追憶:侍女はすべてを知っていた
その侍女は、王城に仕える一族の家系に生まれた貴族の女だった。幼い頃から王の一族に生涯を捧げることを教えられ、一族の誰しもがそれを当然だと思っている節があった。
無論、かの王家が途絶えることになるだなんて、彼女の若い頃には想像すらしていなかったのである。
「――おい、入ってこい」
女が扉の前で待機していると、その部屋の中から彼女を呼ぶ声が聞こえた。ぶっきらぼうで、いかにも武人らしい威圧感のある声だ。
しかし女は、言われるがまま静かに部屋に足を踏み入れると、一瞬の躊躇の後で部屋の奥に設置されているベッドの傍まで足を進めた。
女の視界に入ってくるものは、普段とほとんど何も変わらなかった。暗い部屋をほんのりと明るく照らす蝋燭と、大きなガラス窓に掛かる真紅の分厚いカーテン。同色の豪華な天蓋のついた大きなベッドの上には、彼女の良く知る男が意識を失ってぐったりと横たわっていた。うつ伏せで顔すら見えなかったが、彼の裸体には情事の痕跡が至るところに見える。女は吐き出したくなる溜め息を我慢しながら、命じられた通りに彼の介抱を始めた。
その間、彼女を呼び出した男――エヴラール王は、ベッドサイドに用意した椅子に座ったまま動こうとしない。椅子の上でその長い脚を組み、ジッと女の作業を見守っていた。これもまたいつものことなので、彼女は特に気にもせず後始末を手早くこなしていった。
女は侍女として長らくこの城に仕えていた。目の前に座るこの男に殺された先王の頃からずっと、王家直属の侍女として誠心誠意その職務に就いていたのである。
それ故に彼女は、この新たな王を毛嫌いしている。それでも尚こうして仕えているのは、目の前で眠るこの綺麗な人間のためだった。かつても彼女は、この異世界人であるチカゲの世話係だったのだ。
前王の平和な頃。何も知らない彼に、女はこの世界の様々な知識を与えた。言葉を教えた。魔術の存在を教えた。教師、というには不足かもしれなかったが、貴族の間での一般常識を教えるには、彼女は適任だったのだ。賓客である大事な異世界人。少なくとも表向きはそのような扱いであるチカゲを、下手な者に任せる訳にはいかなかった。監視という意味でも。
女はそれを知った上で引き受けたのである。
その頃のチカゲは、今よりかは表情も豊かだった。この閉鎖された環境からくるものだろう、強張った表情を浮かべることも多かったが、当時の彼はちゃんと人間らしく笑っていた。同郷であるユウキと居る時は特に、肩の力が抜けるようにホッと息を吐いた。女はそれを見ては安心していたものだったが。
それが、一体全体どうしたことか。突然消えたかと思えば、数年を経て戻ってきたチカゲはすっかり変わり果ててしまった。きっと、人には言えないほど辛い目に遭ってきたのだろう。主人にこき使われてあそこまで変わってしまったのだろう。彼女には、それが心苦しくてたまらなかった。
故に女は今ここにいる。
時折びくりと震える身体を、湯で濡らしたタオルで優しく拭っていく。目のやり場に困るのももう慣れてしまった。流石に中に吐き出されたものを処理させられることはなかったが、この王は身体の隅々まで綺麗にしろと彼女に命じたのである。
当初はまさか、女である彼女がここまでやらされるとは思ってもいなかったが。この狂王は、彼女の拒否を許さなかった。
――お前が命令に従わないのならば即刻ここから出て行け。この話は無かったことにしてやる。……この場でどうするか決めろ。
そう脅されて考え抜いた末に、女は決意したのである。
一通りその身体を清め、寝衣を着せてベッドへと寝かせる。存外に重労働ではあるが、貴族なりに魔術も多少扱える彼女にとって苦にはならなかった。
誰かの役に立つ。世話をする。誰かの為に働く。それは女の生きる喜びであった。そうなるよう、彼女は幼少の頃から躾けられてきたのである。
仰向けに転がしたことで、女にもチカゲの顔が見えるようになった。金茶色の髪をした、若い青年の姿をしている。華はないけれども慎ましく整った顔立ちは、年齢よりもひどく若く見えた。固く閉ざされたその瞼の奥には、同じような色合いの虹彩が眠っていることも彼女は知っている。この世界に来る前はもっと、黒っぽい色をしていたと当人は言っていたが。女はここでの彼の姿しか知らないのである。
