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「セレナ、緊張しているかい?」
少し暑いくらいの日差しが降り注ぐ中、爽やかな風が吹き抜ける美しいイリニクス平原。そのど真ん中を、私達は馬で駆けていた。
隊列の真ん中で緊張から無言で手綱を操っていた私の横へ、馬を並走させたセドリックが問う。
チラとセドリックを見て、苦笑いを零し答えた。
「少しね。……理由が分からないのが怖いわ」
「ああ、そうだね。あちらが聖女でも勇者でもなく、君を指名した理由……そこさえ分かればもう少し対策のしようもあったのだけれど」
全くだ。
セドリックの手配のお陰で役立ちそうな物資を掻き集めて持ってきたし、私達自身も魔王戦時に身に付けていた世界最高峰の武具を装備してきた。
しかし、相手の目的が分からない以上、いざという時にこれらで対処しきれるのか分からない。
「何にせよ、私達が君の事を必ず守るよ。大事な仲間なのだから」
「ありがとう。……けれど、いざという時はさっき話した通りにお願いね、セドリック」
「……もしもの時は、ね」
今、私と共に魔物の元へ向かっているのは、リリィとセドリック――そして、ノエルを含め王都に残っていた魔王戦メンバーが数名。さらに、騎士団の中でも取り分け優秀な十数名が同行してくれている。
即席パーティーにしてはこの上なく心強いメンバーだ。
しかし、相手の目的が分からない上に魔物の大群がひしめく敵陣へ向かうのだから、圧倒的にこちらの分が悪い。
もしも交渉が決裂して戦闘に突入するようなことになれば、いくら優秀な面子とは言えこちらはあっという間に全滅してしまうだろう。
そのためセドリックには、いざとなったら私が敵を足止めしている間にリリィ達を連れて逃げるよう頼んである。
セドリックの指示で集められた物資の中には、ノエルの手製である転移魔法の付与された貴重な魔道具があるのだ。それを使えば複数人を王都へ転移させることができる。
こんなところで王太子であるセドリックや聖女のリリィ、そして将来有望なノエルを失うわけにはいかないから。
もちろんリリィには内緒だけれど。
そう考えていると、
「ところでセレナ。ノエルと何かあったのかい?」
「!? な、なに? こんな時に」
「ふふ、こんな時だからこそさ。いやね、先程何となく二人がぎくしゃくしているように見受けられたものだから」
流石は王太子であるセドリック。
周囲をよく見ているなと何時もながらに感心してしまう。まあ、今回に限ってはあまり気付いて欲しくなかったけれど……。
つい先程、私は必要に迫られてノエルと話す機会があった。
ノエル達が掻き集めてきた、いざという時のための魔道具や回復薬などを譲り受けていたのだ。
無視したことには何か理由があったのかもしれない。
貴族の女性が話していたことだって、彼女の一方的な思い込みかもしれない。
そんな愚かしくも淡い期待で自分を奮い立たせた私は、あくまでもいつも通りに接しようとノエルに笑いかけたのだ。
しかし、ノエルの態度は先日通りだった。
支給品の説明を淡々とこなし、私が目を見て礼を告げると苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、さっさと何処かへ行ってしまった。
そんな態度を取られることなど初めてで、やっぱりショックで。けれど、呆ける時間もなく直ぐに騎士から声をかけられた私は何とか平常心を保てたのだった。
まあ、自分の身に危険が迫っているのだからそれどころではなかったという点も大きいけれど。
「気のせいだと思うわ。――それより、ほら。もう直ぐよ」
「……だね」
