第二〇話 追いこくら大作戦 その二
▽一五六七年九月、澄隆(十二歳)志摩国 戦場
「澄隆が逃げるぞぉぉっ! お前ら、早く捕まえろぉっ!」
嘉隆の荒れ狂う叫び声が、遠くから聞こえてくる。
俺は、逃げに逃げた。
前世も含めて、人生で一番真剣に走った。
「早く! 早く!!」
「早く逃げないと包囲される!」
生と死が紙一重の世界。
人生で初めて受ける、俺を殺そうとする敵の悍ましい殺気で、俺の歯がガチガチと鳴る。
死ぬ覚悟はしていたが、追われる怖さは凄まじい。
ヤバいヤバいヤバい。
こ、これは怖いぃぃぃっ!
俺達の八倍の兵数がいる嘉隆勢は、血を求める殺戮者の目を俺たちに向けながら、無慈悲に押し寄せてくる。
味方の一人が石に躓いて転ぶと、敵が馬乗りになって、刀を突き刺した。
「ウワァァァァァァ!」
俺の鼓膜を揺らすような味方の悲鳴が響き、血飛沫があがる。
俺は、それを見ながら顔を歪め、歯を食い縛る。
く、くそ、無謀だったか……。
歯を食い縛りながら全力で走ったが、敵兵の一人の足が早く、俺の真後ろに付くと、気勢を上げて斬りかかってくる。
「澄隆ぁ! くらえぇぇ!」
「くっ!」
ザシュ!!
右肩に異常な熱さを感じ、斬られたと分かった。
ぐおぉぉ!
めちゃくちゃ痛い!
俺は、猛烈な痛みを感じて、この場でのたうち回りたいくらいだったが、そんな余裕はない。
俺は、斬られた動揺で目がチカチカする中、持っていた刀を振り回すと、運良く敵の凶刃を弾けた。
そこに、近郷が俺の名前を叫びながら飛び出し、上段に構えた刀で、敵兵の右肩から左腰骨辺りまで斬り裂いた。
「ぐぎゃぁぁぁ!」
斬られた敵兵は、悲鳴をあげながら崩れ落ちる。
「澄隆様ぁぁぁ! はぁはぁ、危ない! お早く!」
敵に追い付かれて、危ない目にあったが、近郷が守ってくれて、事なきを得た。
「ち、近郷、助かった。走るぞ!」
そのまま走りながら、俺の肩からは、血が滴り落ちるが、肩を回すと問題なく動く。
軽傷だ。
軽傷に違いない。
軽傷だと良いな。
前世も含め、人生で初めて斬られた。
俺は、激しい痛みに涙目になりながら、尋常ではない量の汗が吹き出す。
俺は、挫けそうになる自分を含めて、皆を鼓舞した。
「皆、走れぇ! 死ぬ気で走れ! 逃げるぞぉ!」
「「「お、おおー!」」」
俺の言葉に皆が答える。
まだ、味方の士気は高いようだ。
相変わらず、歯がガチガチ鳴るが、俺は走り続けた。
………………
走り続けて、どのくらい経っただろう。
嘉隆勢は、俺達を追っているうちに、間延びしてきている。
呼吸がとんでもなくキツイ。
ドクンドクンと鼓動が乱暴に高鳴る。
前世の身体なら、これほど長い時間、走れなかっただろう。
死と隣り合わせの状況で、火事場の馬鹿力が出たのもあると思うが、澄隆の身体能力の高さのおかげで、まだ追い付かれていない。
……だけど、限界が近い。
息切れし過ぎて、口から肺が飛び出そうだ。
目も霧がかかったように曇っている。
足も重りをつけたように動かない。
肩の傷もズキズキする。
全身が焼けるような熱さを感じる。
自分の選択は無謀だったのか……。
逃げながら、そればかり考えてしまう。
諦めそうな体を心の力で何とか動かし続ける。
ただ、目的地点まで、あと少しの所まで来た……。
もう少し……。
もう少しだ……。
やっと、やっと……。
やっと……。
…………。
……。
目的地に着いたぁぁ!!!
「い、痛てぇぇ! 何だ? 足に刺さったぁぁ」
「後ろ、押すな、押すなぁぁぁ」
「うわぁぁ」
「な、なんだぁ!」
よーしっ!
追いかけてくる嘉隆勢が、この辺一帯にまいた、マキビシを踏んだ!
マキビシは、水草であるオニビシの実を乾かしたもので、三角錐の形状で、必ず刺が上を向くようになっている。
藁で作った薄い草鞋を履いている嘉隆勢は、マキビシで足の裏を痛め、そこら中で倒れている。
俺達の草履は、荒れ地を走りやすいように厚手にしたが、もう一つの利点がマキビシが足に刺さっても痛くないことだ。
厚手の草鞋、様々だ。
さあ、嘉隆勢が止まった。
ここから反撃開始だ!
