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ドアノブの無いトイレ

作者: まさかす

 人は想像出来るだろうか。そこにあるはずの物が無い事を想像できるだろうか。「トイレに行ってくる」と、そんな一言が最後の言葉になりかけるなんて事を、果たして想像出来るだろうか。


  ◇


 貸切と書かれた数台のバスが、未だ目覚めぬ早朝の市街地を駆け抜けてゆく。そのバスに乗車するは、詰襟やセーラー服を身に纏った中学生御一行。一般的にクラスメートで構成された車内であれば、和気藹藹(わきあいあい)とした雰囲気で賑やかな車内を想像するが、そのバスの車内は想像に反し、あたかも乗り合いバスの如く静まり返っていた。それは課外授業へと向かう為に早朝からの行動を強いられたという事もあり、項垂れるようにして眠る者、そして頭部を上下に揺らしつつ眠気に抗おうとする者が多かった為である。中にはハッキリと目を覚ましていた者も居はしたが、それらは眠る者達を気遣うようにして口をつぐみ、車窓に映し出される市街地の風景をただただ眺めていた。

 

「……ん? なんか臭くねぇ?」


 車内には焦げた鉄の匂いに加え、排気ガスとは異なる何らかの排煙らしき匂いが漂っていた。唐突なその匂いに対し、夢の中にいた生徒らはおもむろに目を覚まし、眼を擦りながら「これは何の匂いだ」とザワついた。が、直ぐにそれは判明した。


 学校を出発してから既に1時間。市街地を映していた車窓は、いつの間にかくすんだ(・・・・)色した工業地帯へと変わっていた。道には黒煙を撒き散らしながら走るトラックが行き交い、道路脇の砂塵粉塵を巻き上げながらに去って行く。大気中には微細な鉄粉が舞い、3階建て程の大きな工場からはモクモクと黒煙や白煙が大量に吐かれていた。それを見て顔を歪ませる生徒もいたが、とりあえずは皆一様に、異臭の原因が分かった事に安堵の溜息をつき、車内には再び静寂が訪れた。そんな生徒らを腹の中に抱えたバスは、黒煙白煙砂塵粉塵舞う中を力強く突き進んでゆく。そうして暫く走り続けたバスの車内では、排煙の匂いと入れ替わる様にして、また別の匂いが漂い始めていた。

 

「何か潮の香りしない?」


 海の無い街で暮らす生徒らにしてみれば、それは普段滅多に嗅ぐ事の無い香り。その香りは漁港や魚市場を想像させ、青い海と白い砂浜を想像させ期待させた。そして答え合わせとばかりに、皆の視線が車窓へと送られた。


「…………」


 車窓には魚や海を連想する物は何一つ無く、相も変わらずくすんだ(・・・・)建物ばかりが映しだされていた。その様子を生徒らは無表情で見つめていたが、その無表情の中には「別に海が見たかった訳ではない」と、「期待もしてないし興味も無い」と、そんな強がりにも似た言葉が込められているように見えた。そして無表情のままに暫し車窓を見つめていると、それは建物の影からニュっと現れるようにして、突然姿を現した。


 コンクリートで出来た堅牢な岸壁に、何本もの太いロープでガッチリと固定されたそれは、口を大きく開けるようにして停泊していた。当然ながらそれは海に浮かんでいた訳ではあったが、その海はお世辞にも青いとは言えない黒っぽい海。そんな海の付近に白い砂浜なんて上等な景色は欠片程も存在せず、更に言えばその場所は薄らと対岸が見えるような湾内であり水平線も見えず、海といえども囲まれている事で大海原とは無縁の場所。だとしても、普段生徒が目にする機会が滅多に無い本物の海である事に間違いはなく、そんな水平線も見えない黒い海であっても非日常的な光景である事は確かであり、また先程肩透かしを食らった直後という事もあってか、生徒らはその光景に少なからず感動し目を奪われた。


 バスは埠頭の中を回り込むようにして走行し、徐々に船へと近づいてゆく。そして船の近くまでやって来ると、地面にペンキで描かれた案内矢印に従い停車した。直後、作業着姿に作業用ヘルメットを被った中年の男性が、バスに向かっておもむろに歩み寄ってきた。

