第七七話 足利将軍
▽一五七〇年十一月、澄隆(十五歳)鳥羽城
足利義昭が住んでいる二条御所は、山城国(今の京都府だね)にある。
山城国の南側と大和国の北側とで接していることから、足利義昭に謁見するための上洛は、それほど危険はないはずだ。
ただ、行くとなると、往復で十日以上、下手をしたら二十日以上は鳥羽城をあけることになる。
俺は、奈々と妙に、将軍謁見のために上洛することを話すことにした。
まず、奈々の部屋に向かった。
………………
「奈々、入るぞ」
俺は、声をかけて奈々の部屋に入った。
俺と目が合うと同時に、花開くような笑顔を向けてきた。
奈々がいるだけで、部屋が優しい空気に包まれているのを感じる。
俺は、早速、将軍謁見のことを詳しく話した。
「澄隆様、公方様への謁見、おめでとうございます! そ、それで道中、危険はないのですか?」
奈々は、感動からか、顔を上気させながらも、心配そうな声で言った。
「ああ、二条城まで、敵の勢力の場所は通らない。危険はないぞ」
「……それでも心配です。この前、待ち伏せで撃たれましたし……。そうだ! あの青い鎧、今回も是非、着て行ってくださいませ」
「い、いや、ちょっと待て。あれ、暑くて重くて、疲れるんだよな――」
「嫌ですか?」
「……そ、そうだな――」
「そ、そうですか……」
奈々は、不安そうに形の良い眉をハの字にしながら、濡れた瞳で見つめてくる。
はうあっ。
……ああ、奈々の揺れる瞳に吸い込まれるようだ。
瞳の黒が、白磁のような肌をよりいっそう美しく魅せている。
奈々は、結婚してから表情がより豊かになったな。
「……よ、よし、着ていくぞ」
俺がそう言うと、奈々は蕾が花を咲かせるようにパッと顔を綻ばせた。
「は、はいっ。ありがとうございます!」
はにかんで、ちょこんと首を下げる奈々。
嬉しそうに微笑む奈々の頬に紅が差し、眩しいほどの魅力に溢れる。
……長旅であの鎧を着て歩くのは疲れるが、また、火縄銃で狙われる可能性も確かにある。
奈々に心配をかけないためにも仕方がない。
二条御所に着いたら、謁見用の正装に着替えれば良いよね。
「奈々、いつも慌しくてすまない。戻ったらゆっくり話そう」
「は、はい、お気をつけて……」
俺は顔を真っ赤にしながら、奈々の二の腕にそっと触れる。
奈々は、くすぐったそうな息づかいを上げた。
柔らかい。
きめの細かい肌は掌に吸い付いてくる。
色香の滲んだ瞳は、溜め息が出るほど綺麗だ。
俺は、奈々の魅力に抗うこともできず、奈々を引き寄せると、ギュッと抱きしめた……。
次に、妙の部屋に向かった。
………………
妙の部屋。
「うわっ、妙、どうした?」
妙に山城国に行くと伝えると、突然、俺にぎゅむ~と抱き付いてきた。
妙は二人でいる時に、猫のようにくっついてくるスキンシップが日に日に多くなっている。
妙は将軍謁見に感激したのか、いつも以上に強く抱き締めてくる。
抜群のスタイルの妙に抱きつかれて苦しい。
妙は、そのまま、蕩けた表情になると、自分の頭を俺の胸にぐりぐりと押し付けてきた。
妙のサラサラな絹のような髪が、俺の頬に触れ、ふわりと甘い香りが俺の鼻をくすぐる。
「お、おい、まだ昼間だぞ」
俺は、妙の肩を持つと、慌てて離す。
愛くるしい顔付きの妙が、上目づかいで、『ぷくー』と不満そうにほっぺを膨らませる。
「妙、少しの間、城を離れるが心配するな。良いな?」
俺の言葉に、不安を感じたのか、心配そうに眉毛を傾けながら、コクりと頷く妙。
俺は、安心させるように笑顔で頷くと、妙を優しく抱きしめた。
奈々と妙を未亡人にしないためにも、無事に帰ってこよう。
………………
さあ、危険を減らすためにも、まずは準備だ。
俺が二条御所に向かう道中で接近する、大和国の筒井城にいる筒井順慶と、山城国の勝龍寺城にいる細川藤孝には、念のため事前に伝えておくことにした。
俺は、高取城の光隆叔父にお願いして、俺が公方様への謁見のために二条御所に向かうことを順慶と藤孝に伝えてもらった。
どちらも本音は分からないが、快諾した。
藤孝は既に知っていたようだ。
