5
「セレナ、おはよう!」
朝、職場へ向かうために自宅の玄関を開けると、そこに見慣れた人物が立ち塞がっていた。
朝日を浴びて輝く銀の髪に、海のように澄んだ青の瞳、思わず見惚れてしまう整った容姿、彼のためにあつらえたような銀糸の刺繍が入った濃紺のローブ。
朝から見るには(個人的に)少々刺激の強すぎるその人は、かつての仲間であり友人のノエル・フォーレだ。
宮廷魔道士である彼は城に住み込みで働いていて、普段は全く会う機会もない。それにも関わらず、最近はこうして毎日のようにやって来る。
城から私の家まではそこそこ距離があるというのに、だ。
それがなぜかと言うと。
「お、おはよう、ノエル。今日も来たの? 朝苦手なのに……」
「当たり前だろう。君がそいつとの同居を止めるまで毎日来ると言ったはずだ!」
そう言ってノエルがズビシ! と指差したのは、私の後ろ。
ノエルとは対照的な漆黒の髪に、青と紫のオッドアイ。色以外は全く同じ容姿でありながら、こちらはだいぶカジュアルなシャツとパンツスタイルで佇むその人は――『シエル』。
並行世界からやって来たもう一人のノエル・フォーレだ。
私が考えたその名で、新たな人生を歩み出したもう一人の友人である。
外に出る時は自作の眼鏡型の魔道具で変装をしているため、私以外の人にはごく平凡な青年に見えている、らしい。
しかしそんなことはまるで関係ないようで、ノエルはシエルを認めるや否や、キッ! と睨み付けた。
「はあ……お前もしつこいな。お前のような腑抜けにセレナは勿体ない。諦めろ」
「そ、そういう話をしている訳じゃないと言っているだろう! 僕はお前みたいな得体の知れない奴が、仲間の……セレナの家に住んでいる事が心配なだけだ!!」
「僕はこの世の全てからセレナを守る為だけにいるんだ。その僕が愛しいセレナを傷付ける訳ないだろう。お前如きとは覚悟が違う」
「ハッ、どうだかな! そんな事を言って隙あらば襲いかかるつもりじゃないのか!?」
ああ、また始まった……。
ぎゃーぎゃーと仲良く(?)言い合う二人を他所に、私は家の鍵を閉めると職場へ向かって歩き出す。
止めに入っても無駄だと分かっているから。
私が遠慮なくスタスタ歩き始めると、舌戦を繰り広げながらも二人がついて来て、結局三人で私の職場へ向かうのだ。
あれから二週間も経てば、シエルとの同居も、ノエルによる毎朝の突撃訪問もすっかり慣れてしまって、今ではこんな光景が日常のそれとなりつつある。
「おはようございます」
「あら、おはようセレナちゃん。フフっ、いってらっしゃ〜い」
少し歩いたところでご近所さんとすれ違い、挨拶を交わす。
朝は家の前の掃除が日課らしいご近所さんは、微笑ましいものを見る目で私達を見送ってくれるのだが……そんな視線が毎度居た堪れない。
ご近所で変な噂になってないといいなぁ、なんて。無理か、この様子じゃ。ご近所さん、なんだかニヨニヨと意味深な笑みを浮かべているし。
そもそも、なぜこんなことになっているのかと言うと。
これは別に、シエルやノエルも私の職場で働き始めた――とか、そういう話ではない。
シエルは私の送り迎えのため。
そしてノエルは、昨晩もシエルに襲われることがなかったかと私の無事を確認するためにわざわざこの時間を取っているらしい。
少し前まではノエルに会う機会すらなくて。婚約者? の存在とか、無視されたこととか。一人で勝手にモヤモヤしていたことが、まるで遠い日のことのように思える。
まさかこんな形でノエルと毎日顔を合わせることになるとは想像もしなかった。
もちろん、誰かと同居することになるなんてことも。しかもそれが、並行世界の好きな人とだなんて――。
「大体お前は!」
「お前こそいい加減、」
仲が良いのか悪いのか。
必ず私を挟んで話す二人を交互に見上げて、思わず苦笑いを零す。
あの日、シエルから話を聞き終えた後。
私達はシエルの扱いについて話し合った。
シエルがこの世界にやって来たのは私が原因だ。向こうの世界の私が責任を取れず、また、シエルが元の世界へ帰る方法と意思がない以上私がシエルを看視、保護する責任がある。
