問いと命題
憧れを抱いたからには、代価を支払わなければなりません。
夢を見ていたからには、対価を支払わなければなりません。
そういう風に、出来ているのだから。
そういう風に、流れているのだから。
さぁ。その手を。結んで開いて。
空に届けましょう。空に水が溜まるまで。
「どうして、空を見ているの?」
問い。
それは問いから始まった。
一滴の雫が輪っかとなり、波となり、やがて反動を形成する。
それと同義の事。
問い。
それは、正面を向く、きっかけに過ぎない。
「そこに、行きたいから」
彼は、そう言った。
感情のそれは言葉に存在せず、ただ事実を述べただけの、伝達の意。
彼の波は、私の心に触れる。
そおっと。撫でるように。
それに対して、私はまた、問いをする。
「どうして、空に行きたいの?」
風が空を切る音。
枝と葉っぱが揺れる音。
そして、彼が息を吸う音。
頭の中は、音で満たされた。
「正気では、いられないから」
正気。
その言葉を、彼は口ずさむ。
脳から掬い上げた正気という言葉。私には、理解しえない言葉。だけど知っている。それが最も正確で明確な表現なんだと。
心が叫ぶ声がする。ウズウズして、じっとしていられなくて、怒りと共に淀みから空へ飛び立とうとする勢い。その事柄を彼は正気ではいられないと表現した。彼の事は分からない。彼の心は知り得ない。
だけど知っている。その揺さぶりを。止まらない鼓動の焦りを。
「だから、ここを捨てて空に経つの?」
またしても、問い。
少しの感情を、嫌味を乗せて。
「そういう事になる。地球には、もう、戻ってこないかもしれない」
「どうして、そんな事言うの?」
「一度行ってしまえば、きっと、心はそこに取り残されるから」
「でも、戻ってこないと行けないでしょ? いつかは」
「あぁ。でも」
でも。
彼は次の言葉を紡ぐ前に、空から視線を離し、足元の流れる川に写る私たちを見た。
少し癖っ毛の彼と、ボブカットの私。
翠の瞳と、碧の瞳と。
その背景に広がる、広大な星々。
地球を見てみてもなお、彼の眼には空が写る。
「また、空へ旅立つ」
知っている。
だからこそ、言わないで欲しかった。
言えばそれは確信になるから。言葉は記憶に刻まれ、心に刻まれ、道筋に刻まれる。
問いたのは、失敗だったのかもしれない。
いや、失敗だ。
私の間違いだ。
問いを続けるのも、彼の夢に嫉妬するのも、全部、私の。
「でも、」
と、彼は言った。
自分を傷つける声で一杯な私の耳に、その全てを退いて届けるように。
「戻ってきた時、君とこうしてまた話をしたい」
「私と?」
「あぁ」
「どうして?」
問い。繰り返しの、問い。
いつまでも学ばない、私の悪い癖。
「僕の行く末を、僕がたどる道を、君には知っていて欲しい」
とても、わがままな人。
私を置いてどこかへ行くというのに、私はここへ縛り付けるなんて。
だけど、それでも、
「いいよ」
私は、
「ここに居てあげる。君が地球へ帰ってきた時に、おかえりって言ってあげる」
そんな彼の、大冒険の一部として少しでも傷跡を残せるのなら、それで満足だ。ちっぽけな野望と壮大な欲望で出来た私の事を、微かでも彼に覚えてもらえるように。
水面で曲がる光よりも、歪みに歪んだ私だけれど、それでも。
「ありがとう」
その顔だ。
私の眼を覗き見て、微かに浮かべる笑み。
君が月に心を奪われたように、私も夢を語る時の彼の笑顔に心を奪われたんだ。
奪われたまま、彼は月に行く。
奪った自覚はないだろうけど。
「さて」
彼は立ち上がる。両足でしっかりと体を支え、視線は愛しの天空へ向けたまま。
あぁ。
彼が旅立ってしまう。
遠い彼方の向こう側へ。この河川敷から、私の手の届かぬ38万キロメートル先の世界へ。
「行くとするよ」
「……そう」
言いたい事は、喉に餅が詰まって言えない。
きっとそうに違いない。
そうで、あってほしい。
口が微かに開いて、後悔とともに口を閉ざす。
それの繰り返し。
弱い私の、結局の行き着く先。
「地球を出る前に、君に会えて良かった」
ずるい。ずるいなぁ。
言いたいこと、きっと、全部言えたんだろうな。、君は。
全てを吐き出して、全てをここに置いて、灰色の地に向かうんだ。なんの後悔も、葛藤も、未練もなく、清らかな姿でここを去るんだ。
この場に留まり、濁るだけの私と違って。
彼は歩き出す。一歩、また一歩。その背中は徐々に小さくなり、夜中の影に混ざり、塵芥となって消えていく。静けさを取り戻した夜空だけが残った。
「っはぁ」
その時やっと、喉に詰まった餅がどこかに消えた。
途端、溜まっていた多くの言葉が溢れ返る。
「――どうして!」
でも、言葉よりも先に
「どうじで、私をおいでいぐの!」
涙が流れ出た。
感情が心臓から溢れ出し、言葉を紡ぐ脳からは瓦解する音がする。反発する心、それは四肢へと流れ、やがて
「なんで……私を、独りにするの」
もぬけの殻。伽藍堂。
全てが抜け落ち、ただ残ったのは孤独感のみ。
指先からゆっくりと、つま先からちりじりと、腐っていく。必死に自分を抱きしめて誤魔化そうとするけれど、求めていた温もりはどこにも見当たらない。
空が嫌いだ。
彼の心を奪った、あの夜空が嫌いだ。
月が嫌いだ。
私の居場所を奪った、あの月光が嫌いだ。
そしてなにより。
私が嫌いだ。