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月世界旅行年代記  作者: 瀬尾 標生
1/1

問いと命題

 憧れを抱いたからには、代価を支払わなければなりません。

 夢を見ていたからには、対価を支払わなければなりません。

 そういう風に、出来ているのだから。

 そういう風に、流れているのだから。

 さぁ。その手を。結んで開いて。

 空に届けましょう。空に水が溜まるまで。


「どうして、空を見ているの?」

 問い。

 それは問いから始まった。

 一滴の雫が輪っかとなり、波となり、やがて反動を形成する。

 それと同義の事。

 問い。

 それは、正面を向く、きっかけに過ぎない。

「そこに、行きたいから」

 彼は、そう言った。

 感情のそれは言葉に存在せず、ただ事実を述べただけの、伝達の意。

 彼の波は、私の心に触れる。

 そおっと。撫でるように。

 それに対して、私はまた、問いをする。

「どうして、空に行きたいの?」

 風が空を切る音。

 枝と葉っぱが揺れる音。

 そして、彼が息を吸う音。

 頭の中は、音で満たされた。

「正気では、いられないから」

 正気。

 その言葉を、彼は口ずさむ。

 脳から掬い上げた正気という言葉。私には、理解しえない言葉。だけど知っている。それが最も正確で明確な表現なんだと。

 心が叫ぶ声がする。ウズウズして、じっとしていられなくて、怒りと共に淀みから空へ飛び立とうとする勢い。その事柄を彼は正気ではいられないと表現した。彼の事は分からない。彼の心は知り得ない。

 だけど知っている。その揺さぶりを。止まらない鼓動の焦りを。

「だから、ここを捨てて空に経つの?」

 またしても、問い。

 少しの感情を、嫌味を乗せて。

「そういう事になる。地球には、もう、戻ってこないかもしれない」

「どうして、そんな事言うの?」

「一度行ってしまえば、きっと、心はそこに取り残されるから」

「でも、戻ってこないと行けないでしょ? いつかは」

「あぁ。でも」

 でも。

 彼は次の言葉を紡ぐ前に、空から視線を離し、足元の流れる川に写る私たちを見た。

 少し癖っ毛の彼と、ボブカットの私。

 翠の瞳と、碧の瞳と。

 その背景に広がる、広大な星々。

 地球を見てみてもなお、彼の眼には空が写る。

「また、空へ旅立つ」

 知っている。

 だからこそ、言わないで欲しかった。

 言えばそれは確信になるから。言葉は記憶に刻まれ、心に刻まれ、道筋に刻まれる。

 問いたのは、失敗だったのかもしれない。

 いや、失敗だ。

 私の間違いだ。

 問いを続けるのも、彼の夢に嫉妬するのも、全部、私の。

「でも、」

 と、彼は言った。

 自分を傷つける声で一杯な私の耳に、その全てを退いて届けるように。

「戻ってきた時、君とこうしてまた話をしたい」

「私と?」

「あぁ」

「どうして?」

 問い。繰り返しの、問い。

 いつまでも学ばない、私の悪い癖。

「僕の行く末を、僕がたどる道を、君には知っていて欲しい」

 とても、わがままな人。

 私を置いてどこかへ行くというのに、私はここへ縛り付けるなんて。

 だけど、それでも、

「いいよ」

 私は、

「ここに居てあげる。君が地球へ帰ってきた時に、おかえりって言ってあげる」

 そんな彼の、大冒険の一部として少しでも傷跡を残せるのなら、それで満足だ。ちっぽけな野望と壮大な欲望で出来た私の事を、微かでも彼に覚えてもらえるように。

 水面で曲がる光よりも、歪みに歪んだ私だけれど、それでも。

「ありがとう」

 その顔だ。

 私の眼を覗き見て、微かに浮かべる笑み。

 君が月に心を奪われたように、私も夢を語る時の彼の笑顔に心を奪われたんだ。

 奪われたまま、彼は月に行く。

 奪った自覚はないだろうけど。

「さて」

 彼は立ち上がる。両足でしっかりと体を支え、視線は愛しの天空へ向けたまま。

 あぁ。

 彼が旅立ってしまう。

 遠い彼方の向こう側へ。この河川敷から、私の手の届かぬ38万キロメートル先の世界へ。

「行くとするよ」

「……そう」

 言いたい事は、喉に餅が詰まって言えない。

 きっとそうに違いない。

 そうで、あってほしい。

 口が微かに開いて、後悔とともに口を閉ざす。

 それの繰り返し。

 弱い私の、結局の行き着く先。

「地球を出る前に、君に会えて良かった」

 ずるい。ずるいなぁ。

 言いたいこと、きっと、全部言えたんだろうな。、君は。

 全てを吐き出して、全てをここに置いて、灰色の地に向かうんだ。なんの後悔も、葛藤も、未練もなく、清らかな姿でここを去るんだ。

 この場に留まり、濁るだけの私と違って。

 彼は歩き出す。一歩、また一歩。その背中は徐々に小さくなり、夜中の影に混ざり、塵芥となって消えていく。静けさを取り戻した夜空だけが残った。

「っはぁ」

 その時やっと、喉に詰まった餅がどこかに消えた。

 途端、溜まっていた多くの言葉が溢れ返る。

「――どうして!」

 でも、言葉よりも先に

「どうじで、私をおいでいぐの!」

 涙が流れ出た。

 感情が心臓から溢れ出し、言葉を紡ぐ脳からは瓦解する音がする。反発する心、それは四肢へと流れ、やがて

「なんで……私を、独りにするの」

 もぬけの殻。伽藍堂。

 全てが抜け落ち、ただ残ったのは孤独感のみ。

 指先からゆっくりと、つま先からちりじりと、腐っていく。必死に自分を抱きしめて誤魔化そうとするけれど、求めていた温もりはどこにも見当たらない。

 空が嫌いだ。

 彼の心を奪った、あの夜空が嫌いだ。

 月が嫌いだ。

 私の居場所を奪った、あの月光が嫌いだ。

 そしてなにより。

 

 私が嫌いだ。

 

 


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