では、具体的にどうするか。
セドリックと相談した結果、紆余曲折を経てシエルには私の家で過ごしてもらうことになったのだった。
……うん。最初はね? リリィさえも反対したし、自分でもそれは流石に不味いだろうと思ったのだけれど。
シエルの唯一の希望が私の見守りであることから、互いの看視には同居が一番手っ取り早いこと。
幸いにも私の家は四人家族が暮らせるくらいの一軒家で、部屋が余っていること。
そうでなくとも、好きな場所へ自由に転移出来る人間を警戒するのもバカらしいことから、考えるだけ無駄だとそういうことになったのだ。
一応言っておくと、転移魔法は誰でも使えるようなお手軽な魔法ではない。
ノエルのような極一部の才ある魔道士が、自身と魔石の膨大な魔力を利用してどうにか使うことの出来る高難易度魔法である。
利用頻度は王族が超緊急時に使用する程度、と言えば、その貴重さが分かってもらえるだろう。私達も、魔王討伐の旅路で転移魔法を使ったことは一度(正確に言えば往復で二度だが)だけだった。
そのたった一度が、私が生き残るために必要なアイテムを取りに行くための機会だったりしたのだけれど……まあ、今その話は置いておくとして。
そんな魔法をいとも簡単に使ってしまうのだから、シエルがどれだけ桁違いの存在であるか。そして、その域に到達するまでどれだけの研鑽を積んだのか――嫌でも分かってしまう。
隣を歩くシエルをチラと見上げて思う。
私が今、彼に抱く一番の感情は『罪悪感』――いや、そんな言葉では足りないほどの何かだ。
死にゆく私が告白なんてしなければ、シエルがあんなにも苦しみを抱え込むことはなかった。
二週間経った今でもハッキリと覚えている。まるで子供のように泣き叫び、私に縋り付くシエルの姿を。あの時の張り裂けそうな胸の痛みを。
だから私は、彼の心を癒せるのなら何だってしようと決めた。全てを捨ててまでやって来た彼が求めるのなら、私も全てを捨ててでもその想いに応えよう。
それがシエルに対するせめてもの罪滅ぼしだと思う。
執着と、罪悪感。
とても良い関係とは言えないけれど……少しでも改善出来るように頑張りたい。
「おい、セレナ! いい加減こいつを追い出せ! セドリックがこいつ用に家を用意すると言っていただろう!」
「それはセレナが不自由な思いをしたり、僕が暴走したらの話だ。僕達は問題なく過ごせているのだから無用だ」
「それはお前が決める事じゃないだろう!」
私の職場までは徒歩で十五分。
一人では少し長く感じていた通勤時間も、二人の掛け合いを聞いているとあっという間で。今日も気付けば到着してしまっていた。
職員用の裏口前に立って、笑顔で二人を見上げる。
「二人とも、今日も送ってくれてありがとう」
「当然だ。未だに自覚がないのだろうが、君は世界一美しく尊い。この世に蔓延る悪意から愛しい君を守る事こそ僕の存在意義だからな」
「っ!」
シエルは本当に躊躇いなく愛の言葉を紡ぐ。
それはきっと、彼の深い後悔がそうさせるのだろう。
私ではなく元の世界のセレナに向けられた言葉だと分かっていても、ノエルと同じ顔で、声で囁かれると、つい心臓が跳ねてしまう。
違う違う、勘違いしてはダメだ。
「おまっ……!? ぼ、僕と同じ顔でそんな軽薄な言葉を吐くんじゃない!」
「ハッ、お前はそんなんだから駄目なんだ。全く……僕も昔はこんな意気地なしだったのかと思うとゾッとするな。愛する女性へ想いの一つも言葉に出来ないなんて、生きてる価値はあるのか?」
「だ、だから! そういう話じゃないと何度言えば……!!」
「ちょ、ちょっと二人とも――ん?」
話が振り出しに戻りかけてズッコケそうになった、その時。
干からびたミミズでも見るような、何とも言えない目でノエルを見ていたシエルが、ふと視線を上げる。ノエルの口撃にも構わずなぜか路地の方を探るように見つめていて、珍しいその様子に私は思わず首を傾げた。
「? シエル、どうかした?」
「……いや、何でもない。それより、ほら。時間だよセレナ」
