マレーナの幸せ①
キングストンがギルドを訪れた日から一週間がたった日の午後。
朝からずっとソワソワしているキングストンが、屋敷の玄関の前に立って、キョロキョロしたり背伸びをしたりしながら誰かを待っている。その隣には家令のヨハン。
「まだかなぁ?」
「約束の時間まで、まだ三十分ほどありますからな」
ヨハンがそう言うと、キングストンが残念そうな顔をした。
いつもよりずっと早い時間に目を覚ましたキングストンは、最近毎日欠かさずやっている柔軟体操、ジョギング、剣の素振りをすべて終わらせ、余った時間で宿題を終わらせて時計を見て、本を読んで時計を見て、外を見て時計を見て、と落ちつかない午前中を過ごしていた。
ふと顔を上げると、遠くからこちらに向かってくる人影が見えた。徐々に近づいてくるその人影が、ずっと待っていたその人だと確認したキングストンが、顔を輝かせて駆けだす。
「お待ちしていました!」
キングストンが抱きつかんばかりに駆けよった相手はルイス。
「少し遅かったですか?」
「いいえ、僕が早かったんです。どうぞ、こちらです」
キングストンはニコニコしながら踵を返して、屋敷へと歩きだし、ルイスもそれに倣って歩きだした。
「本当に屋敷の庭で鍛錬をするのですか?」
「当然です。ほかの人の目につくような所でするなんて格好悪いですから」
「そうですか」
(まいったな……)
依頼を引きうけたまではいいが、いざそのときが来ると弱気になり、屋敷にたどりつく前に何度もひき返そうと思った。
(まさか、屋敷の庭で鍛錬をするなんて思わないだろ!)
しかしキングストンから、母親から了解を得られなかったから、屋敷以外の場所で鍛錬はできない、と言われればルイスが足を運ぶしかない。
とはいえ、ルイスはここでは招かれざる客だ。ましてや、マレーナに会ってしまうようなことになれば――。
あれこれと考えている間にぐいぐいとキングストンに手を引かれ、気がつけば建物のすぐ近くまで来ていた。
「君のお母さんは私が来ることをご存じなのですか?」
「いいえ、知りません」
ルイスはその言葉を聞いてホッとしたし、少し残念な気持ちにもなった。
「とりあえず、屋敷に入りましょう」
「え、入るんですか?」
「ええ。それに、僕にていねいな言葉を使わないでください。あなたは僕の師範ですから」
「しかし……」
キングストンは貴族でルイスは平民。たとえキングストンがルイスを師範と呼んでも、身分が変わるわけではない。
「お願いします。師範は弟子にそんな言葉は使わないものです。ヨハンがそう言っていました」
「また、スーパー爺さんですか」
「そうです。ほらあの人です」
キングストンが玄関の前に立っている白髪の老人を指さす。
(彼は……)
十年前、依頼の完了を伝えに来た男だ。後金を約束の金額より多めに払って、マレーナに二度とかかわらないように、と念を押して。
ルイスの体が緊張で強張る。彼がルイスに気がつけば、どうなるのか――が、どうにもならなかった。
「お待ちしておりました。坊ちゃんよりお話は聞いております。まずは部屋へご案内いたします」
ヨハンは恭しく頭を下げ、身構えていたルイスは拍子抜けして、思わずヨハンの顔をじっと見つめてしまった。しかし、ヨハンはニコッと愛想のいい顔をしただけ。
(え……? 彼女に二度とかかわるなと言ったよな……? もしかして、俺に気がついていないのか?)
