眠りにつく
「知らないってのは幸せだな」
チカゲは呟くように言った。
「?」
「お前の事だよ、ユウキ」
「なにが……」
「アンタには悪――」
「そこまでだ、化け物め」
その時突然、チカゲの視界の端から人影が飛び出してきた。
その影はユウキの傍に駆け寄ったかと思うと、庇うようにチカゲから引き剥がし、手にした武器を突き付けていた。鋭い鷹のような目付きで、ギロリとチカゲを睨み付けている。
チカゲにもその男には見覚えがあった。散々、男からはユウキの居ない場所で嫌味を言われた。相変わらず決め付けでしか物事の判断ができない男。
チカゲは、相変わらず感情の籠らない表情で男を見返した。
「貴様、最初から我等を騙すつもりだったんだな? ユウキ様を利用しようと近付き機会を窺っていたんだろう」
「待ってフランツ、違うんだ! チカゲが俺と同じなのは俺が一番――」
「おやめください! ユウキ様はこの者の策略にまんまとハマってしまったのです。こうして虎視眈々《こしたんたん》と、我が国の事を狙っていたのです。だからユウキ様に手を出し――」
まるで、下手な演劇でも見せられているような気分だった。呆れ返ったチカゲは、それ以上男に喋らせなかった。先程の魔術師と同じように、蠢く木の蔓で縛り上げてしまう。
「ぐっ――この、卑怯者めが!」
卑怯者。一体どの口が言うのだろう。チカゲはもう何も言わなかった。
只の剣士ごとき、チカゲの敵ではない。苦しそうに呻きながらも減らず口を叩く剣士を、益々《ますます》きつく縛り上げていった。
周囲から、そしてユウキから上がる悲鳴に耳を貸さず、チカゲは淡々と言い放った。不思議と、騒がしい中でも耳に入るような透き通る声だった。
「本気で鬱陶しいなアンタらは……なぁ、ユウキ」
「ッ、な、何!? フランツ苦しそうだよ……、あの、謝らせるから早く放してあげ――」
「俺は、ユウキの事は恨んでもいないし、この際どうでもいいと思ってる。でも、こいつらはダメだ」
「え……」
「俺がこうなったのはコイツらがこうだったせいだし、巡り巡って俺に好きにされるのだって、それは因果応報だろ?」
「そんな……でもそれは――」
「でもも何もない。何があったかも知らない人間が知った口を聞くなよ」
「ッ」
強くそう突き放せば、ユウキはそれ以上は言わなかった。
ここで何があったのか。今までどこで何をされてきたのか。
思い返せば思い返すほど虚しいだけだった。あのままこの城に居続ける事ができれば、自分はユウキと同じように普通の生活を送れたのではないか。
日本ほど自由はなかったとしても、この国の一員として認められていたのではないか。
考えても仕方ないのに、この時何故だか考えずにはいられなかった。
そういった全てを奪われた事が、ただ悔しかったのだ。
今のチカゲを作り出したその元凶はもういない。チカゲがその手で葬り去った。あの男による呪いも解いた。
それなのに、チカゲは何も救われない。
「さっきのクソ野郎と同じように、この場で首を落とすのだって抵抗はない。なぁ、何でだと思う、ユウキ?」
「何、何で……そんな事ダメだ、仲間を殺すなんて――」
「仲間? お前にとってはそうなんだろうけど、俺にとってコイツは一度だって仲間だった事はない。コイツが死のうが生きようが、俺にはどうだっていい」
「……」
「俺も、元はお前と同じだったはずなのに……」
一体どうして。
そう、チカゲが呟いたその時だった。
「セヴラン」
彼を呼ぶ主人の声がチカゲの耳に入った。ハッとして振り返ると、いつものエヴラールがそこに居た。後発の制圧部隊が追い付いてきたのだろう。
チカゲは思わず、その手を緩めた。
「うわっ!」
