マレーナが幸せだと思っていたもの
お話の中に薬について書かれている部分が出てきますが、実在しているものではありませんのでご理解ください。
妊娠に関しての描写があり、ご不快に思われる方がいらっしゃると思います。
デリケートなことと理解して書いていますが、ご不快に思われましたら申し訳ありません。ご容赦ください。
緩いウェーブのかかった茶色の細い猫っ毛は、肩の下あたりで切りそろえられている。
青みのかかった黒い瞳は、見る角度によってわずかに色味を変えるウェストモント伯爵家の血筋だけが持つ唯一の色だ。
すらりと伸びた手足と華奢な体に、不釣り合いな豊満な胸は自己主張が強すぎるため、常に首元までしっかり隠すドレスを着ている。
それがマレーナ・ウェストモント伯爵。
マレーナが前伯爵である母親から伯爵位を継いだのは四年前、彼女が二十歳のときだ。
マレーナを授かるまでに長く時間を要した両親はすでに六十歳を過ぎ、爵位をマレーナに譲ったあとは、領地に小さな家を建てて静かに余生を楽しんでいたが、三年前母親が亡くなり、追うように父親が亡くなった。
婿養子としてウェストモント伯爵家に入ったのは、ウェストモント伯爵家と親戚関係にあるハンティクトン伯爵家の次男メイソン。
マレーナより二歳年上のメイソンは、黒に近い銀髪に、黒に近いグリーンの瞳を持つ爽やかな顔立ちで、派手ではないが人を包みこむ優しい人柄の好青年だ。
実はマレーナの両親は長く子どもを授かることができなかったため、メイソンを養子として引きとり伯爵位を継がせようとしていた。しかし、養子縁組の話がかなり進んだところでマレーナを妊娠したことがわかり、その後マレーナが無事に生まれたことで、メイソンと養子縁組をする話はなくなったものの、その縁で、メイソンがマレーナの夫となったのだ。
メイソンはマレーナの補佐として仕事をし、ときには領主代行を務めるなど、マレーナを公私にわたって献身的に支える良き夫であり、頼れる補佐官でもあるのだ。
マレーナの身の回りの世話をするのは、年若い侍女のキャメロン十八歳。赤みがかった金色の髪に黄色い瞳が美しい小柄な女性だ。
キャメロンがウェストモント伯爵家に侍女としてやってきたのは三年前。
キャメロンの実家であるザイオン男爵が治めるザイオン領が、度重なる天候不良で甚大な被害を受けたとき、隣接するウェストモント領も同じような被害を受けたはずなのに、こういうときこそ助けあわなくては、と食糧や物資を支援してくれたマレーナに敬愛の念を抱いたキャメロンが、自ら志願して侍女となったのだ。
マレーナは、侍女になるために学園を辞めてきたキャメロンに家庭教師を付け、通常の勉強や淑女教育などを受けさせた。
普通ならありえないことだが、自らの意志で侍女になることを選んだキャメロンが、学園を辞めたことで困ることがないように、というマレーナの配慮によるものだ。
キャメロンはその心遣いに恐縮し、それと同時にマレーナに対する敬愛の念をさらに強くした。マレーナもキャメロンを妹のようにかわいがった。
快活で、思い切りのいいマレーナは屋敷の使用人から好かれていたし、領民の幸せを一番に考えてくれる領主を民は心から尊敬していた。
これで、あとは跡継ぎができれば完璧と言われはじめたころ、マレーナが体調を崩すようになった。
風邪のような咳をするようになり、頻繁に熱を出すようになったのだ。
◆◆◆
カーテンから零れる日差しの眩しさを感じて眠りから覚醒したマレーナは、ベッドに深く沈んだ鉛のように重たい身体をゆっくりと起こした。
「おはようございます、マレーナ様」
「おはようキャメロン」
「ご気分はいかがですか?」
キャメロンが聞くと、マレーナは小さくうなずきながら「今日はずいぶん調子がいいみたいだわ」と返事をした。
「久しぶりに食堂で食事をしようかしら? 準備してくれる?」
マレーナはそう言うとゆっくりとベッドから足を降ろし、ゆっくりと立ちあがった。
キャメロンが手を出すと、マレーナは「ありがとう」と微笑んでその手をつかんだ。
「昨日はメイソンの顔を見なかったけど、忙しかったのかしら?」
「メイソン様は、マレーナ様が寝ている間にいらっしゃいましたが、お仕事が忙しかったようで、あまり長居されずにお戻りになられました」
「そうだったの。起こしてくれればいいのに」
「申し訳ございません。次はそうしますね」
「ええ、お願いね」
