しこまなかったんだろうって」
「え……?」
ルイスが驚いて顔を上げた。
「すべてが終わったら、結婚してくださいって言えばよかったって」
マレーナが真っ赤な顔をしてうつむき、両手を強く握りしめている。それだけで彼女がとても緊張していることがわかる。
「それは本気ですか?」
おそるおそる聞くルイスに、マレーナが小さくうなずく。
「俺は平民です」
「関係ありません」
「キングストンが知ったら傷つくかもしれません」
「あの子は私の幸せを願ってくれています」
「俺と一緒になったらあなたは幸せ?」
「はい、しあわ、せ……」
そこまで言ったところでハッと気がついたように顔を上げ、ルイスと目が合うと自身の顔を両手で隠した。
恥ずかしさと緊張で熱を持った真っ赤な顔を、ルイスに見られたくはない。それなのに、ルイスはマレーナの前まで来ると、顔を覆っていた両手をとって跪いた。
「俺も後悔しました。……なんで、子どもができてしまったんだろうって思ったこともあります。おかしな話ですよね、依頼を果たしたのに」
「……」
「もう会えなくなるなって」
ルイスが自分と同じように思っていてくれた。そう思うと胸が高鳴り、ますます体が熱くなる。
「私に会いたいと、思っていてくれたのですか?」
「ええ」
「今もその気持ちは変わらない?」
「変わりません」
ルイスが微笑みうなずく。
「私と結婚、してくれますか?」
「……キングストンが許してくれるなら」
「きっとあの子は大喜びをしてくれると思うわ」
そう言って見せたマレーナの美しい笑顔。
思わず腕を伸ばして力強くマレーナを引きよせ、ギュッと抱きしめた。変わらない華奢な体。何度思いだそうとしても、記憶に留めることができなかった愛しい人の甘い香り。
ルイスの温もりに包まれたマレーナの瞳から涙がこぼれる。こんなふうに泣くのはいつ以来だろうか。
ずっと一人で立ってきた。もちろん、マレーナを支えてくれる人はたくさんいたが、でも、寄りかかることはできなかった。マレーナは誰よりも前に立って、皆を引っぱっていかなくてはならない立場だから。
でも今だけは、ただの女になって愛しい人の胸に身を任せてもいいだろうか。
「……」
「……」
「……」
ドアのわずかな隙間からこっそりと二人を見つめる複数の目。キングストンとヨハンとベス。キングストンはちょっぴり頬を染める。そして、ひそひそ声。
キ「僕、父様ができるのかな?」
ヨ「そうだといいですな」
ベ「坊ちゃんにかかっていますよ」
キ「任せてよ」
ヨ「私は仕事を引きつげれば、この際誰でも……」
キ「ヨハン、僕が大人になるまでちょっと待ってて」
ベ「お祝いのケーキを用意しなくてはいけませんね」
キ「苺たっぷりのケーキがいいと思うよ」
ヨ「それは、坊ちゃんがお好きなケーキですな」
ベ「マレーナ様は、ドライフルーツのラム酒漬けがたっぷり入ったケーキがお好きですわ」
キ「僕はそれ、好きじゃないよ」
ベ「存じております」
ヨ「我々はお邪魔ですし、しばらく二人きりにしてあげてはいかがですかな?」
ベ「そうしましょう」
ウェストモント伯爵家の使用人と息子はマレーナ思い。だから静かにドアを閉め、ヨハンとベスは自分の持ち場に戻り、キングストンは自分の部屋へと向かった。
廊下を歩くキングストンの足取りは軽く、スキップでもしてしまいそうなほどウキウキしている。
(ついに、僕に父様ができる! しかも、すごく格好いい! クラスの友達が自分の父親のことを格好いいって自慢していたけど、はっきり言って僕の父様には敵わないよ。しかも、街最大のギルドのギルドマスターだよ? 最高だ!)
キングストンは、飛びあがってひゃっほーっと叫びたいのを我慢して、ぐっと拳を握った。
着替えをすませ、いつでも鍛錬できるよう準備を整えたキングストンは、イスに座って空を眺めている。
ようやく興奮が落ちついてきても、ルイスが自分の父親になるのだと思うとついニヤニヤしてしまう。
「父様、かぁ……。でも、師範も捨てがたいなぁ……」
ルイスのことを父様と呼ぶか、師範と呼ぶかで悩むキングストン。
「そうだ。普段は父様と呼んで、鍛錬のときは師範と呼ぼう!」
父親であり師範でもあるなんて最高じゃないか。
それから、先ほどの二人の様子を思いだしてちょっと頬を染めて、二人の顔を思いだして、これからの楽しそうな未来を想像する。楽しみなことが多すぎてニヤニヤが止まらない。
チラッと壁にかかっている時計を見た。
キングストンが客間を出てからずいぶん時間がたったが、今ごろ二人はなにをしているのだろうか? どんな話をしているのだろうか? すごく気になる。でも野暮なことはしない。キングストンは空気の読める男だ。
頭の後ろで両手を組み、イスの背凭れを背中でグッと押した。
「今日は鍛錬しないかもしれないなぁ」
「いや、するぞ」
突然ドアが開いて、ルイスが顔をのぞかせた。
「師範!」
キングストンの顔がパァっと輝く。
「準備にずいぶんと時間がかかるんだな」
「へへ、もう終わっています」
そう言って庭に出た二人は、長い時間を剣の鍛錬に費やしていた。
そんな愛しい二人を少し離れた所から見つめているマレーナ。その表情はとても柔らかい。
それから、毎日のようにルイスが屋敷にやって来た。
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