 運転席付近へとやってきた男性は、車外から二言三言運転手に対して話しかけると、直ぐにその場を離れた。そして少し離れた場所に位置すると、バスに向かい手信号でもって何らかの合図を送り始めた。するとバスはその合図に呼応するようにしてエンジンを唸らせ発進し、目の前で大口開けるカーフェリーの中へと足元を確認するかの如く、ゆっくりと乗り込んでいった。


 プシュー


 船員誘導の下、車両甲板中央付近に停車したバスは、エンジンをかけたままに乗降口扉を開けた。するとその瞬間、車内に轟音が響き渡った。その轟音の正体は生徒らが乗車するバスのエンジン音を含め、フェリーに乗り込んだ他の車両のエンジン音に船のエンジン音。それらの音が車両甲板の天井や壁や床に反響し共鳴し、リズムの無い交響曲となって扉口から車内へと、一気に飛び込んだ。そしてその轟音を合図にしたかのようにして、バスの最前列に座っていた一人の男がおもむろに立ち上がり、体を捻る様にして後方へと振り向いた。


「よーし! みんな早く降りろー!」


 教員は車内に響く轟音に負けじと声を張り上げそう言うと、1人先にバスを降りていった。直前まで眠たげな表情を見せていた生徒らは、車内に響き渡る轟音と耳障りな教員の大声で目を覚ました。が、眠っていた体は直ぐに起きる事はなく、一度は大きく見開いた瞼もトロリと落ち始める。そんな襲いかかる睡魔に対し座ったままに背筋をピンと伸ばし、瞑想するかのような姿勢で以って抵抗を試みるも、かえって睡魔を誘う結果となった。


「ほらー! とっとと降りてこーい!」


 再び教員の耳障りな声が車内に響き渡り、生徒らは再び目を覚ます。とはいえ眠気が消える事はなく、仕方なく強制的に目を見開きつつユラリユラリと座席から立ち上がり、フラフラとしながらも歩き始めた。そんな無言でユラユラ動く姿はもはやゾンビ。そんなゾンビの集団が整然とバスを降りてゆく。


「よーし! じゃあいくぞー!」 


 バスを降りた生徒らは教員を先頭に列を成し、車両の間を縫うようにして歩き始めた。その列が向かうは車両甲板壁際の客室甲板へと上がる階段。すると1人の男子生徒が「ちょっとトイレに行ってくる」と、そう後ろを歩く生徒に言い残し、皆が向かう階段とは反対方向にあるトイレへと1人列を離れた。


 その船はオンボロと迄は言わない迄も、相当な年数を経た船だった。凡そ3階建て程の高さを有する車両甲板の壁や天井は白く綺麗に塗装されてはいたが、一見して鋼鉄製と分かるような、云わば質実剛健といった造りの船だった。トイレの扉も壁と同じく鋼鉄製で、白く塗装されたその扉には赤いペンキで以って、それも明らかに手書きと分かるような拙い文字で「トイレ」と書かれていた。生徒は特段その事に何の違和感を抱く事も無く、真鍮製と思しき金色の鈍い光を放つ丸いノブに手を掛けた。

 内開きのドアは鋼鉄製という事もあってかそれなりに重く、力を入れつつ押し開ける必要があった。そうして扉を開いて中へと入り、今度は背中で押すようにして扉を閉めた。すると「ガチャン」と、扉は如何にも鉄という音を奏でながらに重々しく閉じた。


 用をたし終えた生徒は、室内の角に設置されていた小さなシンクで手を洗い、ズボンの脇で手を拭いた。そしてトイレから出ようとドアノブに手を掛けた。

 いや、掛けようとしたが掛けられなかった。そう、その扉にはそこにあるはずのドアノブが無かった。


「……」


 生徒はその状況が即座に認識出来なかった。今見ているその光景が正しく認識できなかった。本来そこにあるはずのドアノブが無い事を即座には理解できなかった。それは単に壊れたと、そして壊した人が知らん振りをしたと、そういう事なのかも知れないなと思いつつ床を見回す。だがいくら床を見回しても何も見当たらない事からも、それは悪意を以って意図的に破壊したのかも知れないなと、そう結論付けた。だがノブ喪失の経緯など問題では無く、それが意図的か過失なのかも問題では無い。問題は人が素手で破壊する事が不可能な、鋼鉄製の内開きの扉にノブが無い事が問題なのだと、ようやく私は気が付いた。そう、これは凡そ40年程昔の筆者である私の話。純粋とは言えないまでも、いまだ疑う事を知らなかった私の、ちょっとした冒険譚である。