メイソンが領主代行をしてくれるおかげで、自分が安心して休んでいられることには感謝しかない。優秀な夫に支えられ、妹のようにかわいがっている侍女のキャメロンはこうしてマレーナに尽くしてくれる。それにほかの使用人たちも皆、マレーナを心配してくれている。
(本当に幸せだわ。彼らのためにも、早く体調を整えないと)
食堂に行くとマレーナに気がついたメイソンが少し驚いた顔をして、手にしていた新聞をテーブルに置いて立ちあがった。
「マレーナ! 体調はどうだい?」
メイソンは足早でマレーナに近づいてその手をとり、マレーナの細い腰に手を回し、体を支える。
「ええ、今日はずいぶんと調子がいいのよ」
「それはよかった」
メイソンは柔らかい笑みを浮かべ、マレーナをイスまで連れていき、イスを引いて座るように促すと、マレーナはゆっくりとイスに腰を下ろした。マレーナがメイソンを見あげて微笑むと、メイソンも微笑みかえして自分の席へと戻っていった。
「昨日、部屋に来てくれたのに、寝ていてごめんなさいね」
「え? あぁ、なに言っているんだ。調子が悪いんだから寝ているのは当たり前だよ。そんなことで謝らないで。私は、君が早く良くなってほしいと思っているんだから」
「ありがとう、メイソン」
優しい夫の愛情が、病気で少し弱気になっているマレーナを勇気づけるように、ゆっくりと体に染みこんでいく。
「あなたは私の自慢の夫よ」
「どうしたんだい? 突然」
「なんとなく、伝えたかったの……。ちょっと弱気になっているのかもしれないわ」
「マレーナ……」
日に日に症状は悪化しているのに、原因がわからないせいで最適な治療法も見つからない。今は医師が処方した薬で熱を下げるなど症状を軽くしてもらっているが、その薬の効果さえ最近ではあまり感じなくなった。きっと薬に対する耐性ができてしまったのだろう。
もし、このまま治らなかったら。
そんなことを考えると不安で目の前が真っ暗になる。
(まだやらなくてはならないことがたくさんあるのに。当主としての責任だって果たせていないのに)
当主としての責任。それは子をなすこと。
それなのに、今のマレーナにはその責任を果たすことも難しい。
(もし、私が子を産むことができなかったら……)
それはつまり、ウェストモント伯爵家の特徴を表す、青みがかった黒い瞳を残すことができなくなるということだ。
青みがかった黒い瞳はウェストモント伯爵家やその傍系にとって誇りでもある。しかし時の流れと共にその色は失われ、今ではこの色の瞳を持つ者はマレーナだけ。
だからこそ、一族の誇りでもある青みがかった黒い瞳を後世に残すことは、マレーナにとってなによりも大切な責務なのだ。それなのに――。
(今となっては後悔ばかりだわ)
まだ若いから、仕事が忙しいから、と理由を付けては避けてきたことが、こうして仇となって返ってきているのだから。
マレーナは小さく溜息を吐き、新聞に目を落としているメイソンをチラッと見る。
夜の営みは最低でも月に一回。
それが二人で決めたルール。
結婚をした当初、慣れない仕事でマレーナはとても忙しかった。メイソンも屋敷の管理や、マレーナの手が回らない部分を補うなどしていたためすれ違うこと多く、やっと二人の時間が取れたと思ったら、マレーナの月のもののタイミングにあたるなど、自然な流れで行為に及ぶことが難しかった。それが理由で決めたルールだったのだが――。
最低でも月に一回と決めてしまうと、それ以外の日をついつい仕事に回してしまい、月に最低一回がただの月一回となってしまい、ルールを決めたとき以降、一回以上増えることはなかった。
(……こんなことになるとわかっていたら、もっとちゃんと向きあったのに)
まだ時間はある、なんて言い訳をしていた自分が恨めしい。最低でも月に一回と決めたとき、密かに安堵した自分が本当に恨めしい。
二人の初夜は散々だった。
緊張と恐怖でマレーナの体は強張り、想像以上の痛みに涙を流し、悲鳴にも近い声をあげてしまった。そのせいで初夜はうまくいかず。
メイソンからは「気にすることはない」と言われたが、気にならないはずがない。メイソンに対して申し訳ないと思う気持ちと、自分に対して情けないと思う気持ちで、涙がこぼれてしまったほど。
そんなトラウマを植えつけた性交は、マレーナにとって苦痛でしかない。そのせいで、子をなさなくてはならない責任は強く感じているのにまったく積極的になれず、それどころか月に一度しかないその日でさえ憂鬱な気分になった。
それでもどうにか努力したが、なかなか妊娠できず今に至るのだ。
読んでくださりありがとうございます。