今回の謁見だが、あまり人数を連れていくのも周辺への刺激になり、良くないため、安全性も考えた上で、二百名程度に抑えることにした。
同行する主な家臣は、近郷、宗政、左近と、公家担当の小原冷泉だ。
あと、影武者の光太も連れて行こう。
光太には、俺と一緒の青い鎧を着てもらうぞ。
それと、風魔一族にも道中の護衛をお願いした。
今回は、献上物として、志摩国で作っている特産物と、金子五百貫を用意した。
準備は全て終わった。
さあ、二条御所まで向かうぞ。
▽
二条御所に向かう途中で、大和国の高取城に一泊することにした。
高取城に着くと、城主の光隆叔父と軍師の大谷吉継に出迎えられた。
「澄隆様、ご出世、おめでとうございます」
「ああ、ありがとう、光隆」
そのまま、夜はささやかに宴会を開いた。
そこで、俺は、二人にこれからの方針を指示する。
今後は、畿内に出兵することもあるだろう。
この高取城が、その時の最前線基地となる。
幸い、この高取城は規模が巨大だ。
数万人の軍勢が駐屯できるよう、城の改築と備蓄米の備えをお願いした。
それと、高取城の城下町についても、本格的に整備していくことにしよう。
大和国最大の商業都市を目指して、小西隆佐にも助力を頼むことにする。
………………
その日の夜。
高取城で、俺の出世お祝いの宴会をしている最中、クール吉継が、話があるというので聞くことにした。
相変わらず鼻筋の通った青年だ。
吉継は、成長するにつれて、控えめに表現しても、光り輝くほどの美少年になってきた。
「澄隆様、ご提案がございます」
「お、なんだ、吉継?」
「今回、公方様に謁見し官位を賜ること、大和国全域に広めてもよろしいでしょうか?」
俺は、首をかしげながら聞く。
「それは構わないが、どうしてだ?」
「まだまだ大和国では興福寺の力が強く、九鬼家がこの一帯を支配していることを快く思っていない者も多いです……」
クール吉継は、身を乗り出して、声を低くして言った。
「澄隆様が身寄りのない子供たちを引き取ったことも大々的に広めましたが、公方様への謁見は、領民たちの意識を変えるまたとない機会です。将軍家のご威光を用いて興福寺の力を削ぎたいと思います」
なんだと……。
子供たちを引き取ったことも広めたのか。
クール吉継が、だんだんと腹黒くなっていく……。
とても端整な顔立ちで、美しさに磨きがかかっている分、邪なことを企んでいると、見るものを狂わせるような妖しい色気が顔から滲み出している。
ちょっと怖い。
吉継にも、あたたかい家庭を持たせて、腹黒さを薄めた方が良いのかな。
要検討だな。
俺が吉継に、顔が怖いぞと言ったら、すぐに表情が元に戻った。
こういうところも、ダーク吉継だな。
それで、今回の吉継の提案に話を戻すが、さすが、高レベル政巧者、良い視点をしている。
「ああ、分かった。広めてくれ」
俺は、認めることにした。
ただ、やり過ぎるなよ。
▽
俺は、大和国の国境をこえて、山城国に入った。
全身を青い鎧で覆い、鬼の鉄仮面を被っている俺。
歩いている姿は強そうに見えるだろうが、中身の俺は鎧の重さと、蒸し暑さで死んだような顔になっている。
山城国に入って半日、小休止中に、風魔小太郎が報告にきた。
「お、小太郎、どうした?」
「ホホホ、他の勢力の忍びが我々を見張っておりました。敵意は感じなかったので、少しだけ脅しておきました……」
小太郎たちは、すさまじく有能なんだけど、この『少しだけ』は、ちょっと怖い。
俺が信貴山城で狙撃されてから、警備体制を見直したらしく、それからやることが過激になっている。
まあ、俺のためにしてくれていることだから、有り難いとは思っている。
その後は、何事も起きずに、京の都に入った。
俺は、あんぐりと口を開けたまま眼の前の景色を見ていた。
…………さすが、京だ。
そこには歴史や文化を感じさせる古寺や屋敷などが建ち並んでいた。
確か、史実では、今から数年後に信長が義昭と対立して京一帯を焼き払ってしまうが、今のところ、見渡す限り荘厳な建築物が多く、歴史オタクとしては、とにかく目を奪われる景色が続いていく。
