マレーナの決意①
深夜に目を覚ましたマレーナ。
小さな明かりも灯っていない部屋は真っ暗で、物音ひとつ聞こえない。
「キャメロン?」
声をかけたが返事はない。
「いまは何時くらいかしら?」
目を凝らして時計を見たが、月明りだけでは針を確認することができなかった。
「喉が渇いたわ……」
マレーナは探るように手を伸ばして、ベッドの横にあるサイドテーブルに置かれたピッチャーを手にした。しかし、水はほとんど入っていなかった。
「厨房まで行くしかないわね」
小さく溜息を吐きながらベッドを降りたマレーナは、ゆっくりとドアまで向かう。
「なんだか、いつもより体が軽いわ」
常に感じている頭の重い痛みは少し和らいでいるし、歩いているのに胸もそれほど苦しく感じない。熱のせいか思考がまとまらず、朦朧とした感覚があるのが常だったが、今はそれほどでもない。こんな感覚は久しぶりだ。
それならばせっかくだから、と寝室の前の長い廊下を歩き、端の階段を降りて遠回りをして厨房まで行くことにした。
ゆっくり歩きながら、廊下に飾られている花や、窓の外を眺め、ときどき大きく深呼吸をする。
夜の廊下は静かで、少し空気が冷たくて気持ちいい。
おかげで、熱に浮かされて鈍くなった思考も、ずいぶんとクリアになった気がする。
「不思議だわ。特別なことなんてしていないのに、どうして今日はこんなに体が軽いのかしら? ……もしかして、しっかり寝たから、とか?」
そういうことなら、これからはなにがなんでもきっちり睡眠時間を確保するのだが。
「なんてね。お医者様でも見つけられなかった治療法が、睡眠をとることであるはずがないわ」
小さく乾いた笑いをこぼしながらゆっくりと廊下を歩いていると、どこからか話し声が聞こえる。
「……誰かしら?」
マレーナがいる場所は、屋敷の西側の客用寝室が並ぶ二階の廊下。客用寝室は人を招かない限り使われることがないため、一日一回使用人が掃除のために来る以外に、誰かが足を運ぶことはめったにない場所だ。
住み込みの使用人の住まいは離れの別館だし、こんな時間に人の声が聞こえることがおかしい。
「まさか、不審者……?」
マレーナは用心しながら、静かに声のするほうへと歩みを進めた。そしてひとつのドアの前で足を止める。どうやら声の主はこの部屋にいるようだ。
緊張のせいでマレーナの心臓がずいぶんと速い。ぎゅっと手を握り静かに息を吐いて、耳を澄ます。
「ふふ、メイソンって本当に悪い男」
「えっ……?」
聞きなれた声に驚いて思わず声が出てしまい、慌てて両手で口を塞ぐマレーナ。運よく声の主には聞こえなかったようだ。
「なんでだい?」
「だって、奥さんの体調が悪いのに、私とこんなことして」
会話の途中に聞こえる男女の絡みあう呼吸とベッドが軋む音。
(メイソン? 相手は……キャメロン? なに? なんで? え?)
混乱する思考がますますマレーナの心臓の動きを速くする。体が一気に熱くなり、その熱が顔に集まっていくのを感じる。手が震え、息が苦しくなり、瞳に涙が浮かぶ。
「あの人に、あなたが部屋に来たかって聞かれたから、適当に言っておいたわよ」
「ああ、それでか。なんのことを言ってんだかわからなくて困ったよ」
「そんなこと言って。私がフォローしなかったらボロが出ていたかもしれないんだから、感謝してよね。あの人の機嫌取るの、大変なんだから」
「感謝しているよ、もちろん」
「ふふ」
よく知っているはずのキャメロンの声が、聞いたことがないくらい甘ったるくて、まったく知らない女性のように感じる。
普段、穏やかで優しい口調で話すメイソンも、ずいぶんと乱暴な物言いだ。
それよりもマレーナの心を突きさすのは、キャメロンが言った『あの人』というのがマレーナであるということ。そして二人は――。
(不貞を働いているの……?)
マレーナはその場に座りこんだまま立ちあがることもできず、必死に声を殺している。体が震えて涙も止まらず、どうしたらいいのかさえわからない。
(私は……裏切られていたの? いつから? 二人はいつから関係があるの?)
優しいメイソン。いつもマレーナを支え励ましてくれた愛しい夫。
かわいいキャメロン。領地を救ってくれた恩を返したい、と自らの意志で侍女になった健気で妹のような存在。
(愛しているのに。私は、あなたたちを愛しているのに!)