「澄隆様っ! 準備万端です!」
この場所に隠れて待機していた奈々率いる別動隊が、疲れている俺達と嘉隆勢の間に立ちふさがり、止まった敵兵たちに一斉に弓矢を放つ。
奈々の放つ矢は、狙い通り、敵の喉元に命中した。
おお、奈々、凛々しい。
奈々の顔を見たら、急に元気が出た。
「はぁはぁ……。よし、奈々! 鳴子を鳴らせ!」
「はいっ!」
奈々は、木の板に竹の管を取り付けた鳴子を鳴らして、待機している忍者達に攻撃開始を伝える。
カーンカーン!
鳴子の音が響き渡る中、間延びしている嘉隆勢の側面に対して、木の上に隠れていた多羅尾一族が、みな一斉に手裏剣を投げ出した。
シャシャシャッッッ!!
風を切りながら飛ぶ手裏剣は、多種多様な形をしていて、十字剣、五方剣、六方剣、八方剣、十方剣、糸巻剣、鉄環型手裏剣、棒手裏剣などが、嘉隆勢の上から注がれ、嘉隆勢は大混乱になった。
嘉隆勢は、マキビシで倒れている味方に躓いて、その後ろも倒れ、その中を容赦なく手裏剣が飛んでくる。
「ぐぎゃぁぁ!」
「うわぁぁぁあ!」
「う、上から攻撃されているぞ!」
嘉隆勢は、慌てて大声を上げる。
次々に飛んでくる手裏剣。
「くそっ! 待ち伏せかっ! 場所がまずいぞ!」
「は、謀られたっ!」
木が鬱蒼と茂り、どこから攻撃されているか分からない視界の悪さ。
手裏剣から身を守ろうにも、盾もない。
怒号や悲鳴が相次ぎ、嘉隆勢がバタバタと倒れていく。
さあ、ここまでは死にそうな目にあったけど、ここからは俺達のターンだ。
「近郷! 攻撃だ!」
嘉隆勢に対して、総攻撃を命じた。
敵は、これまで勝ち戦だと考え、俺たちを迎撃する体勢が取れていない。
勝てると思った油断。
緩んだ心。
それが命取りだ。
俺たちは、倒れている敵に対して、容赦なく、矢を射かけた。
「て、敵は小数だぁ。まずは澄隆を殺せぇ!」
巨漢の鎌太夫が、一人、矢を物ともせず、ドスドスと突き進んできた。
そこに、木陰から染み出すように、ヌゥと現れたのが、風魔一族。
皆、能で使うような面を付け、焦げ茶色の忍び装束をしている。
「き、気味の悪い仮面をして、な、何者だぁ?」
鎌太夫が予想外のことに、焦った声を出す。
小太郎が、鎌太夫の前に出て、笑いながら答える。
「ホホホ、これから死にゆくあなた達には知る必要はありませんよ」
「な、何だとぉ!?」
混乱する鎌太夫を前にして、小太郎は、両手に指輪のように装着した角指を構える。
小太郎がクパァと手を広げると、手の内側に突起針が見える。
鎌太夫と小太郎の周囲では、喜の面をした忍者達が分銅鎖を投げて、嘉隆勢を先端の尖った錘で打ち倒し始めた。
また、怒の面を付けた忍者達は、猫の爪みたいな長さ一尺ほどの鋭い爪を両手に付けて、奇声を上げながら、本物の猫のような出鱈目な動きをして、敵を突き刺している。
忍者達によって、嘉隆勢が周囲で次々と倒されている中、焦った鎌太夫は、持っている丸太のような棒で、小太郎に大振りな攻撃をしていた。
小太郎は、忍び故の素早い身のこなしで、上半身だけで鎌太夫の棒を避けると、ヌッと、異常に長い小太郎の右腕が伸び、鎌太夫の首を掴んだ。
「ぶ、ぶはっ、は、は、離せー!」
戦場での動揺は命取り。
鎌太夫は、もっと強かったと思うが、小太郎が、ぎゅっと首を強く握ると、手の内側の突起針が鎌太夫の首の肉に食い込み、『ぐへっ』と鎌太夫の潰れた声がした。
小太郎が手を離すと、鎌太夫は首から血を吹き出しながら、盛大に倒れる。
嘉隆勢は、まさか鎌太夫が倒されるとは思っていなかったのか、一瞬固まっている。
よっしゃ、今だ!