この景色を前にして、俺は感嘆のため息が出て、心が震えた。
そして…………。
目的地の二条御所が見えてきた。
俺が前世で知っている二条城とは、建っている場所も違うし、雰囲気も違う。
しっかりとした水堀が存在し、籠城できるように石垣が城の周りに積まれていた。
そして、御所の屋根は金箔瓦になっているのか、日の光を反射してキラキラと光っていた。
御所の周りに植林されている立派な松が、厳かな雰囲気を醸し出している。
まさに、城の機能を兼ね備えた豪壮かつ美麗な御所だった。
この時代の二条御所を見ることができるなんて、感動だな……。
辺りをキョロキョロ見ながら二条御所に入ると、一色藤長が笑顔で出迎えてくれた。
ただ、俺が完全防備で現れたので、驚いたようだ。
一色藤長の笑みが引き攣っている。
そこでの挨拶も一通り終えると、俺たちは、二条御所の来客用の部屋に案内された。
俺は、正装に着替え、待つこと一刻、義昭の近習が俺を呼びにきた。
「右衛門少尉殿、お一人でお願い致します」
あ、一人ね。
よし、早速行こう。
え? 近郷が、血相を変えて、澄隆様一人での謁見はあんまりだと止めてきた。
いやいや、良いよ。
所詮、傀儡の将軍だし、さっと行って、よっと挨拶してくるよ。
俺の飄々とした態度に、家臣たちは感嘆の眼差しになっていく。
じゃ、行くぞー。
俺は、近郷や皆に手を振り、部屋を出た。
俺は、二条御所の長い廊下を歩く。
二条御所は廊下がジグザグになっていて、奥に進むのに時間がかかる。
案内される道中、すれ違う女中たちから、やたらとボーっと見られる。
可愛らしい女中たちは、ぽかーんと口を開けたまま、こちらを見つめて動きが止まる。
ちらちらと熱のこもった眼差しを感じる。
俺が女中たちに目を向けると、頬を染めて俯いた。
なんで?
どこか、おかしいかな?
田舎者だから、どこかに違和感があるのかもしれない。
まあ、鏡がないから、分からん。
廊下の曲がり角で、急に飛び出てきた女中に危うくぶつかりそうになる。
剣道で培った足運びで、なんとかぶつかるのを回避して、ホッと胸を撫で下ろすのと同時に女中に微笑むと、その女中は『ま、ま、まぁ』と言ってふらっと倒れてしまった。
おいおい、大丈夫か?
俺が慌ててて女中を助け起こすと、女中たちの黄色い声が聞こえてきた。
助けた女中も、周りの女中たちも顔が赤い。
う、うん。
倒れた女中は『あ、あ、ありがとうごさいましゅ』と、かなり緊張して話しているが、体調は大丈夫そうだな。
俺は、居心地が悪くなって、女中に『すまなかった』と謝ると、いそいそと、その場を後にした。
随分歩くと、義昭のいる綺羅びやかな謁見の間の前まで案内された。
そして、そこでの注意点にまず、驚く。
なんと、俺の家格が低いと、あからさまに指摘され、予想以上に離れた場所に座るように指示された。
へえ……。
呼びつけた割りには、随分とマウントを取ってくるんだな。
足利義昭は征夷大将軍だ。
日本の大名は、原則、義昭の下につき、忠義を尽くすことになっている。
俺は、そうは思ってないけどな……。
尊大な雰囲気の義昭の近習が襖を開くと、目の前には荘厳な謁見の間が広がっていた。
真新しい畳が敷かれた部屋の中を節目がちに進む。
俺は、表向き義昭に従っているように見えるように、言われた通り、離れて座って臣下の礼をしっかり取り平伏した。
「右衛門少尉か」
「ははっ。ご機嫌麗しゅう」
「面を上げられよ」
俺は、義昭に直接目を合わせないように、顔を上げた。
義昭は驚いた声を出した。
「ほう! ほうほうほう! ほーう!! どんな田舎侍が来るかと思ったが、なんと凛々しい美男子ではないかあ。藤長に様子は聞いていたが、大袈裟に言っていると思っていたぞぉ!」
義昭は膝を打って笑顔になる。
いきなり、『もっと近う!』と言われたので、俺は近くににじり寄った。
俺の正面には義昭、その一段下の左右には、豪奢な直垂を着た者たちが、神妙な顔で控えている。
一番、端にいる顔の形が四角い男は、なぜだか、生意気な小僧めがという表情で、俺を睨んでいる。
俺が何かした?
