10 決めたから
光がふっと消えると、部屋はまた元の、少しだけ温かいけど静かな空気に戻った。
机の端のうつわは、もうただの金属のお皿に見える。でも、さっきまでそこにあった物語の余韻が、まだ胸の奥でくすぶっていた。
「……お兄さん、そのれんきんじゅつしさんって──」
「さあ、誰なんだろうな。これはあくまで物語だよ」
キリオンお兄さんは笑った。でも、その笑みはどこか寂しくて、絵本の終わりの悲しい場面みたいに、言葉を続けたくなくなる感じだった。
わたしはパンちゃんを抱きしめながら、その横顔を見ていた。
「でも、なんでそんなお話を……?」
「理由はいくつかあるけど……一番は、ノエルちゃんが村で見たことの答えかな。みんなが俺を忘れた理由だ」
そう言って、お兄さんは机の上に置いてあった瓶を手に取って、淡い緑色の液体をゆっくりかき混ぜた。
かき混ぜる音だけが、部屋にぽつぽつと響く。
「俺の使うある種の錬金術は、物語の錬金術師と同じ代償を伴う。誰からも、すぐに記憶が薄れていく」
「……そんなの、ひどすぎるです」
「そうだね。俺自身も何度も思ったよ。助けても、教えても、残らないなら意味がないって」
お兄さんの手が一瞬だけ止まった。
わたしは、その言葉にちょっと胸が締めつけられるような気がした。
「……でも、全部が消えるわけじゃない」
「?」
「俺の作ったもの自体が突然この世から消えて無くなるわけじゃない。これが1つ。そしてもう1つが、不思議なことに、ごくまれに、俺のことを忘れない人がいるんだ。物語にも出てきたろ?」
わたしはうなずく。
あの弟子らしい人。でも……結局は離れていった。
「……その人たちって、なんで覚えていられるんです?」
「はっきりはわからない。ただ……一つの可能性がある」
お兄さんはゆっくりと、わたしの方を見た。
視線が、なんだか真剣で、少し怖いくらいだった。
「それは“記憶する力”だ。物や人、出来事を、まるで写し取るみたいに覚える才能」
「……わたしが?」
「そう。ノエルちゃんは覚えてるかわからないけれど、俺が使った道具の効果や、作った道具の細かいところまで。氷のトゲが何本だったか、火の玉の数がいくつだったか」
言われて、わたしはドキッとした。
──そうだ、あの夜の光景、わたしはぜんぶ覚えてる。
氷の音、火の匂い、キリオンお兄さんの背中の暖かい感触まで。
「たぶんそれは、普通の人にはできないことだ。かつての人間からしたら、語り部……はノエルちゃんにはわかりづらいだろうから、村で起こった歴史を子孫に語り継ぐ、そういう尊敬される存在になれる才能ってこと」
「そうなの……です?」
「ただ、俺が弟子として選ぶなら、必須の才能の一つだと思っている」
「……」
何かを言いたかったけど、声がうまく出なかった。
お兄さんは少し笑って続ける。
「だからもしよかったら、俺の右目を見てもらってもいいかな? 君の才能が本物かどうか、俺の目で確認させてほしいんだ」
パパやママから怒られるときのことを言われて、わたしはちょっと悩む。けど、大丈夫! きっとお兄さんなら悪いことはしない!
「は、はい! お願いします!」
「そう緊張しなくてもいいよ。じゃあちょっとだけ失礼して」
そう言うと、お兄さんは左目を隠してわたしをまっすぐ見つめてくる。
「“我は諦観者、世から瞼を閉ざした者なり。我が眼には何も写さず、故にわずかな光をも見逃すこと非ず。三千世界を写す瞳の先に、汝の全てを見定める。“一を仰ぎ見る心眼”最大出力──“全視全能””」
……あれ? よく見るとお兄さんの目、前に見た右目と色が違うような。あとで確かめてみよう。
ってなんかきらきら光ってる!!
「キリオンお兄さん!? 何か目が光ってるよ!?」
「ああ、大丈夫気にしないで。これも錬金術だと思ってくれていいよ」
「……わたし、れんきんじゅつと魔法の区別がつかない、です」
「まあ難しい錬金術というのはそういうものだよ。しかし……」
目のキラキラが収まったキリオンお兄さんは、左目から手を放して椅子から立ち上がった。
うん、やっぱり左右で目の色が違うね。
「“全視全能”でも見えなかった、こんなのは……二回目だ。もしかしたら……ノエルちゃん」
「は、はい!」
「正直な所、俺は君と一緒に色んなところを見たいと思っている。ただね、君みたいな小さい子を外に連れ出すことがいけないことだってのはわかる。旅は危険だし、命を落とすこともあるからね」
「……でも、わたしは」
「ノエルちゃん」
お兄さんはわたしの言葉をやわらかく止めた。
その顔は優しいけど、真剣で……だから、余計に胸が熱くなる。
「だから今は、村のことを第一に考えよう。復旧にはまだ時間がかかる。俺が手を出せばすぐに終わるけど、それだと大切なことまで覚えていられないだろうから、陰ながら手伝わせてもらうよ」
「……はい」
そう答えたけど、胸の奥ではもう決まっていた。
わたしは──お兄さんと一緒に行きたい。
それから数日、村の復旧は少しずつ進んでる。
倒れた柵はもう立て直されて、柵の代わりをしていたがれきは柵の外に積まれて、やんちゃな男の子たちの遊び場になってた。男の子ってホントそういうの好きだよね。
そういえば2日前には、謎の旅人さんが、たくさんの木を格安で売ってくれたりして村長さんたちが感謝していたみたい。
「お兄さん!」
「どうしたの? そんなに慌てて」
キリオンお兄さんは荷物をまとめて、今にもどこかに行ってしまいそうだった。
立派なお屋敷は綺麗さっぱりなくなっていて、わたしと会った時のように本当に身軽な……たまーに立ち寄ってくれる、長い旅をしている人の格好とは全然違う。
「村、もう大丈夫そうだしね。そろそろ次の目的地に行こうと思って」
「……わたしも、連れてって」
お兄さんの手が止まった。
しばらく、静かだった。
「……本気で言ってる?」
「はい。わたし、覚えてます。お兄さんがしたこと、ぜんぶ」
「……」
お兄さんは目を細め、そしてゆっくり笑った。
「……わかった。でも一つだけ約束してほしい」
「なんですか?」
「自分の命を、軽く扱わないこと。危険には飛び込まないこと。──弟子として、それが第一条件だ」
「はいです!」
「あとお兄さん呼びはちょっと恥ずかしいから、俺のことは先生と呼ぶように」
「はいです! キリオンせんせぇ!」
お兄さんは笑って、わたしの頭をぽんと叩いた。
「じゃあ、明日から一緒に行こうか、弟子のノエルちゃん」
「はい!」
翌朝。
村の出口には、見送りの人が何人か来ていた。
みんな、キリオンせんせぇのことは忘れているはずなのに、不思議と「どこか大事な人が出ていく」ような表情をしていた。
「ノエルちゃん、気をつけてな」
「うん! また帰ってくるから!」
パンちゃんを腰に下げ、キリオンせんせぇの後を歩き出した。
朝の光の中、村がだんだん遠ざかっていく。
パパやママ、近所のお友達やおじさんおばさんたちとはしばらくお別れのはずなのに、胸の奥が、不思議な温かさでいっぱいだった。
これから先、何が待っていても──わたしは、この背中についていくと決めたから。