ニッコリ微笑んだシエルが、ポケットから懐中時計を取り出して見せる。見れば始業まで残り十五分ほどだった。
「あ、本当ね。それじゃ、いってきます」
「ああ、いってらっしゃい。気を付けて。仕事が終わる頃迎えに来るよ」
「……またな」
笑顔のシエルとブスッとしたノエルに見送られ、中へ入る。
一抹の寂しさを感じながら更衣室へ向かって歩いていると、既に支度を終えて診察の準備に取りかかっていたらしい看護師のルイーゼさんに声をかけられた。
「セレナちゃん、おはよう!」
「おはようございます。ルイーゼさん」
「うふふ、今日も仲良く出勤ね〜! おばちゃん羨ましいわぁ〜!! あんなイケメンに囲まれて、見てるだけの私まで女性ホルモンが出ちゃいそう! きゃっ!!」
「あ、あはは。そんな平和なものでは……?」
毎日舌戦を繰り広げてます、あの二人。
主にノエルが突っかかり、シエルがあしらっている形で。
「朝からあんなにアツアツだと仕事にも精が出るってもんよね〜! 今日もよろしくね、セレナ先生!」
「はい。準備してきますね」
そんな関係ではないんです……。
ルイーゼさんの言葉に密かに苦笑いを零し、頭を切り替えて廊下を進む。
魔王の討伐から半年が過ぎた現在では魔物達の活動も緩やかになってきていて、騎士や冒険者といったケガ人が運ばれて来ることも少なくなった。
そのぶん通院患者や急病人の対応に時間を割けるので、やっぱり平和ってありがたいなぁ……と、しみじみ思う。
長くて大変な旅だったけれど、頑張って良かったと思えるし誇らしく思う。それもこれも生きていてこそ感じられる喜びだ。
まあ、世界が平和になった途端に別の問題が発生したけれど……。それも、魔王が可愛く思えるほどの力を持った人物の出現によって。
乙女ゲームの世界はやはり、常に問題を抱えている状態がデフォルトなのだろうか? なんと厄介な世界なのだろう。まあ、今となってはそんなところも愛おしかったりするのだけれど。
今日も頑張るぞと気合いを入れた私は、意気揚々と更衣室の扉を開けたのだった。
◆
セレナを無事に職場へ送り届けた俺は、びーぴーと鬱陶しいもう一人の自分を転移魔法で強引に城へ送り返すと、周囲の様子を窺った。
セレナの勤める病院の周辺は、割と治安が良い。
主に平民出の騎士のケガ人も受け入れている関係で、積極的に近辺の見回りを行ってくれているからだそうだ。これまでセレナが一人で通っていた事からも分かる通り、女性一人でも昼夜を問わず歩けるほどに。
今も既に何人かの女性が病院の前を通り過ぎて行った。
長閑な朝の風景そのものだ。
しかし、そんな場所でも一、二本道を外れただけで危険が潜んでいる。特に大きな建物の影になる狭くて薄暗い路地には。
気配を感じた路地へ視線を向けていると、ヒラヒラと舞うように蝶がやって来る。俺にしか見えないそれを指先に停めれば、求めていた情報が自然と流れ込んできた。
「なるほど、今夜か。……その前に家事を済ませておこう」
認識阻害の魔法をかけた蝶を、路地へ向けて再び放つ。飛び立った蝶はあっという間に景色に溶け込み、見えなくなった。
◇
洋燈の灯りが唯一の光源である、仄暗い馬車の中。
そこで男女が膝を突き合わせ密談をしていた。
「あの病院に勤めている、水色の髪の女で間違いないですね?」
「ええ、そう。平民にしてはまだ見られる容姿だから分かったでしょう?」
「確かに。本当に、捕らえた後は好きにしていいんですね?」
「ええ。身内で輪姦すにしろ売るにしろ、好きにしたらいいわ。……ただし、二度と日の下には出て来られないようになさい」
「元よりそのつもりですよ。だからこそ我々へご依頼をなさったのでしょう」
下卑た笑みを浮かべながら、全身黒尽くめの男は身なりの良い相手に貰った前金らしき袋を懐へしまう。
ジャラジャラと音を立てたそれは、相当な金額が入っているであろう事を想像させた。
忍ぶ気があるのか無いのか。色こそ青と控え目であるものの、装飾が派手なドレスに身を包んだ女も、つられたように笑う。
「人の忠告を無視したのだから、自業自得よねえ……? 美しい花に集る害虫は早めに駆除をしないと。ふふ」