私達がお喋りをしている間にも優秀な軍馬達は敵陣との距離をぐんぐん縮めてくれていて、平原を埋め尽くす魔物の大群の先頭はもう目と鼻の先である。
いつ何時なにが起きてもおかしくはない距離だ。
もう悠長にお喋りをしてはいられない。
セドリックは「後でちゃんと話を聞くからね?」と言い残し、先頭を駆ける騎士の元へ向かった。
私は一先ず逃げ切れたことにホッと胸を撫で下ろしつつ、改めて前方に見える魔物の大群を眺める。
出発前、街の城壁から平原を眺めた時でさえ十分すぎる衝撃を受けたが、いざその大群を前にすると恐怖を通り越していっそ笑えてくる。
私達は魔王討伐へ向かう旅の中で、数え切れないほどの戦闘をこなしてきた。
しかし、一度に対峙した数でもっとも多かった時でさえ数千だったはずだ。それも、他の冒険者達がいた上での戦闘で、だ。一パーティーで数万を相手どるなど論外である。流石の勇者や魔道士でさえ、こんな数を捌ききれるはずもなかった。
もちろん、戦闘にならなければそんな心配は杞憂である。
上の目論み通り私が犠牲になることで、魔物達――ひいてはその統率者が満足してくれれば犠牲は最小限で済む。
しかし、こんな脅しをかけてくる相手だ、穏便に済むと考えるのはあまりに希望的観測だろう。
やはり私は覚悟を決めなければならないらしい。
「……後で、か」
前方の光景に視線を縫い止めたまま、私はポツリと零す。
みんなで無事に王都へ戻ることが前提だとでも言うように――いや、必ずそうするのだという優しい決意。
その優しさが、今は少しばかり胸に痛い。
魔王戦を終えて平和になったと思った。これからはみんな、何に怯えることもなく幸せに暮らせるのだと。
せっかく魔王戦を生き抜いたというのに、神さまはなんて意地悪なのだろう……。
そうして、平原を駆けること数十分。
私達は魔物の大群から百メートルほど手前で止まった。
ここまで近付くと視界一杯に魔物が蠢いていて、平原の爽やかさなど微塵も感じられない。記憶にある魔王との決戦地より、よほど地獄に近い光景が広がっている。
「セレナ。絶っっっ対に私から離れないでね!!」
「……ええ、分かったわ」
リリィが隣へ来て馬上で腕を伸ばし、私の手を固く握る。
その小さく柔らかな手からは想像も出来ない力強さで「絶対に離さない」という気概が伝わり、私はつい顔を綻ばせた。
それも束の間。
「そちらの要求通り、セレナを連れて来た! 彼女を害するつもりがないのであれば対面させよう!」
セドリックが魔物の大群へ向かって声を張り上げた。
一見、魔物の大群、その先頭に統率者と思しき者は見当たらない。こちらから視認できるのは、旅路でも見かけたことのあるA〜Eランク程度の魔物達だ。まるでこちらの出方を伺うように、大人しくその場に佇んでいる。
恐らく統率者は蠢く魔物の中に紛れ、指示を出しているのだろう。
一方、私の方も一目で特定されないように姿を隠している。
私とリリィ、そして女性騎士と、この場には合わせて五名の女性がいる。馬上にいるため個々の体格が分かり辛い上、みな揃いの認識阻害魔法のかけられたマントを羽織って顔まで隠している。一見 どれが私かは分からないだろう。
さて、この状況であちらはどう出るのか――。
そう考えた時だった。
「!」
真っ青な空だけが広がっていた上空、そこへ、まるで墨でも零したかのような真っ黒な何かが現れた。
目を凝らして見ると、ボロボロの黒いマントをたなびかせた人らしきシルエットが確認できる。あれこそが魔物達の統率者なのだろう。
その人物はゆっくりと私達と魔物の間へ降りて来て、柔らかな草原の上へ着地する。ふわりと風が舞って、私達のマントが微かに揺れた。
瞬間、自陣に強烈な緊張が走った。
この場にいる実力者ならみな分かるはずだ。たった今この人物が放った、恐るべき魔力量が。