そういえば、ヨハンとはわずかな時間しか顔を合わせていない。ルイスのことがわからなかったとしても不思議ではないか。
その考えに至って、ホッとするルイス。おかげで屋敷の中を見まわす余裕が生まれた。
屋敷の中は手入れが行きとどいており、置かれている調度品の深みのある色と艶を見れば、長い間大切に使われてきたことがわかる。
「母は古いものを大切にするんです。ですから、屋敷の中には新しいものがあまりありません」
「そうですか」
「あの時計。あれは三百年くらい前のもので、珍しい木で作られたそうです」
キングストンが指ししめしたのは、繊細な彫刻と黒い木目が美しい柱時計。
「もしかして、黒柿ですか?」
「そうです! ご存じですか?」
柿の木は淡黄色に近い色をしているが、一万本か二万本に一本くらいの割合で、樹の中心部に黒色が入ったものが見つかることがある。それが黒柿と呼ばれる木で、乾燥をさせるのに長い時間と、特別な技術が必要なため、希少性が高く高価なことで知られている。
「ほとんど流通していないため、黒柿で作られた品物をオークションに出せば、かなりの高値がつくと聞いています」
「そうなんですね! 僕、知りませんでした! 師範は物知りですね!」
キングストンはうれしそうに顔を輝かせたが、次の瞬間ハッと気がついてまじめな顔をした。
「師範!」
「な、なんですか?」
「僕は弟子なので、ていねいな言葉遣いはやめてください」
「わ、わかった。すまない」
客間に着き、二人がソファーに座ると、侍女のベスがお茶の準備を始めた。
「飲み物はなにがお好きですか? 甘いほうがいいですか? それとも苦いほうが?」
「甘い飲み物はそんなに得意ではない」
「もしかして、ケーキはドライフルーツのラム酒漬けがたっぷり入ったのがお好きですか」
「いや、特には」
「そうですか」
キングストンはひどく残念そうだ。
「母が好きなので、もしかしたら師範もお好きかと」
「残念ながらケーキは何年も食べていない」
「では、クッキーもあまりお好きではないですか?」
「まぁ、あまり食べないな」
あまり、というよりまったく。
「うちのシェフが作るお菓子はすごくおいしいから、ぜひ師範に食べていただきたかったのに」
残念そうな顔をしながらクッキーを口に入れたキングストンだったが、とてもおいしかったのか次第に笑顔になっていく。
「……それで、鍛錬はいつごろから始めますか?」
「師範」
「いつごろから始めるんだ?」
キングストンは結構細かい。
「これを食べたらやりましょう!」
そう言ってクッキーを口に放ると、もぐもぐと咀嚼してミルクで流しこんだ。
(動く前はあまり食べないほうがいいぞ)
そうは思っても、キングストンがニコニコしながらクッキーを頬張っている様子を見ると、だめとは言いにくい。
「……」
やはりキングストンは幼いころの自分によく似ている。
しかし自分が幼いころ、こんなに幸せそうな顔をしていただろうか? 大好きな兄たちに疎まれるようになってからは、兄たちに嫌われないように振る舞うことに神経を使っていて、こんなふうに嬉しそうにクッキーを食べてなどいられなかった。ただ、昔のように兄にかまってもらいたくて、ぎこちなく笑いかけられたくなくて必死だった。
ルイスが思い出をさまよい始めたころ、ドアをノックする音が聞こえた。
ハッとしてルイスが顔を上げてドアのほうを見ると、そこに現れたのはマレーナ。
「……っ!」
「剣術の先生がいらっしゃったそうですね……」
そう言って部屋の奥のソファーに座るルイスを認めると、マレーナの動きが止まった。
「え……?」
「母様!」
キングストンが駆けより、マレーナの手をとると、ルイスの前までマレーナを連れいく。ルイスが慌てて立ちあがった。
キングストンが満面の笑みを浮かべてルイスを紹介する。
「母様、こちらが師範のルイスさんです」
「え、あ、そう……」
戸惑いながらもルイスと目を合わせるマレーナ。その瞳が、わずかに潤んでいることをキングストンは見のがさなかった。
「師範、母のマレーナです」
「……ルイスです」
「母のマレーナです。……このたびは、息子が無理を言いまして……」
「いえ……」
よそよそしい二人。しかし、キングストンはそんなこと気にしない。
マレーナをソファーまでエスコートして座らせると、瞳を輝かせてルイス情報をマレーナに聞かせる。
「母様、師範は学園で一、二を争うほどの剣の腕前だったそうです」
「ま、まぁ、それは頼もしいわね」
「当然です、僕の師範ですから」
「いや、ですからそれは何十年も前の話でして」
「師範」
キングストンが目を細める。
「……細かいな」
いったい誰に似たんだ。
「あの! 僕、着替えとか剣の準備とか飲み物とか、とにかく準備しなきゃいけないことがいっぱいあるので、ちょっと自分の部屋に戻ります。ですから、しばらくの間、お二人でお話していてください」
キングストンは突然そう言って立ちあがると、スタスタとドアのほうへと歩きだした。
「え? キングストン……?」
マレーナが驚いて声をかけると、キングストンはピタッと立ちどまってふり返る。
「母様!」
「はい?」
「僕は、準備に時間がかかります! しっかりお話をしてくださいね?」
「な、に……」
「では、僕たちは失礼します」
マレーナに念を押したキングストンは、さっさと客間を出ていった。侍女のベスと一緒に。
「なにを、言っているの……なぜ、ベスまで連れていくの……」
マレーナは呆然としながら、キングストンが出ていったドアを見つめている。が、ふととんでもないことに思いあたった。
(もしかして、あの子……知っているの?)
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