扇子で口元を隠しほくそ笑む女を他所に、用が済んだらしい男は懐から懐中時計を取り出し、時刻を確認して腰を上げる。
「それでは、そろそろ予定時刻なので仕事へ向かうとしますよ」
「ええ、しっかりお願いね。失敗なんてしたら只じゃ済まないことを覚えておきなさい」
そうして、男が扉へ手をかけた瞬間。
俺は魔法を発動させた。
「――がッ!? な、なんだ、これは……!?」
「ぅ、ぐ……何なの、これ……!? お前、何をしたのッ……!!」
「お、俺じゃありませんよ……!」
突如、見えない壁に押し潰されたかのように身動きの取れなくなった二人は、血相を変えてもがく。
その様子はさながら地を這う虫のようで、透視魔法で内部を確認していた俺は冷笑してしまう。
女が視線で射殺さんばかりに男を睨み付けた、その時。
「お前以外に、誰がやったと――ひっ!?」
男の隣へ転移した俺の存在に気付き、女は短い悲鳴を上げた。
俺は構う事なく悠々と席に腰を下ろす。無様に座席へ這いつくばる虫共を見下ろして。
これは【重力】魔法による拘束だ。
この世界にはまだ存在しないはずの魔法であるため、何が起きたのか理解出来ずとも仕方ない。
死なれては困るため身動きが取れなくなる程度の威力に抑えているが、こいつらを恐怖と混乱の渦へ突き落とすには十分だったらしい。
「だ、誰なの、お前ッ……!!」
「クソがっ……何が目的だ……!」
元より正体を隠すつもりはない。
深く被っていたフードを払うと、
「ノ、ノエル、様……!?」
「……はっ? ノエルって、あの……?」
ノエルの婚約者を語るだけあって、流石に気付いたらしい。
女は化粧でキツい印象の強調された目を見開き、驚愕を顕にする。
と同時に真紅の瞳に熱が灯り、絡み付くようなその視線に辟易した。
「あ、あのぅ、ノエル様? なぜ、ここに……? いえ、それよりも……ど、どうやって……?」
「知る必要があるか?」
仕方なく、それでいて厭悪感を隠す事なく視線を向ければ、女は息を呑んだ。
「ッ! ……い、いえ、それは……」
「全く、お前のような害虫の所為で折角の気分が台無しだ。漸く一日中セレナの事だけを考えていられる環境へ有り付けたというのに……」
「な、にを……言って……」
「まあ、美しい花には虫が集るものだからな。――だろう?」
「ぇ、」
言葉を反芻してやれば、会話が筒抜けであった事を悟った女が盛大に頬を引き攣らせた。
セレナの勤める病院の近くに停められた馬車。
お忍び用である一見質素なそれは、大抵の人間が意識を留めるほどの物ではない。しかし、中は十分な金をかけて造られた物で貴族のお嬢様でも快適に過ごせる環境だ。
悪趣味な事に、多少の危険を犯してでも獲物が狩られる瞬間を見届けるために足を運んだのだろう。まさか自分が狩られる側になるとは露ほども思わずに。
本当に、この手の輩は愚かで面白い。
「さて、セレナが仕事を終えるまであまり時間もないからな。害虫をどう駆除するか。……ああ、こっちはどう処理しても問題ないな」
言って視線を向ければ、床に這い蹲っていた男は恐怖で顔を歪ませる。
聞くに堪えない命乞いをされる前に、パチンと軽く指を鳴らせば、視界から漸く大きな害虫が一匹消えた。
同時に女が「ひっ!」と短い悲鳴を上げた。
朝、接触した蝶の召喚魔は今の男に付けていたものだった。
連中はいわゆる裏社会の何でも屋を生業としていて、強盗誘拐殺人と相応の金さえ貰えれば何でもやるらしい。
セレナにさえ近付かなければ放っておいたが、こうなると話は別だ。
特定したアジトには先刻乗り込み、魔物を帰した世界と同じ世界へ放り込んでおいたため、今頃は全員仲良く魔物の腹の中だろう。
「ぁ、え……?」
女が呆けたように男の姿を探す。
世界の移動は一方通行と、俺は言った。
あれは半分正しく、半分偽りだった。
人や魔物など俺の魔力の範囲内で移動が可能なモノなら、これまでに俺が行った事のある世界に限り自由自在に行き来させられる。
だから魔物を送り帰す事も出来たし、害虫を人間の滅んだ世界へ送る事も可能だった。