仲間内で一、二を争う魔力量を誇るリリィとノエルでさえ、この人物の足元にも及ばない。それほどまでに明らかな格の違いだった。
「っ……!!」
僕であるはずの魔物達でさえその魔力に圧倒されてしまい息を潜め、先程までざわめいていたはずの平原に不気味な静寂が訪れる。
不意に訪れたあまりの静けさに、私の前にいる女性騎士がゴクリと喉を鳴らした音がハッキリと聞き取れた。
私の背筋にも冷や汗が伝う。繋いだままのリリィの手が微かに震えていた。
「――お前が、魔物達を率いる者か。何故、我が友セレナを狙う?」
流石は王太子。
セドリックがいつもの穏やかな調子で問いかける。
しかし、圧倒的な存在を前にして身構えるなという方が無理な話だ。セドリックや先頭の騎士達はいつでも抜刀できるよう、腰の剣に片手を添えていた。
人型の魔物は総じて知能が高い。
セドリックの問いに何と答えるのかと固唾を飲んで見守っていると、統率者はぽつりと答えた。
「……答える義理はない」
その声は抑揚のない、感情が抜け落ちたような声調で、相手の感情を推し量ることができない。前魔王ですら、もっと感情の起伏が分かる人間らしい声調をしていたけれど……。
「ならば対面させられないな。例え、この場に集う全ての魔物をけしかけられようと、彼女は安全な場所へ逃すよ。勇者の称号を持つ者としてその程度の時間稼ぎはしてみせよう」
あちらも認識阻害の魔法を使用しているのか、フードの奥に隠された統率者の表情を伺うことはできない。
しかし、セドリックの覇気と覚悟が伝わったのか。統率者は溜息を一つ零し、
「……本物のセレナであれば傷付けないと誓う」
気怠そうにそう告げると不意に宙へ手を翳し、自身へ向けて魔法を使用した。
「「!」」
瞬間、浮かび上がった魔法陣を見た私とリリィはハッと息を呑んだ。
魔法に精通した者であれば、使用時に現れる魔法陣の模様から相手が使用した魔法が分かる。たった今統率者が使用した魔法は【誓約魔法】だった。
誓約魔法は現代において禁忌とされる魔法の一つ。
そもそも莫大な魔力を要することから誰にでも使える魔法ではないものの、誓約魔法をかけられた者は誓いを破ると死に至るという恐るべき効果を持つ。
私とリリィは乙女ゲームの都合上、学生時代に偶然知ってしまったのだけれど、禁忌とされるその存在を知る者はほぼいない。
私達と、王城の関係者を除いては。
そんな魔法をわざわざ自分に使用して見せたのだ、私を害する気がないという言葉は本気なのだろう。
ただ、私を指名した理由に関しては益々謎が深まったけれど。
命を懸けてまで私に会う理由とは?
統率者の言う本物のセレナとは?
それに――。
「……セレナ、君はここまで来ただけで十分務めを果たした。無理をしなくていい」
セドリックにも誓約魔法が分かったのだろう。少しだけ険の取れた声調でそう告げられた。
しかし、だからといって相手を信用できるはずもない。
あの誓約では魔物ならば私を傷付けることが可能だし、統率者自身もリリィ達を害することは可能なのだから。
仲間思いのセドリックは言外に、怖ければ退いていいと、逃げていいとそう言ってくれる。リリィも私の手を固く握ったまま、フードの奥から心配そうに見つめてくる。
魔王戦の仲間や騎士達も同様だ。
みな気概のある人達だから、私一人が犠牲になればいいとは思っていないのだろう。案ずるような気配を向けられて、その優しさで私は十分だった。
この人達のためなら命を賭けてもおしくはない。
私は僅かな逡巡を経てリリィの手を優しく解くと、軍馬の頭を一撫でしてから手綱を操り前へ進み出る。先頭のセドリック達を越え、統率者の数メートル手前で止まり、馬から降りた。
「私がセレナです」
「……」
「これで、貴方の要求は満たされたはず。魔物を退けていただけませんか?」