 さてさて事態を理解した私の脳裏は、次のステップへと移行していた。そう、脱出方法である。いくら鋼鉄製とはいえ、何らかの工具を持っていれば扉を開ける事は可能かもしれない。だが一介の中学生がそんな物をもっているはずもなく、そんな物を常時携帯している人など皆無と言っていい。仮に持っているとしたら整備担当や工事関係者、或いは不埒な考えを持つ者位であろう。

 扉の外側にはノブがあった。だからそれを回し扉を押し開けた。内開きの扉を閉める際にはノブを持たずに背中で以って押し閉めた。その時、内側にノブが無い事に気付かなかった。今思えば鍵を閉めずに用をたしていたという事でもあり、それはそれで迂闊な行動をしていた事を私は悔んだ。


 鋼鉄製の扉を持つそのトイレ。壁も床も天井も鋼鉄のそのトイレ。1帖と少し程の広さのその空間には、ステンレス製と思しき鈍い銀色に輝く和式便器。そして申し訳程度のシンクと天井の船舶照明のみで、それ以外には何も無かった。

 いや、1つだけあった。それはいわゆる船窓と呼ばれる丸い窓。だがその大きさは頭を出すのが精一杯の大きさで、とてもそこから抜け出す事などは出来はしない。仮にその窓から抜け出せたとしても、そのトイレは船の外周に当たる位置にあり、窓の向こうは海である。それも既に出航し波しぶきを上げながら進む船の中。時刻的にはまだまだ日も高い時刻であったとはいえ、足の置場も無い外へと出ればそのまま海へとダイブする事になり、救命用具も装備していない状態で海へと落ちれば助かる見込みは無い。壁や扉を叩いて誰かに知らせようとするも、そのトイレが設置されているのは静かな客室甲板では無く、船のエンジン音に加え、風や波の音が壁や天井で反響しあう車両甲板。そんな場所で壁や扉を殴ったとて蹴飛ばしたとて大した音とはならず、勿論どんなに声を張り上げたとて誰に気付かれる事も無い。当然それらの壁や扉は殴ったとて蹴飛ばしたとてビクともせず、反対に私の身体が壊れるは必至。


「あれ? ひょっとして出られ……ない?」


 私はようやく事の重大さを認識し始めた。そして何かないかとキョロキョロ見回した。だが緊急事態を知らせるようなボタンは勿論の事、脱出を図れる要素を持つ物は何1つ見当たらない。それでも何度も何度も見回すが何も無く、どうすれば良いのか何かないかと頭を巡らすも一切何も思いつかない。


「まじか……嘘だろ……」


 ふと船窓に目がいった。脱出が不可能である事が一目瞭然のその小さな窓からは黒っぽい海原が見え、その海に浮かぶ数隻の小さな漁船が揺らめく姿が見え、また薄らではあるが陸地も見えた。

 私は窓を開けた。そして窓から首だけを外へ出してみると、凡そ10メートル程の真下に黒い海が見えた。黒いその海にはハッキリとしたコントラストで以って、30キロ程の速度で進む船が立てる白波が描かれていた。30キロと言えば自転車でも出せる速度であるからして特別速いとは言えないが、陸上での30キロとは質の異なる30キロと、そう言える程に速く思えた。


 そして私は海の上のトイレという密室の中、一人途方に暮れた。トイレからの自力での脱出が不可能である事を悟ると同時に恐怖した。まさしく鋼鉄の檻に閉じ込められた事に恐怖した。

 日本神話に出てくる天照大御神(あまてらすおおのかみ)。彼女は天岩戸(あまのいわと)に自らの意思で隠れたというが、彼女も私同様に恐怖しただろうか。自らの意志とはいえ真っ暗な洞窟内に恐怖しただろうか。だが仮に彼女が恐怖したとしても、海の上の鋼鉄の檻に閉じ込められた私の方が恐怖の大きさで言えば大きかったと、きっとそう言えるだろう。それほどの恐怖を私は感じていた。