純粋なセレナやリリィは俺の言葉を信じたようだったが、王族として権謀術数に長けたセドリックは恐らく信じていないだろう。
証拠がないから静観しているに過ぎず、確実に警戒はしている。
とは言え、俺自身が戻れない事は事実である。
世界を移動するには、自身の魔力量以上のエネルギーが必要となるからだ。
研究の過程で何度も自分の体を実験に使った影響により、俺の魔力は質、量共にとうの昔に人間のそれから逸脱している。
そのため俺自身が世界を移動するには、並大抵の魔力では足りない。それこそ、王家の所有する【女神の涙】――今や世界にたった一つの巨大な魔石でも使用しない限り。
その貴重な魔石を使ってセレナの存在しない世界へ戻る意味はない。仮に移動をするとすれば、更なる別世界へ行くという選択肢だけだ。
だから、世界の移動は一方通行。
正しくもないが間違ってもいなかった。
「問題はこっちか……。喜べ、身の程も弁えずにセレナを狙ったお前には地獄を見せてやる」
「ひぅ……ぁ……」
漸く自分の末路が想像出来たのか。
女の呼吸が乱れ、体はガタガタと震える。
男達の処理はあくまでもついで。
依頼主であるこの女にこそ地獄を味わわせなければならない。二度とセレナに害意など持てないように。
ここは、俺が何万回もの移動を繰り返した末に漸く見付けた世界だ。この世界がどれだけ奇跡的な運命の元にあるか、他の奴らには一生解らないだろう。
そもそも、セレナがあの日を自力で生き抜いた世界はこれまでに一つもなかった。どの世界でもセレナはあの日に死んでいて、俺はその事実を知る度に絶望した。
最初の頃は移動を終えると直ぐに自分の足でセレナを迎えに行った。今度こそセレナが生きているかも知れないと、希望に胸を踊らせて。
しかし、それも千を超えた辺りで止めた。
毎回あの孤児院で告げられるセレナの死に、耐えられなくなったから。
だから俺は、手っ取り早くセレナの生死を知るために国を脅迫する事にした。
セレナが生きていれば至上。
仮に駄目だったとしても、此方の要求で向こうが慌てふためいている間に容易く女神の涙を奪う事が出来たから。
それで次から次へと移動を繰り返せば、いつかはあの日を生き抜いたセレナに会えるだろうと信じていた。
誤算だったのは、相当数の世界でわざわざ偽物を用意された事だ。
想像以上に精神をやられた結果、漸く出会えたセレナに酷い態度を取ってしまった。
いないのならいないと、そう言えば良いのに。
偽装魔法でわざわざ偽物のセレナを用意してまで自分達は助かろうとする愚かさが許せず、偽物を用意した世界の連中は皆殺しにしてきた。
勿論、そんな愚策を止めなかったセドリックやリリィ達も含めてだ。その頃にはもうセレナ以外の人間に対する情も興味も失せていたから、忌避感はまるでなかった。
魔物に切り裂かれ、噛み千切られ、踏み潰されようと、いっそ清々した。
どの世界へ行ってものうのうと生きている奴らなど、何度消したところで構わない。俺に必要なのはセレナだけなのだから。
そうしてやっとの思いで見付けた理想郷。
セレナは優しく、思慮深い。恐らく俺に期待させないようにと、前世の記憶を持つ自分は俺の求めるセレナとは異なるだろうと言った。
確かに、俺の愛したセレナと全く同じセレナは何処を探してもいないのだろう。
しかし、彼女は知らないだけだ。自分がどれだけ俺の愛したセレナと同じ道を歩んでいるのかを。
そもそも俺は、選択肢の一つも違わずに全く同じ人生を歩んできたセレナを求めているわけではない。
セレナを死の運命から救おうとした最初の数年こそ、元の世界の――俺の愛したセレナでなければ意味がないと躍起になっていた事もある。
しかし、俺の世界にいた転生者、マリウス――前世の名をヤスタカというらしいその男に並行世界の存在を教わってからは、元の世界のセレナに固執する事を止めた。
ほとんど同じ筋書きの世界であれば、ほぼ同一のセレナが存在する事を知ってしまったからだ。
流石の俺も性格が全く異なるセレナであれば受け入れ難かっただろうが、とうの昔に壊れた俺にとって、性格の同じセレナであれば多少の記憶違いは些末事でしかない。