目深く被っていたフードを払って顔を日のもとに晒すと、後ろで束ねていた水色の髪がサラリと前へ零れる。それを後ろへ払って、私より大きい――けれど、どこか馴染み深い高さにある統率者の顔を見つめた。
認識阻害の魔法か、フードの中には闇が広がっているように見えて、その表情を窺い知ることはできない。
だというのに、なぜだろう。何となく目が合っているような気がして、私は目を逸らすことなく闇を見つめ続けた。
手に汗を握りながら。
「……見事だな」
「?」
「毎度毎度、よくここまで似せられるものだ」
不意に統率者がそう零した。
私にはその言葉の意味が分からず、自ずと首を傾げる。
「それは、どういう……?」
「ハッ。正直に話せばさっさと立ち去ってやるのに、偽者を仕立て上げてでも自分達は助かりたいのか……。つくづく、人間は塵以下だな。――セレナ以外」
「! ……貴方、」
徐に手を突き出した統率者が、その掌に魔力を集め始める。
「遊びは終わりだ。――真の姿を現せ」
「!?」
あっという間に魔力が集い、止める間もなく魔法が放たれる。
瞬間、膨大な魔力が私を包み込んだ。
「きゃっ、」
「「「セレナっ!!」」」
誓約魔法を使用したとは言え、害する手段がないわけではないのだ。リリィ達の焦ったような声に、私は最悪の事態を思い描く。
魔法陣を確認する間もなく反射的に目を瞑ってしまったため、どんな魔法が使われたのかは分からない。けれど、せめて痛くないといいなと願いながら、私は身を固くしたまま時が過ぎるのを待った。
「……?」
しかし。
待てど暮らせど何も起こらない。
大体の魔法は放った瞬間に効果が現れているはずなので、何か特別な魔法なのかもしれない。
そう思いつつ恐る恐る目を開けて確認してみたところ、私自身はもちろん、リリィ達の身にも何も起きていないようだった。訝しげに統率者を見つめるセドリックと、酷く安堵した様子のリリィを見て私も胸を撫で下ろす。
なぜだろう?
今、放出された魔力からして私に何かしらの魔法が使われたことは確かだ。念のためにと事前に結界を張ってはいたけれど、彼が込めた魔力は私の結界で防げるような生優しい力ではなかった。
事実、かなり念入りにかけていたはずの結界は跡形もなく消え去っている。
不発、だったのだろうか。
不思議に思って彼を見上げてみる。
「…………」
すると、彼は魔法を発動するために手を突き出した姿勢のまま、固まっていた。
本人にとっても予想外の結果だったのだろうか。
私が恐る恐る「あの、」と声をかけたところ、ハッと我に返った様子で、
「……あり得ない。そうか、余程強力な術を使っているな。魔道具の影響……? 俺の術を弾くか、小賢しい。ならば魔道具ごと全力で消してやる」
「っ、」
言うや否や彼が掌に再び魔力を集める。
その量は、私が感じ取れるだけでも先程の倍近くはあるだろう。
その人外――いや、魔王をも安易と凌ぐ魔力量に圧倒された私は、抵抗するどころか言葉を発することすらできず、恐怖から再び目を瞑り身を固くしてしまった。
……のだが。
「…………???」
やはり、何も起こらない。
放出された魔力が確かに私を包み込んだというのに。
予想外の展開に、私は拍子抜けしてしまう。恐々と竦めていた体を戻しつつ、一体どういうことなのかと目の前の彼を見上げる。
すると、先程同様暫し固まっていたらしい彼は、私の視線を受けてヨロヨロと数歩、後退った。
「馬鹿な……」
「ええと……?」
「……まさか、そんな」
片手で顔を覆い、震える声で呟く。
その様子からは驚愕と困惑が有り有りと見て取れた。
初めて垣間見えた人間らしい反応に、私の恐怖心が少しだけ和らぐ。
「本物、なのか……?」
「……あの、本物って、」
――どういう意味?