女とチカゲが初めて出会ってからすでに七年ほどは経つのだけれども。彼がひとつも老いていないことに、どれだけの者が気付いているだろうか。
女がチカゲの世話を一通り終えようという頃。ふと彼女は口を開いた。
「陛下、幾つか質問をよろしいでしょうか」
この男が狂王だと密かに言われていることは知っている。けれど、噂はただの噂だった。男が常に理性的であるのは、側仕えをしている女の目には明らかだった。王は何かを壊そうとしてはいる。けれど、決して無闇矢鱈と人間を処分したりはしないのである。彼女のような、必要とされている人間ならば尚更で。
だから彼女はこの日、ずっと疑問に思っていたことを問うことにしたのである。王がただの男に戻っているこの瞬間を狙って。
「……許す」
僅かに眉根を顰めたが、王は彼女に言葉を許した。
「陛下は何故、わたくしを召し抱えられたのですか?」
その瞬間、王は再び眉間に皺を寄せたが、それ以上に表情を動かすことはなかった。
「何故そんなことを聞く」
質問を質問で返される。淡々と感情の乗らない声だった。王自身が努めてそうしているかのような、探るような声音だった。
女は内心で少しばかり驚きながら、普段通りの調子で王の問いかけに答えた。
「わたくしは先王に仕えた者です。それを、先王を殺した貴方様のお側に置かせるなど……普通の神経ではなさらないかと」
女は最初、斬り捨てられるのすら覚悟してそんなことを言った。
だが、王の反応は予想していたどれとも違っていた。
彼はなんとその場で、大きな溜め息を吐いてみせたのである。国王付きとは言え、ただの侍女の目の前で。その姿を晒したのである。
今度こそ女は驚きを隠しきれなかった。
「そうだな。お前の言う通り、普通ならこんなことはしない。計画に狂いが出る。……だが、お前は――」
そしてそこで言葉を切ってから、エヴラール王は言ったのである。
「昔からチカゲの面倒を良く見ていたと小耳に挟んだ。言葉や常識を教えたのもお前だったと」
「え、ええ……確かに、わたくしが命じられてやっておりましたが……」
掠れたような声が出た。目の前の王があまりにもらしくない言葉を吐くものだから。
女は隠しきれない動揺を自覚しながら、不敬にも目の前の男を凝視した。王はまるで女からわざと視線を外すように、横を向いてどこともわからぬ方向を見ていた。
「だからだ」
「……」
「だから、お前をここに戻した。コイツの昔を知るお前を」
女はもう何も言えなかった。ただ黙ってその話に耳を澄ませる。
「少しでもチカゲが昔を思い出せればいい。そうすれば、コイツの夢見も少しは良くなるだろう。……一番なのは故郷に纏わるものだろうが……同郷の奴は俺が気に食わん。いくらあの力が使えても、すぐにでも捨ててしまいたいくらいだ」
それからしばらく、王は彼女にその類いの話を聞かせた。ほんの僅かな時間だった。それでもこの時、王は確かに普通の男のような顔をしていたのである。そのような王の姿に女は驚くのと同時に、なんとも言えない居心地の悪さを覚えた。まるで、聞いてはいけないものを聞いてしまったかのような。それでも女は、王の吐露を受け止め続けた。いっそ喜んで自ら。
「――今のは全て忘れろ。いいな」
唐突に迎えた話の終わりに王は言った。命令のようなお願いのような、ぶっきらぼうな言い方であった。
「……かしこまりました。部屋の外では忘れることにいたします」
女もまた、同じくぶっきらぼうな調子でそう答えた。この頃にはすっかり彼の寝支度も整え、女は退出ができるように片付けを始めていた。
そんな女の言葉を聞き、王は珍しく鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。思わぬ反撃が余程効いたらしい。わざとらしく思い切り眉間に皺を寄せると、どこか拗ねたように言い放った。
「……勝手にしろ」
その様子が本当に人間らしく見えて、女は微かに口許を綻ばせた。この王が嫌いなのは彼女の本心からではあるが。少しくらいならば認めてやってもいいのかもしれない。
新王に仕えるようになって一年弱。この日彼女は初めて、エヴラール王をただの人として認識したのだった。
「陛下、その気持ちは恐らく愛というものにございます。お伝えはされないのでしょうか」
「……うるさい、知らん」