「お…………し……」


 船窓から首を出しつつ途方に暮れていると、微かに何かが聞こえた気がした。それは単なる風が織りなした幻聴だろうかと、それとも恐怖から来た幻聴だろうかと思い放っておくと……


「そこで何してんのー!」


 今度はハッキリ聞こえた。それが私に向けられた声だったのかどうかは分からなかったが、一体それが何処から聞こえてきたのかと左右を見ても下を見ても何も見当たらない。そこで首しか出せない厳しい姿勢のままに視線を上に送ると、凡そ10メートル程上に位置する客室甲板の舷側に人の姿が見えた。その人は舷側の手摺から身を乗り出すようにして下を覗いていた。よく見れば、それは私のクラスメート。彼は甲板舷側から真下の海を見ようと身を乗り出した所、偶然私に気付いて声を掛けてきたのだと、そう後で聞いた。人がいるからと言って必ず声をかける事は無いだろうが、船窓から首だけを出している私がとてもシュールで不自然だったが故に声をかけたのだと、そう言っていた。だが私にとって声をかけてきた理由などはどうでもいい事である。


「……で、出られない! 開けてー!」


 私は今迄に出した事無い声量で以って叫んだ。そしてそれから数分後、天岩戸が開いた。


「何してんの?」

「いやぁ、ドアノブがなくって開かなくてさぁ、まじで焦ったよぉ。ははは」


 私は明るく振る舞いつつそう言った。心からの"ありがとう"という気持ちを込めて言った。本当は泣きそうだったのを我慢しつつそう言った。


 こうして私は無事生還する事が出来、その後船は何事も無かったようにして目的港へと到着し、私達は再びバスに乗り込みそのまま課外授業へと向かった……はずなのだが、私はその日の課外授業が何処へ何をしにいったのかという事は一切記憶に無い。そして何よりも、私を助けてくれたその友の顔も名前も覚えていない。だがその日の出来事は今でも忘れてはいない。顔も名前も忘れてしまった友に助けられたその日のその事だけは、40年近く経った今でも忘れてはいない。


 現代では当たり前となっている携帯電話という情報ツール。それはそんな機器が生まれる少し前の時代に起きた出来事。鋼鉄の箱に閉じ込められたその日、もしも誰にも気付かれないままに皆が行ってしまったらと恐怖し、万が一にも船が沈むような事があればと恐怖した。船窓からは陽が射していた事でまだ正気を保ててはいたが、もしもそれが陽も暮れた時刻の出来事であったとしたら、私は正気を失っていたかもしれない。窓から見える物が漆黒の海のみという状況だったとしたら、誰にも届かないような叫び声を上げ続けていたかもしれない。唯一の救いはそこがトイレであったという事で、出る物(・・・)については何の我慢も必要無いという事位であろうか。 


 遥か昔の出来事と呼べそうなその日の出来事を、私は決して忘れる事は無いだろう。語り継ぐような話ではないが、その出来事を決して忘れる事は無いだろう。顔も名前も忘れてしまったその友の事を、ただただ友と言う名のその人が助けてくれた事を、その友にとっては何て事の無いその日の出来事を、私は生涯忘れる事は無いだろう。そしてトイレに入る際、まずはドアノブがあるかどうかの確認を、私は決して忘れる事は無いだろう。


2021年07月31日 初版 


 これは所謂私小説。学校行事で乗ったカーフェリーの中、「あ、あれ? ノブがない!」って感じでトイレに閉じ込められた話。何十年も昔の話の為、かなり記憶が曖昧な事もあり相当脚色してはいるものの、恐怖したその事だけはハッキリと覚えてる。いやー、あの時はまじで怖かったなー。ドンドンと鋼鉄製のドアを叩いても蹴飛ばしてもビクともしないし誰も気付いてくれなかったし。まして携帯なんて無い時代だったし、万が一にも船が沈むような出来事があったらなんて考えたらゾッとしたなー。船窓からはマジで海とちょっとした陸しか見えなかったもんなー。でもって友達が気付いてくれ開けてくれたという事で出られた訳だけど、それ以来ちょっとだけ船にトラウマが出来た気がする。

 因みに私はトイレやウンコに関する投稿が多いのですが、ひょっとしたらこのトラウマ的な事が原因で多いのかも知れないです。(´・∀・`)


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