そう尋ねようとしたところ、彼がバッと勢い良く顔を上げた。
やはりフードの中には暗闇が広がっていて表情を窺い知ることはできないが、溢れる魔力からは困惑、それと同時に苛立ちのような荒々しさを感じる。
「いや、そんなはず……。どうせ偽物だ。そうに決まってる……!」
やけを起こしたかのように、彼が再び魔力を掌へ集める。
しかし、明らかに動揺している彼の魔力にはかなりの揺らぎがあって先程までの精密さを欠いており、あまり怖くない。
それよりも彼が何故動揺しているのかが気になって、今度こそ私は目を瞑ることなく彼の放つ魔法 ――その陣を視認することができた。
「消えろ、消えろ消えろ……ッ!! 醜い本性を顕せ!」
「! ……これは……」
宙に何度も現れては消える魔法陣。
私もよく知るその効果は――【解除】。
自身や仲間にかけられた状態異常やデバフ等を解消する支援魔法で、私の得意とするところでもある。
そんな魔法を、なぜ今?
もちろん、統率者の言葉からある程度の推測は成り立つのだけれど……果たしてそれが正しいのかどうか。
それに、何度も彼の魔力を浴びて漸く気付けた。
魔物のような荒く禍々しい魔力の奥底に、私もよく知る懐かしい魔力が隠れている。雪原の中にポツリとある、澄んだ湖のような清々しい魔力。
それは――
「何故! 何故化けの皮が剥がれない!? 今更……今更見つかる訳が……っ!!」
「私よ、ノエル。本物のセレナ」
「!!」
私の大好きな彼の魔力だった。
魔力にはそれぞれ個性がある。
それを感じることが出来る人間はそう多くはないけれど、仲間内ではノエルやリリィ、私は魔法職だけあってある程度判別することが出来る。
そうでなくとも、私がこの魔力を間違えるはずがない。
何度も私達の危機を救ってくれた、大好きな彼の魔力を。
例えば見た目は【偽装】の魔法で自在に変えることが出来るけれど、魔力の質は普通変えることが出来ない。
統率者――目の前の彼の魔力は変わってしまったわけではなく、巨大な別の魔力に覆われているだけだ。だからこそ、その奥底に懐かしい魔力を感じ取ることが出来た。
正直、これがどういう状況なのかは全く分かっていない。
ノエルは今、不測の事態に備えてリリィ達と後ろに控えているはずだし、さっき話した時も特に異変はなかったはずだ。
つまり、どう考えても今この場にはノエルが二人いることになる。
同一人物が二人。
それこそ普通に考えれば、どちらかが偽物ということになるのではないだろうか。
禍々しい魔力に包まれているとは言え、目の前の彼からは確かにノエルの魔力を感じる。
逆に後ろに控えているノエルの魔力は確かめたわけではないけれど、見た目は完全にいつものノエルだ。
とすると、考え得る可能性は――。
私は一先ず、混乱状態にある彼に【解除】をかける。落ち着いて私の魔力を感じ取ってもらうために。私が本物だと証明するために。
私の魔法を受けた彼は、ハッとした様子で動きを止めた。
そうしてフードの中の暗闇を真っ直ぐに私へ向ける。
「この、魔力は……。本当に……セレナ、なのか……?」
「そうよ。何度も何度も私の魔法を受けた貴方なら分かるでしょう?」
私が笑って懐かしむように言うと。
まるで統率者の心情を表すかのように【阻害】魔法が霧散して、フードの中に見慣れた綺麗な顔が現れた。
驚きに目を見開いた、見慣れた相貌。
二重だけれど、色も相俟って涼やかな印象の目。すっと通った鼻筋。引き結ばれた薄めの唇。研究一筋で美白を取り戻しつつある綺麗な肌。
確かにノエルだった。
もう、怖くない。そう思ったのも束の間――
「!」
とある事実に気付き、今度は私が目を見張った。
ノエルは髪が銀色で瞳は青色だ。
しかし、目の前の彼は顔の造りこそ同じであるものの、髪は真っ黒で青と紫のオッドアイ。まるで色が異なる。
単にフードの影でそう見えるわけではないようだ。
姿を偽る【偽装】魔法もあるから、あえて一部を変えている? 変装? ――そう思ったけれど、魔力のこともある。
正直、この場で答えを導き出すにはあまりに時間が足りなかった。
ほんの数秒思考に耽っていた私の元へ、統率者がフラフラと近付いて来る。その予期せぬ行動に思わず肩をビクつかせた私だったけれど、
「セ、レナ……会いたかった……ずっと……!」
「!」
「僕は、君に会う為に……ただ、もう一度、君に会いたくて……僕はッ……!!」
「ノエル……」
「セレナ……セレナセレナセレナ……ッ!! う、ぁ、あぁ……あああああああああああああああああああああああああッッッ……!!!!!」
統率者――ノエルは。
大きな体を丸めて跪くと、子供のように私の腰へ抱き着いて声を上げ、泣いた。
私は呆気に取られる。
こんなにも感情を剥き出しにした彼を見るのは、後にも先にもこれが初めてだ。悲鳴にも似たその叫びが、痛いほどに私の胸を締め付ける。
なんで、どうして。
そんなに悲しんでいるの?