「何をそんなに怖がっておられるのです? 貴方様のアソコが縮み上がってしまうので? 先ほどまでは大層、お元気に暴れ回っておりましたのに……」
「クソが、お前は本当に口の減らない女だな。下品にも程があるぞ……別に、俺は怖がっている訳ではない」
「ならば一度試しに言ってみてはいかがでしょう。先日も公務で、言葉など取るに足らんなどとおっしゃっていたではありませんか」
「うるさい、黙れクソアマ」
「まったく……お可哀想に。だから陛下の居ない所で泣かれるのですわ。ああ、とっとと嫌われてしまえばよろしいのに」
「……」
以来、王と女の間では時折、そのような会話が交わされるようになった。部屋の内でも外でも王は相変わらずであるし、女も王を嫌っていることを隠しもしなかった。
けれど、彼らの不思議な交流はそれからも続いたのである。
「王がご崩御あそばされた……」
女はその時、とうとうこの日が来てしまったことを悟った。王と侍女、そして側近の異世界人の奇妙な交わりがその日、終わりを告げたのである。
眠るような静かな終わりだった。
喧しく騒ぎ立ててきた王自身の政治とは正反対。いつものように眠れないチカゲの側で、そっと眠りについてそのまま永遠に目覚めなくなってしまった。
それに真っ先に気付いたのは、恐らくチカゲだった。
朝だというのに一向に部屋の外へ現れない主人を起こすべく、奇妙に思った女が足を踏み入れると。そこには、呆然と王を抱えるチカゲの姿があった。
異変を察した女はすぐに処置を施した。部屋へ癒術師を呼んだ。――けれど、王は助からなかった。
元々無理を重ねて王にまでのし上がったのだと、女には語っていた。自分の命は残りわずかである、だからチカゲに全部を残して居なくなるのだと。己の悪王ぶりからすれば、チカゲの活躍はまこと正義のようにも見えたであろうからと。
その日からというもの、かの王の悪辣な手腕を知る者たちは一様に故エヴラール王を罵り出した。死人に口無しとはよく言ったもので。負け犬よろしく震えながら従順に従っていた者たちは、恐ろしい飼い主が居なくなった途端にこれ幸いとけたたましく吠え出したのである。
ああした貴族の醜悪さは、同じ貴族である女も知るところではあったのだけれども。こうして目の当たりにすると、その驚くべき手腕は見るに耐えなかった。
女も間も無く己の進退を考え始めた。あの王は決して良い王ではなかった。散々この国を壊し続け、王自身も突然崩壊するように居なくなったのである。後に残された者はたまったものではない。すぐにこの国を見捨てるか、行く末をジッと見守るか。女は決断を迫られていた。
ただ、女は知っていた。これをどうにかできる力を持つ者が、この国にはひとりだけ存在していることを。あの王と同じように女もまた、彼――チカゲに賭けることにした。
王の傍でずっと世界を見てきた彼に。この国に、この世界に翻弄され続ける人生を送ってきた彼に。
この国を生かすも殺すも彼次第。当人はそんなことを微塵も考えてはいないだろうけれども、女はチカゲに全てを託すことにしたのである。
「――ああでも、やはりこれだけはお伝えしなければ」
この国がどちらに転ぶかはもう女にも分からなかった。いっそ、どちらでも良いとすら思い始めているのかもしれない。けれどもひとつだけ、女が伝えなければと思ったことがあった。
エヴラール王はチカゲを愛している。
それだけは、狂王と呼ばれたあの男の嘘偽りのない本心であろうと。それがチカゲに伝わっていないのも、女はとっくの昔に気付いていた。
伝えるべきか悩みに悩んだ末、女はようやく決めたのである。
思い付くとすぐにあの部屋へと向かった。十数年を彼らが共に過ごしたあの、王の私室へと。きっと未だに、王の亡骸から離れないチカゲがそこに座り込んでいるはずだからと。
着慣れた侍女服をみっともなくたくし上げ、静まり返った廊下を足早に駆け抜けた。プライベートスペースである部屋にそっと滑り込み、寝室へ続く重厚な木製の扉をノックして反応をうかがう。案の定、中からは何も聞こえてこなかった。逸る気持ちを必死になって抑えながら、女はとうとう部屋へと足を踏み入れた。
「チカゲ様、ご無礼をお許しください。わたくし、どうしてもお伝えしたいことが――」
そこで女の声は途切れた。
いつもの王の寝室で彼女が見たのは、微かに乱れたベッドと、そこにぽっかりと穴があいたような、誰もいないがらんどうの空間だけだった。
了