この二週間で調べた結果、二人がほぼ同じ人生を辿っている事は分かっている。異なる点は調べきれなかった微々たる選択肢の違い程度のものだろう。
つまり彼女は、俺の愛するセレナそのものなのだ。
例え現時点でセレナの興味が俺になかったとしても、他の誰かと思い合っているとしても、これからゆっくりと時間をかけて堕とせばいい。
優しいセレナに、俺を突き放す事など出来やしないのだから――。
ああ、漸く再会出来た愛しい人。
人間如きに奪われてなるものか。
セレナを害するモノは全て排除する、徹底的に。
セレナには同居を始めたその日の内に、魔法を重ねがけしてある。
害意を持つ者の物理、魔法攻撃を弾く結界魔法。攻撃を受けた際に発動する反射魔法。結界魔法が働いた事を俺に知らせる察知魔法。セレナの位置を把握出来る追跡魔法。緊急時に発動出来るように仕込んである転移魔法。
どの魔法も本人は勿論、周囲に気付かれないよう隠蔽魔法をかけてあって、死の運命が相手でもない限りはセレナを守る事が可能だ。そのため、本当は俺自身が出るまでもない……が、セレナを狙った奴を許せるはずもない。
「の、ノエルさ――いッ!?」
悩んだ挙句、俺は無造作に女の頭を掴むと誓約魔法を使用した。
誓約魔法は施された者の体に紋様が刻まれる。バレて騒ぎになるのも面倒なので、髪でほぼ視認の出来ない頭皮に紋様を刻んでおいた。
仮にバレたところで解除は俺にしか出来ないが、誓約魔法だと露見してセドリックに突っ込まれるのも面倒だ。セレナが生きているこの世界で、セドリック達を消すわけにはいかない。
セレナがセレナで在るために、彼女を形作るモノを壊す訳にはいかないから。
「ぃ、いやっ……ノエルさま……。ご、ごめん、なさい……ゆるして……! もう二度と、あの女には関わりませんから……!!」
自分が何をされたのか分からないからだろう。
まるで死人のように色を無くした女に、俺は笑顔で答える。
「――いいや? 絶対に許さない」
決して簡単に殺しはしない。
自ら死を選ぶその時まで、精々無様に足掻き続けろ。
「死にたくなければよく聞け。今、お前に誓約魔法をかけた。今後お前は――」
◇
定時を少し過ぎた頃。
仕事を終えた私が職員用の裏口から出ると、少し離れたところに壁へもたれて本を読むシエルがいた。
かなり集中しているのか、こちらに気付く気配はない。
いつもならシエルの方が先に気付いているのにと珍しく思いつつ、静かに歩み寄りながら彼を観察する。
朝もかけていた黒縁眼鏡は変装用の魔道具なのだが、読書をする彼にはそれがまた様になっていて、つい見惚れてしまう。
裏口は正面玄関より暗いこともあって、パッと見では髪や瞳の色の違いも分からない。
だから、まるでノエルが迎えに来てくれたみたいに思えて――ついこの間まで思い描いていた夢が現実になったかのような錯覚を起こす。
平凡で、ささやかで、しかしとても幸せな未来。
もう、そんな日は永遠に来ないけれど……。
「お疲れ、セレナ」
「シエル。今日も迎えに来てくれてありがとう」
私の視線に気付いたシエルが本を【亜空間収納】へしまって、笑顔でこちらへやって来る。
「当然だ、僕が好きでやってるんだから。それより、今日はどうする? 疲れているなら転移で戻れるが」
「ううん、大丈夫よ。天気も良いから歩いて帰りましょう」
「分かった」
シエルと二人、並んで帰路を辿る。
この世界で暮らし始めて二週間。シエルは今のところ仕事に就いていない。
恐らくこの世界の人間は誰一人敵わないであろう、知識と技術、そして魔力量を持つ彼。
その才能を考えれば引く手数多で、実際にセドリックからも各所方面へ勧誘されていたりするのだけれど、シエルはその全てを断っている。
理由は言うまでなく、私の側にいるためだ。
いずれは新たな魔道具や魔法の開発なら協力してもいいが、当面は私との時間に当てたいのだと言っている。
何でも、元いた世界も含めて数々の世界で稼いだこともあってお金には困っていない――どころか、私が今直ぐに仕事を辞めても二人で一生悠々自適に暮らせる程度には財産があるのだそう。