何が貴方をこんなにも傷付けたの?
気付けば私も涙を零していたらしい。統率者の黒いフードに点々と染みを作っていた。
一体統率者の身に何が起きたのか。
なぜ、こんなにも私に固執しているのか。
……まるで分からない。
ただ一つ確かなことは、統率者は確かに私を求めていたことだけだった。
「セレナッ…………セレナ、セレナ……!!」
「……うん。ここにいるよ」
統率者は存在を確かめるように、私の体を掻き抱く。
そんな彼を落ち着かせるように、私はフード越しに頭を撫でる。ずっと触れてみたかった、彼の綺麗な髪。こんな形で触れることになるなんて思いもしなかった。
しかし、撫でれば撫でるほど彼の嗚咽は酷くなるばかりで。私は彼が泣き止むまでずっと、子供をあやすように優しく頭を撫で続けた。
そうして、どれだけ経った頃だろう。
さくさくと芝を踏み締めながらゆっくりとやって来たのは、セドリックとリリィだった。私はチラリと視線を遣って、
「……セドリック、ありがとう」
「何がだい?」
「何も、指示を出さないでいてくれて」
「それは当然だよ。だって、どういう訳か彼は――私の親友なのだから」
「……そうね」
どうやら仲間達も、彼の敵意は完全に消失と判断したのだろう。
あの痛哭を聞き、子供のように泣きじゃくる彼を見れば妥当な判断だと言える。
彼の姿をハッキリと確認した上で迷いなくそう言い切ったセドリックに、私は安堵の笑みを零した。
流石はセドリックだなぁと、こんな時まで感心してしまう。
やっぱり乙女ゲームのメインヒーローは器が違うなぁ。
けれど、何も分かっていない現状で当人同士を会わせるのは良くないと判断したのだろう。だからこそ、ノエルは後方で待機しているようだった。
これがどういうことなのか一番知りたいのは、きっとノエルのはずなのに。
後方で待機する仲間達へ、私がほんの少し意識を向けていたところ、リリィが統率者をチラと見て言った。
「セレナは……どうしたい? 私はセレナの味方だよ」
「リリィ、ありがとう。私は……」
私はここからどうしたいのか。
正直、分からない。頭の中がごちゃごちゃだ。
けれど、色々と確認するためには一先ず落ち着いて話がしたかった。国の偉い人達に邪魔をされることなく、私達だけでゆっくりと。
そう考えた私は、とうに脱力していた統率者の腕を優しく体から離すと、しゃがんで顔を覗き込だ。
俯いているため視線は合わなかったけれど、気にせず尋ねる。
「ノエル。一先ず落ち着いて話がしたいのだけれど……後ろの魔物達をどうにか出来ないかしら。戦わなくて済むのならそれに越したことはないし、元いた場所に帰すとか……」
犬猫じゃないんだから。と、自分で言っておいて思うけれど、仮にこれだけの数の魔物を倒すことになるとどれだけ時間がかかるか分からない。
それに、魔物達は統率者の指示に忠実なのか全く動く気配がないので、無抵抗な彼らを一方的に虐げるのは心苦しかった。
すると、力なく頷いたノエルが指をパチンと鳴らす。
瞬間、統率者の背後に控えていた万を超える大群が一瞬でその姿を消した。
「わっ!? ど、どこに行っちゃったの!? あの魔物達!」
「…………元の世界に、帰した」
「へっ? も、元の世界???」
リリィは水色の瞳をまん丸にして首を傾げる。