声にならない声がマレーナの心をさらに悲しみへと突きおとし、彼らのじゃれ合う声が追い打ちをかける。
「ううん、もう、しつこい……!」
「はは、そんなつれないこと言うなよ。君は若いんだから、まだまだいけるだろう?」
「もう……本当、好きね。奥さんがいるのに、私とこんなことして」
「マレーナじゃ、まったく満足できないんだから仕方がないだろ?」
「あの人、いい体してるのに」
「体だけだよ。本当につまらない女だ」
「ひどーい。あ、そういえば今日はお茶を飲んでいないのよねぇ、あの人」
「一回くらい飲まなくて平気だろ」
「……ねぇ、本当にあのお茶で人って死ぬの?」
「余計なことを言うな」
「誰も聞いてないわよ」
「ふん、まぁ、やばいものがいろいろと混ざっているからな」
「こわーい」
(お茶? 毎晩飲んでいるあのお茶のこと? ……やばいもの? どういうこと? ……誰か……誰か……!)
二人が激しくベッドを軋ませる音を聞きながら、マレーナは這うようにその場を離れ、どうにか階段を下り、震える足を引きずるようにして廊下を進む。
「誰か、助けて。お父様、お母様……! 私を、どうか助けて!」
祈るようにくり返しながら、二人から逃げるように必死に進み、気がつけば外まで出ていた。
悔しくてかなしくて、声をあげて泣きたい気持ちを必死に堪えて拳を握りしめる。
幼いころ、居心地がよくてよく入りこんでいた、厩舎の裏から少し離れた所にある用具入れの倉庫。
マレーナはふらふらとその倉庫の中に入り床に座りこむと、きれいに洗って重ねてある使用人用のタオルで顔全体を覆い叫んだ。
「あー!! 裏切り者! 裏切り者! 愛していたのに! 愛しているのに!! なんで!! なんでよぉ!」
泣いて、泣いて、人生で一番泣いた。手当たり次第物を投げつけて、破壊して、グチャグチャにしてやりたい。でも、それができないから、思い切り自分の腕に爪を立て、タオルで口を押えて喉が切れるくらい叫んで。
声が枯れたころ、涙も乾いた。喉も目も痛いし、寝間着が埃まみれ。
「……静かな夜の暗闇に泣き声なんて、とんだホラーだわ」
軽くなったはずの頭は割れるほど痛み、熱のせいで体が熱い。それなのに、思考はこれまでになく正常で、先ほどまでの出来事を反芻さえしてしまう。そんなことをしている自分が空しくてばかばかしくて、いっそ鼻で笑ってしまうくらい冷静だ。
「つまらない女、かぁ……」
まさか、優しい夫の仮面の下にあんな醜悪な顔を隠していたなんて。
「ご機嫌をとるのは大変って……」
いつマレーナがキャメロンにそんな気を遣わせた?
「適当なことばかり言って……! つっ……」
興奮したせいか、頭がズキリと痛む。
マレーナは痛みを散らすように大きく息を吐いた。
(もしかしたら、体調がそれほど悪くなかったのは、毎晩飲んでいたお茶を飲まなかったからかも……)
キャメロンはお茶で人が死ぬのかとメイソンに聞いていた。それに対して、メイソンはやばいものがいろいろと混ざっていると言っていたし。
「本気で、私を殺そうとしているの……? 愛しあう二人には私が邪魔だから? 私を殺して伯爵家を乗っ取るつもりなの?」
メイソンにもウェストモントの血が流れているし、過去にはメイソンを養子として引きとり、爵位を継がせる話さえあったのだから、マレーナが死ねば、伯爵位を継ぐことも可能だ。キャメロンと再婚をして子をなしてもなんら問題はない。
その考えに至ってぐっと拳を握りしめる。
「このままじゃ、彼らの望みどおりになってしまう。……ヨハン。そうよ……ヨハンなら助けてくれるわ」
母の代から仕えてくれている家令のヨハン。小さいころからマレーナを自分の子どものようにかわいがってくれていたし、マレーナが爵位を継いでからは家令としてマレーナを助けてくれている。
そんな主に忠実なヨハンに対するマレーナの信頼は絶大だ。
ふらふらと立ちあがると静かに邸に入り、静かに自分の寝室に戻ったマレーナ。
しかし、ベッドに入ってもなかなか眠りに就くことはできず、それどころか目が冴えてしまっている。時間を確認すると、すでに四時を回っていた。あと数時間もすれば使用人たちが活動を始める時間だ。
マレーナは大きく溜息を吐いた。
(ひどい話だわ……)
愛情をもって接してきたつもりの二人が不貞を働き、マレーナを殺そうとしているなんて。
(いったい私がなにをした? 二人に対してひどい扱いをしたか? 不条理に傷つけたことがあったか?)
考えれば考えるほど怒りが湧いてくる。なにも気がつかずに、優しい人たちだと感謝さえしていた自分の間抜けさが悔しい。
この体がこんなに弱っていなければ、今すぐにでも二人がいる部屋に乗りこんでいって、素っ裸のまま屋敷の外に追いだしてやるのに。
「……いいえ、それで終わりにするなんて生温いわ。それで終わりにしていいはずがない……!」
マレーナの心にこれまでなかった感情が生まれる。
――復讐。
それはどす黒く、そして醜いものだが、今のマレーナが抱くものとしては自然な感情だ。
「私を裏切った代償はしっかり払ってもらうわ」
ようやくマレーナが眠りに就いたのは、太陽がわずかに顔を出しはじめたころだった。
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