「鎌太夫は倒れた! 残りを蹂躙しろぉぉぉ!」
俺が大声で叫ぶと、味方は喚声を上げながら、敵に襲いかかった。
気が付くと、今度は、哀の面を付けた忍者が、敵勢の側面から突撃し、死神が使うような忍び鎌を振り回し、敵の首を斬りつけていた。
はぁはぁはぁ。
敵は大混乱に陥っている。
追いこくら大作戦、上手くいったな……。
今回、俺が使った、追いこくら大作戦は、島津家が得意とした『釣りのぶせ』という戦法と同じだ。
『釣りのぶせ』は近世になって造語されたもので、この時代では流通していなかった言葉だが、島津家ではよく使われていた戦法だ。
この戦法は、本隊が負けたフリをして逃げ、噛み付いてくる敵を誘い込んで、敵が間延びしたところを別動隊と一緒に包囲して叩くものだ。
別動隊との連携が大事で、連携が取れないと本隊が噛み付かれて食べられてしまうリスクがある。
今回、別動隊と忍者たちが上手く動いてくれたおかげで、タイミング良く包囲できた。
それと、これほど上手く包囲できたのは光俊たちが詳細な地図を作っておいてくれたことも大きい。
隘路と地形を利用して、用意周到に兵を配置して、圧倒的な兵力差を自然地形で覆すことができた。
後は、敵が混乱しているうちに、蹂躙するだけだ。
「敵を撫で斬りにしろ! 押せ! 押せ! 押せぇ!」
「「「おぉーっ!」」」
俺たちは、包囲されて浮き足立った嘉隆勢を、一気呵成に攻撃する。
敵は、戦う意志のある者もいるが、周りとの連携が取れず、各個撃破されていく。
「だ、だめだぁぁ。退くぞぉぉ」
「ひぃひぃ、待ってくれぇぇぇ」
四半刻ほど、嘉隆勢は粘ったが、支えきれずについに壊走した。
「敵は、逃げるぞ! 一人も逃がすなぁ!」
俺は息が切れて、声がかすれたが、味方を鼓舞し続け、目の前に敵がいる間、型も滅茶苦茶に、刀を振り回した。
………………
……周辺は濃密な血の臭いで満ちている。
鼻の奥を血の臭いが貫く。
もはや、どのくらいの時間がたったのか分からない。
ふと気が付くと、立っているのは俺たちだけになっていた。
刀を握る腕は、自分のものじゃないぐらい重くなっている。
それに、無我夢中で刀を振り回したが、初めて人を斬った実感が今になって沸いてきて、手がブルブルと震える。
軽く目眩のような感覚もあり、刀を離そうにも、指が固まって動かない。
刀を持った手を見つめる俺に、奈々が近づいてきた。
「す、澄隆様。だ、大丈夫ですか……?」
奈々の心配そうな顔。
その頬には、赤い血の点々がついていた。
よく見ると、奈々の指先から血がポタポタと落ちている。
弓の弦で切ったのか、斬られたのか……。
奈々も死力を尽くして戦ったのだ。
情けない姿を見せる訳にはいかない。
俺は、気を奮い立たせて、唾を飲み込む。
鉄っぽい血の苦い味を感じた。
「俺は大丈夫だ。奈々は大きな怪我はしていないか?」
奈々はホッとした顔で答える。
「は、はい。どこも軽症です。す、澄隆様は、その肩の傷を早く止血しないと……」
俺の肩の傷から流れた赤い滴が地面へ垂れ落ちて、小さな血溜まりになっている。
奈々は自分の着物の端を切り裂いて布を作ると、持っていた軟膏を塗り、俺の肩の傷を包み込むように縛ってくれた。
俺の傷の手当てを一生懸命している奈々を見ていると、張り詰めていた心が和む。
奈々の頬の血は、敵の返り血みたいだな……。
「ふぅ。奈々が無事で安心した。……何とか勝ったな」
「は、はい!」
微笑む奈々の顔に、戦場なのに思わず見惚れる。
奈々を見ているだけで、固まっていた指が動きだす。
俺は、俺は奥歯を噛み締めて気合を入れると、無理やり血糊がついた刀を離し、座り込みたいのを我慢して辺りを見渡した。
家臣たちは皆、返り血を浴びて、血だらけだが、目には力がある。
怪我人も多いが、ここは、攻めるところだろう。
「皆、勝ったぞぉぉ! ただ、まだ終わっていない! 負傷者以外は、このまま、波切城を攻めるぞ!」
「!? おぉーー!」
皆、勝った高揚感で声に勢いがある。
このあと、倒れている敵兵を確認したが、嘉隆はこの場で死んではいなかった。
どうも、敵勢の後方にいて、上手く逃げたようだ。
このまま、嘉隆が生きていては火種が残る。
波切城まで攻め込んで、嘉隆を討つぞ。
拙作をお読みいただき、ありがとうございます。