「フランツ!」
縛り上げていた男が落下し、ユウキがそこへと駆け寄っていく。
「セヴラン、お前が今やらなければならない事は何だ?」
その男の言葉を聞いた途端にだった。チカゲはあっという間にいつもの彼へと戻った。
心に何の曇りもない、与えられた命令だけを確実に遂行するただのセヴランへ。それはまるで、幸福な呪いのようだった。
チカゲはその場で周囲をぐるりと見渡した。目標を発見すると、すぐにその場から駆け出す。
ジリジリと後退していたその標的を目掛け、チカゲは右手を振り上げた。
「!」
「おい、お前達っ! 早く王をお護り――」
右腕だった男の声はそこで途切れた。
ごとりごとりと、王とその周囲で、複数の人間の上半身が床へと転がり落ちる。あちこちから、悲鳴と叫び声が上がった。
畳み掛けるようにエヴラールの軍はその場を制圧し、城内の人間達は皆縛り上げられた。
チカゲは嘆き悲しむ人間達の姿を横目にチラリと見遣る。その中にはユウキの姿もあったが、チカゲが特別何か別の感情を浮かべる事はなかった。
その視線は、すぐにエヴラールへと向けられてしまった。その目にはもう、外野の人間達など見えてもいない。
少しばかりシュンとしたような表情で、チカゲは主人を見ていた。主人たるエヴラールは、チカゲの視線を受け止めながら微笑む。いつもの、何を考えているかも分からない、含みを持たせたような笑みだった。
「よくやった、チカゲ。仕置きは後だ――」
エヴラールは、瞬く間に王城を占拠した。王城で働いていた人間達を可能な限り全て拘束し、地下牢と鍵の掛かる厳重な部屋とに、彼等を全員閉じ込めてしまった。
多くがすぐに城外へ出される事になったが、国の一部であった人間達は皆、そのまま牢屋へと繋がれた。
後日、国の中核を担っていた者達の多くが粛清され、そして一部は幽閉された。
こうして、数百年と続いたかの王家による治世は途絶える事となった。異世界からやってきた一人の人間と、それら全ての状況を利用した一人の狂人によって。
その長い歴史に幕を下ろす事になった。
それから間も無くして、エヴラールはその国の玉座へと座った。
カリスマ性だけはある男だ。彼が耳触りの良い言葉を囁けば、民衆の反応はすぐに好意的なものへと転じた。
一部、城下の人間達が反発し反乱が起こったりもしたが、チカゲ達によって瞬く間に鎮圧される事になった。
首謀者は、チカゲと変わらぬ歳の若い男だった。
男は死ぬ間際まで何事かを叫んでいたが、チカゲにその男の言葉が響く事はなかった。首を落とすその瞬間まで、男の目は爛々と輝いていた。
チカゲはそれを、観察するかのようにただ見つめるだけだった。
「こんな世の中だ。俺が少しくらい好きにしたって世界は何も変わらない」
そう言ったエヴラール王の傍らにはいつもチカゲの姿があった。チカゲは声が戻ったというのに、相変わらずほとんど喋りもせずに付き従っている。
当人にも、それが契約だからなのか、それとも自分がそうしていたいから傍にいるのかも分からなくなっていた。
何も考えずに済む。次々と降ってくる男のどうしようもない命令さえ聞いていれば、命令を行使する事だけを考えていれば、チカゲは何も考えなくて済む。それが癖になっていた。
前王によって齎されたユウキという異世界の人間は、面白がったエヴラール王によって城に残され、チカゲのように飼われる事になった。魔を浄化するという彼固有の力もある。他国に対するカードの一つとして、有用性も十分に高かった。
城内である程度の自由を得たユウキはエヴラール王を嫌ったが、反抗するほど愚かではなかった。不服そうに、けれどおとなしく言うことを聞く。どうしてもユウキが動こうとせずに騒ぎ立てる時には、チカゲが彼に耳打ちをすれば何故だか彼はおとなしくなった。