だから、仕事以外の時間はずっとシエルと一緒。
休日に家でゴロゴロする時も、ちょっとそこまで買い物へ行く時も、孤児院へ顔を出す時も、全て。
リリィを除く仲間達には「それ鬱陶しくない?」と聞かれるし、ノエルに至ってはここぞとばかりに別居を勧めてくるのだけれど。
孤児院育ちの私やリリィからすると慣れたもので、どこへ行くにもくっ付いてくる姿が寧ろ可愛かったりする。子供のような、犬のような……有り体に言って母性をくすぐられるというか。
孤児院ではそれが日常だったからね。つい懐かしい気分になる。
まあ、子供のようだと言うと流石のシエルも拗ねるかもしれないので、言わないけれど。でも、そんなことでシエルが満足してくれるのなら易いものだった。
とは言え、朝の苦手なノエルがわざわざ通い詰めてまで別居を勧める理由は他にある。
それは、目に見えて歪んだシエルの性格故だ。
私といる時はいたって普通――どころか、ノエルより余程ニコニコしていて感情の起伏がある印象を受けるし、実際、ご近所さんや贔屓の食料品店では好青年と評判なのだが……どうやら私に関係のないところでは全く違うらしい。
セドリックが仕事の誘いに行った時も。
ノエルが私の仕事中に説得へ行った時も。
リリィが様子を見に行った時でさえも。
ここではない何処かを見るような仄暗い瞳と、感情が抜け落ちたような表情。そして、温度を感じないその声は、二週間前のあの日に平原で対峙した時の彼そのものだったという。
しかし、私への態度はまさに溺愛とでも言うべきもので。
私が隣にいる時は第三者へもごく普通に接することもあり、その落差故にノエル達が警戒をするのも無理はなかった。
私だって、彼が病んで――歪んでいることには気付いている。だからこそ、誰に何と言われようとシエルを放り出すわけにはいかないのだ。
彼を歪めてしまった原因は私なのだから。
「今日の晩ご飯だけど、煮込みハンバーグにしてみたんだ。セレナ好きだったよな?」
「わあ、本当? 煮込みハンバーグ大好きよ! 本当に毎日ありがとう」
「君に喜んでもらえる事が僕の幸せだからな、君のためなら何だってやるさ。明日の晩は何にしようか」
「ふふ、今から考えるの?」
そんな風に何かにつけて心配される私達の同居だが、シエルとの生活は良い面もたくさんある。
時間に余裕があるからとシエルが家事の一切を請け負ってくれているお陰で、私は人生一健康で快適な生活を送れていたりする。
料理に掃除、洗濯、買い出し、その他名前のない家事も含めてシエルは完璧にこなしてくれるのだ。
お陰でこれまでになく仕事に集中出来ているから、他の先生方にも負担が減ったと喜ばれたほどで、何かもうシエルが良妻すぎて怖い。
いわく、長いこと一人で旅を続けていたから、何でも自分で出来るようになったのだそう。
そんな副産物もセレナのためになっているのなら本望だと、私以外には見せないとびきりの笑顔で言うのだから、ちょっと――いや、かなり困る。
だって、ノエルと同じ顔で、声で紡がれるその言葉や愛情が、私に向けられているような錯覚に陥ってしまうから。
本当に明日の献立を考えているらしいシエルの横顔を眺めていると、
「ん? どうした?」
「――ううん。明日はビーフシチューがいいなって」
「ああ、そう言えばセレナ……と、リリィは、ビーフシチューも好きだよな。野営の時もビーフシチューが出るとセドリックやアーク並みに食べて、」
「その思い出も同じなの!? それは忘れていいから、もうっ!」
私が笑うと、シエルはとても嬉しそうに笑う。
そんな表情を見る度に、私の胸中で相反する感情がせめぎ合うのだ。
罪悪感と好意。
私はこの二週間で嫌というほど思い知らされた。やはりこの人は、私が大好きなノエルと根底はまるで同じなのだということに。
そうして少しずつ、心惹かれている事実に。
最初はただただシエルを救いたくて、償いたくて言い出したことのはずだった。彼の愛した私が全く同じ人格ではなかったとしても、私に縛られたシエルを見て見ぬ振りなど出来なくて。