部屋の襖には華美な松が描かれていて、部屋に奥行きを感じるな。
義昭の後ろの高そうな金屏風も輝いて見え、義昭が偉く見えるような雰囲気作りに一役かっているようだ。
義昭が、俺の顔をまじまじと見ながら、話しかけてきた。
「早速だが、今回も右衛門少尉は、数々の献上物を持ってきたそうだな。大義であーる! そちの忠誠に報いたいと思う。志摩守に就いてもらおうと思うが、どうだあ?」
「家格が低い九鬼家にとっては、特別な機会。公方様の思し召しを感謝致すがよい」
義昭の隣から、義昭の話に被せるように恩着せがましく言ってきた人物を見ると、汗をたらしたガマガエルのような男だ。
驕る者特有の耳障りな声で、値踏みするような視線を向けられ、不愉快な気分になる。
俺を見ながら、舌なめずりをしているかのようなカエル顔に、寒気がする。
「澄隆殿、引き続き、活躍を期待していますぞ」
一色藤長が、にこやかな表情をたたえ、俺に声をかけた。
「有り難く、お受けさせて頂きます」
俺は、できるだけ殊勝に見えるように丁重に頭を下げる。
「このようにお言葉を頂きました上は、さらなる忠節に励みまする」
本音は忠節に励む気は全くないが、今回、もらった志摩守という官位は、正直、有り難いので感謝はしておく。
これで、志摩国一帯を支配していることに対して、将軍家からのお墨付きが出た形になった。
領内の治世に役立つだろう。
義昭は、俺の言葉に満足して、何度も頷いて喜んでいる。
初めて見る義昭は、痩せ型で物腰は柔らかいが、眉がせまり、ハの字になっていて神経質そうな人物だった。
「おお、おお、志摩守よ。これからも、予のため、力をつくしてくれぇい」
「ははっ」
将軍の左右に座っている者たちからは、俺のことを田舎者とあからさまに見下している雰囲気をひしひしと感じるが、義昭は俺のことを気に入ったようだ。
思いがけないことだが、義昭は終始笑顔で俺に話し掛けてくる。
俺は、ボロを出さないように、真摯に質問に答えた。
こういう時、澄隆の地頭の良さに感謝する。
前世の俺なら、どこかで詰まるような質問でも、この頭だと、スラスラと受け答えができる。
キリがいいところで丁寧に頭を下げ、退出した。
俺の初めての謁見は問題なく終わった。
………………
義昭との謁見後、部屋に戻ってきた俺を見て、近郷や家臣たちは皆、心配そうな顔をしていた。
ちゃんと挨拶してきたって。
信用ないな。
俺が従六位下の志摩守になったことと、義昭に謁見して直に声を掛けられたことを伝えたら、皆、感動して惚けた顔をしている。
近郷は、ドバーと涙を流して喜んでいた。
「あ、あの澄隆様が、公方様からお声を掛けられるなんて……」
近郷は、泣きながらも顔には笑みがある。
『あの』って、なんだよ。
泣くか笑うかはっきりしろ。
堅苦しいのは終わり。
早く帰ろう。
いつも拙作を応援頂き、ありがとうございます!
次回は、歩くのに疲れた澄隆が、九鬼家で馬の運用を考え始めます。
題名『ポニーは男の浪漫』、お楽しみに!