同郷だから気が合うのだろう。新しく城に召抱えられた人々はそう言って、二人の仲を気にも留めなかった。
しかし、それも長くは続かなかった。突然、エヴラール王がユウキを城から追放したのだ。彼が一人で生活できるだけの資金と援助を与え、城下へと放逐した。
人々は驚きに目を見開いた。ユウキは十分に彼の役に立っていたし、城から追い出されるような事は何もしていない。チカゲに異様なほど懐いていた位で。彼はエヴラールにも有用だったはずだった。
城内ではまことしやかに噂が囁かれた。ユウキとチカゲの仲を良く思わなかった王に、ユウキは追い出されたのだと。
時折城内では、二人が並んで歩く姿が目撃されていた。普段は表情をピクリとも変えなかったチカゲも、ユウキの前では少し、それが崩れる時があった。
ユウキがコソコソとチカゲを連れ回す姿もまた目撃されていた。城内の人間達は、それを微笑ましく見守っていたものだったが。
飼い主にはそれが、面白くなかったようだった。
追放された後、ユウキは何度か城へ侵入しようと試みたようだったが、チカゲの元へ辿り着く前にその全てが阻止された。
ユウキの動向を逐一把握していたエヴラールによって、チカゲがそれから遠ざかるように彼が命令していただなんて。そんなのはエヴラール以外、誰も知らない事だった。
「っ、」
チカゲは時折、夢を見て飛び起きる事があった。
何か嫌なものを見た時だとか、他国で同様の召喚の儀が行われただとかを聞いた時だとか、そんな時チカゲは、この国であった出来事を思い出してしまった。
今のこんな生活が良いと思える程のものだ。無駄に出来の良いチカゲの頭は、過去を忘れさせてくれそうにはなかった。
そんな時、チカゲは主人のエヴラールの元へと向かう。
いつだったか、同じようにチカゲが飛び起きた時があった。その場に居合わせたエヴラールは、微笑みながらチカゲの同衾を許したのだ。
元は奴隷の男にそんな事を許すだなんて、普通は考えられないだろうに。エヴラールは何も言わずにそれを許した。
「セヴラン、また見たのか? 仕方のない奴だな……おいで、添い寝してやろう」
喋れなかった頃からずっと、チカゲの過去も何も知らないはずなのに。この男は何も聞かず、チカゲを寝所へと迎え入れた。
震えるチカゲの体を抱き寄せながら、エヴラールはまるで親がそうするように背を摩った。
「お前はまるで昔の俺のようだ。出来すぎるせいで誰からも認められない、祝福されない、可哀想な人間だ。そういう奴は、この世界では何をしても嫌われる。普通にしていても息が詰まる。だからと言う訳ではないが……お前が傍に居ると、不思議と呼吸が楽になる」
丸まって猫のように擦り寄るチカゲの頭上で、エヴラールは囁くように言った。それはこの時、チカゲも初めて聞く話だった。
「俺はこのまま気に食わないものを全部壊してから死ぬ。後に残ったものは全部お前にくれてやる。好きにしろ」
そう言ってエヴラールは、チカゲを胸元へと抱き寄せると、そのまま目を閉じてしまった。しばらくするとチカゲの頭上から寝息が聞こえてくる。
自分より先に眠る彼を見るのは初めてのことで、チカゲは声を出さんばかりに驚いた。警戒心の強い男だ。こうやって他人に寝顔を晒すなんてことは絶対にしない。それはチカゲもよく知っている事だった。
その胸元に顔を押し付けると、男の鼓動が聞こえた。狂人だの人非人だのと言われるエヴラールが人間である証だ。
その鼓動を耳にしながら、チカゲもまた目を瞑った。
エヴラール王による治世は、彼が突然死するまでの間、数十年と続いた。その傍らにはいつも、セヴランと呼ばれた異界の人間の姿があった。