私も同じ気持ちだ。あまりに呆気なさすぎて、もしかして魔物の群勢は幻だったのではと思うほどに。
しかし、先ほどまで感じていた圧迫感は、間違いなく本物だった。本当に一瞬で、あの数の魔物達を転移させたのだろう。
「……まあ、魔物がいなくなったのなら今はそれで良いさ。それよりも問題なのは――どうやって魔物を消した事にするか、だね」
困ったように笑うセドリックに首を傾げていると、遠く、王都の方から『うぉおおおおおおおおおおおおおおおーーーーー!!!』という大歓声が聞こえてきた。
……ああ、すっかり忘れていた。
もしもの時に備えて、王都では臨戦態勢を取っていたのだ。城壁には籠城線に備えて弓や攻撃魔法といった遠距離戦の得意な騎士達が待機していたので、当然今の出来事も大勢が目撃していたはず。
とは言え、距離的に何が起こったのか詳細は分からないはずなので、彼らの目には魔物の大群が突如として消えた奇跡だけが事実として認識され――あの大歓声、というわけだ。
セドリックが苦笑いを零したわけも納得である。
「あ〜、えっと……聖女の御業?」
「はは、やっぱりそうなる?」
「聖女便利すぎじゃない!?」
「だって、ねえ? 他にないし……」
セドリック的にも統率者から話を聞くことが第一なのだろう。
いい感じに誤魔化さなければ統率者を騎士団へ連行しなくてはならなくなるため、摩訶不思議な力に溢れた聖女の御業は一番都合が良いのだ。
「よし、聖女の奇跡って事にしておこう。セレナの危機により再び進化したリリィの力で統率者も魔物も浄化されたって筋書きで」
「いいと思うわ」
「そうかなぁ!?」
変に現実味を持たせるより、摩訶不思議な力でどうにかなりましたって話の方が案外すんなりと納得されるものなのだ。
聖女の力なんてまさにそれの代表格だしね。
「で。この場に居る者に関しては問題ないから、後は何処で落ち着いて話をするかなんだけれど。流石に此処で話をするのは何だし、かと言ってこのまま連れて帰る訳にはいかないから……君、転移魔法を使えるんだよね?」
「……ああ」
「じゃ、それで街中に移動してもらって合流を……うーん、何処が良いかな?」
「……あ。私達の孤児院なら、場所分かるよね?」
「……ああ」
セドリックとリリィが阿吽の呼吸でスイスイと話を進めていく。
「ちょ、ちょっと待って。街に連れて行ってもいいの? その、私としてはありがたいけれど……」
一応この人は、魔物の大群を率いて国を脅かした張本人だ。
様子を見る限り彼はもう暴れたり抵抗したりはしないと思うけれど、自由自在に魔物を呼び出せる(?)人を、王都へ連れ込んでも良いのだろうか。
正直、何かあっても私程度の命では責任が取れない。
かと言ってセドリック達に押し付けたくもないし。
「? でも、ここで話すわけにはいかないでしょ?」
「セレナの言いたい事は良く解るけれど……もう大丈夫だと思うよ。君はセレナが居る限り暴れたりしない。だろう?」
「…………」
セドリックの言葉に統率者は力なく頷く。
そんな統率者を見てセドリックは微笑んだ。
「それに、転移魔法を使えるなら放っておいても勝手に入って来るだろうしね。君を追って」
「た、確かに……」
言われて納得。考えるだけ無駄だったわ。
そんなわけで私達は諸々の処理を終えた後、ヘスティア孤児院で合流することになった。