同一人物だけれど、二人は別人。
私が好きなのはノエルで、シエルではない。
シエルが好きなのも元の世界のセレナであって、私ではない。
分かっていたのに――。
そんなことを考えていた時だ。
「っあ、」
シエルに気を取られていた私は、石畳みの溝に足を引っ掛けてあわや転びそうになった。突如襲ってきた浮遊感に、胃が縮むような心地になる。
しかし、
「――おっと。大丈夫か?」
「あ、ありがとう……」
横からサッと伸びて来たシエルの腕に支えられ、私は事なきを得た。
小さな、それでいて侮れない死の気配にバクバクする胸を押さえながら答える。
「やっぱり、疲れてるなら転移で帰ろう。君は僕の魔力残量を気にして転移を控えているようだけれど、あの程度の魔法は呼吸にも等しいから何回使おうが全く問題はない。寧ろ君の疲労が増す事の方が圧倒的に問題で、」
「だ、大丈夫よ! ちょっとよそ見をしてただけだから! 貴方とお散歩がてら帰りたいの!」
「なら、良いんだが……」
魔道士にも関わらず想像以上に逞しいその腕は、私が自立をすることで直ぐに離れていく。シエルの提案を辛くも断ると、私達は再び歩き出した。
積りに積もった想いを解放するように、行動でも言葉でもこれ以上ないくらいに愛情を表現してくれるシエルだが……実のところ、決して必要以上に触れようとはしない。
シエルがこの世界に来たあの日。
子供のように縋り付いて泣いたあの時以降、今のように私がピンチにでも陥らない限り、シエルに触れられたことは一度もないのだ。
だからノエルが心配するようなことは、本当に、全く起きていない。同じ屋根の下に成人済みの男女二人で住んでいるとは思えないほど、健全な生活を送っている。
たぶん、普通に気を遣ってくれているのだとは思うのだが……正直なところはどうなのだろう。
同居に際して私は、そういう意味でも覚悟を決めていた。
いや、まあ、ちょっと自意識過剰かなとも思わないでもないのだけれど、シエルの執着を肌で感じて、そういう可能性を考慮しないほど私は子供でも純粋でもないから。
なんせ人生二度目だしね。
まあ、かなり短めだった一度目の人生も、大した恋愛経験があるわけではないんだけれど。
しかしまあ、現状このように肩透かしを食らっているわけで、私は密かに混乱していたりする。だってこれでは私、本当に大事にされているだけなんだもの。
シエルがあんなにも泣きじゃくるほど辛い思いをしたのは、私のせいだ。
何度も何度も私の死を目の当たりにして、時を遡って、必死に運命に抗って――世界だって何度渡ったのか分からない。
己の運命を憎み、悲しみ、怒り、呪ったこともあっただろう。もちろん、その元凶である私のことも。矛盾しているが、それこそ殺してやりたいと思ったことさえあるのではないだろうか。
だからこそ、彼にどんな扱いを受けても耐えるつもりでいた。と言ってもそれは後ろ向きな意味ではなく、前向きな意味で。
一治癒士として、きっと彼の心を癒してみせるという覚悟の表れ。だったのだけれど。
「……確かに、散歩日和だ。ついセレナに見惚れていたから気づかなかったけれど、見事な月だな」
「ええ、本当に。明日は研究職の人達も仕事が捗りそうね」
「月光が必要な材料が結構あるからな。……ふっ、はは、」
「な、なに? 変なこと言った?」
「いや。セレナはやっぱりセレナだなと思って、愛おしくなっただけだ」
「! っ、もう!」
言葉を交わす度にサラリと好意を口にされて、反応に困る。
しかし、こうして少しずつシエルの視界が広がって――いや、本来の広さを取り戻していくのは素直に嬉しい。私という名の鎖が少しずつ解けていくような、そんな気がするから。
「月が綺麗だな、セレナ」
「! ……そうね。とても綺麗だわ」
一瞬、心臓が跳ねた。
前世では割と定番な告白の言葉だったそれも、この世界では言葉以上の意味を成さない。それでも、月を美しいと思うその心が彼に残っていることを、喜ばしく思う。
いつの日か呪縛から彼が解き放たれる、その時まで。私は隣で彼を守り続けよう。