セヴランはその内に秘めた膨大な力の所為か、歳をとる事がなかった。召喚術による強制力すら跳ね除けた程の力だ。彼の力は、この世界の何者よりも強大なものだった。
エヴラール王が突然、心臓を止めたその日。セヴランは王の傍らで泣きもせず、数日の間ただ呆然と座り込んでいた。人々も、長年を共にした二人の最期の別れを邪魔するような不粋はしなかった。
数日後、セヴランは王の亡き骸と共に姿を消した。城のあちこち、国中、あらゆる場所を探したが、以来セヴランの姿を見た者はなかった。
セヴランが去ってから間も無く、国は崩壊した。元々はエヴラール王ひとりによって強権的に統治されていた国だ。王が子を成さなかった事も禍いした。エヴラールの亡き後、その後を継げるような者は誰も現れなかった。
そしてまた、セヴランという大きな抑止力を失ったのも痛手だった。国は分裂し、四方の国々に吸収された。
エヴラール王は狂王だった。隣国どころか、自国の事さえ顧みない。口先で民衆を転がし、強引に物事を進め、力で抑えつけて慣習を破壊しながら国を好いように扱った。
吸収された先の国々で、民衆は迫害に喘いだ。エヴラールの強引な統治が、周囲の国々の恨みを買っていたのだ。
元々の領地は食い尽くされて荒れ果てた。人々は貧困に喘ぎ数を減らした。
エヴラール王の統治を知る人々は口々に言った。
これは、異界からの使者による呪いなのだと。その男を無碍に扱った報復なのだと。当人が去っても尚、呪いは国に不幸をもたらし続ける。
以来、異世界から人を呼ぶ事は禁忌とされ、その儀式は二度と行われる事はなくなったという。
人々は許しを乞い続けた。どこに居るのか、生きているかもわからない男に祈りを捧げ、苦しみから解放されるその時を待っていた。
チカゲは、何処かもわからない真っ暗な暗闇の中にいた。鼓動の聞こえないエヴラールの体を抱き抱えながらそこに座っている。
どうして自分がそこに居るのか、記憶が曖昧だった。気付いたら、チカゲはそこに居たのだ。
「なんだここ……人の気配がない。多分、時間も止まってる」
ポツリと呟くけれども、その声に返ってくる返事はない。チカゲは独りになってしまった。
「この世界は本当に不思議な事だらけだ。異世界から呼び出されたり、力が使えたり、呪いがあったり、時が止まったり……エヴラールも、生き返ったりして」
呟きながら抱えるその体を見下ろす。すっかり歳を重ね、白髪も混じり老い始めていたエヴラールの姿は、死んでいるとは思えないほど綺麗なままだった。時が止まっているせいだろう。まるで眠っているだけのようなその姿を、チカゲは飽きる事なく眺め続けた。
「ああ、もういいや。考えるのも面倒くさい」
そう呟くと、チカゲは自分自身に呪いをかけた。
誰か他の者に――エヴラールによって起こされない限り、目覚めない呪いだ。
エヴラールがいなければ、チカゲは死んでも構わないと思っていた。けれどもし、本当にエヴラールが生き返るのであれば。寂しくないようにその傍に居たいと思う。
考える事を放棄して、チカゲはエヴラールの隣に横たわった。すると、強制的な眠りの中へと意識が引き摺り込まれるのがわかる。
夢でくらい、良い人生を歩みたい。チカゲは思った。
生まれた時から傍にエヴラールが居て、仲良く笑って、ずっと二人で仲良く普通の暮らしを送るのだ。
別の人生を歩めばもしかすると、二人とも別々の女性と結婚するのかもしれない。そんな時は、たまに会って笑い合い、楽しい昔の思い出話をするのだ。
それはそれで、幸せで良いのかもしれない。
そういう思考を最期に、チカゲは眠りに付いた。誰かが彼を起こしにくるその時まで。
了