9 代償
キリオンお兄さんは、机の端に置かれていた丸い金属のうつわを手に取った。なんか絵本でみたことある、ごちそうが入っているアレに似てる。
ふたを外すと、中には何も入ってなかった。けど、淡い光がふわっと漏れて、部屋の空気がちょっと温かくなった気がした。
「この話はそうだね、絵本みたいなもの。だけど、ただの作り話じゃないんだ」
そう言ってうつわの中に何かの粉を一つまみ入れると、光は一気に強くなって、壁や天井に色が広がっていく。
——まるで紙芝居が空中に浮かび上がったみたいだった。
「昔々、あるところに、一人の錬金術師がいました」
光の中に、背の高い男の人の姿が浮かび上がる。白くて長いじゃけっとを着て、背筋をまっすぐ伸ばしている。
男の人は両手を広げ、たくさんの道具や瓶を操っていた。
「彼の錬金術は若くして、国一番とも、世界一とも言われていた。どんな病も癒し、どんな壊れたものも直す。誰もが彼を頼り、尊敬していた」
映像の中で、人々がその男の人に花や贈り物を差し出す。
私は思わず声を漏らした。
「なんか……キリオンお兄さんに似てる、です」
「はは、どうかな。ただ、この話の彼は、ある日こう思った。“もっと素晴らしいものを作りたい。神様すら届かない錬金術を操りたい”ってね」
場面が変わった。
男の人は一人、夜の工房でとんでもない数の器具と材料を前に立っている。
映像の光が揺らめき、水が泡立って、金属が溶けて、空気がびりびり震えてた。
「何日も何日もかけた錬金の果てに、彼はとある道具を作った。その道具のおかげで彼は、時間や空間さえも操れる、神様すら到達しえない力を持ったものを作り出せるようになった」
光の中で、男の人が形のない光を掲げると、小さな懐中時計が現れた。それは金色に輝いて、見ているだけで吸い込まれそうな気がした。
「……すごい」
「そうだろう? けれど、その力は代償と引き換えだった」
今まで輝いていた光たちが、急に冷たい灰色、嵐の前の空みたいに変わっていく。
人々の笑顔がゆっくりと消えていき、男の人を見ても首を傾げるばかりになる。
「代償は——“誰からの記憶にも、記録にも残らない”という呪いだった。彼が何を作ろうと、何を成し遂げようと、それを覚えている人はすぐにいなくなる」
私は思わず、マーくんとパンちゃんを抱きしめた。
「じゃあ……助けてもらった人も、忘れちゃうの?」
「そう。最初はみんな覚えていた。でも、数日もすれば……もう誰も作り手の、彼の名を思い出せない」
光の中の男の人は、壊れた橋を直し、病人を治し、飢えた村に食料を与える。
けれど、そのたびに周りの人々は「誰がやったんだろう?」と首を傾げ、彼の前を通り過ぎていく。
「時々、呪いを破るような人も現れた。その人たちは彼を覚えていたし、感謝もしてくれた。でも」
暗い光の中で、男の人の弟子のような人物が立ち上がる。しかし、その人はどんどん元気を無くしていって……今までの人と同じように、何かを忘れたように男の人の元を去っていった。
「彼らに錬金術を継がせることはできなかった。知識も技術も、呪いが消してしまう」
「そんなの……ひどすぎる、です」
私の声は少し震えていた。
キリオンお兄さんは静かにうなずき、映像の男の人も同じようにうつむいた。
「これは自分が望んだ力じゃなかった……そう思っても、もう遅かった。呪いを解く方法は、彼の無敵ともいえる錬金術の力でも見つからなかった」
映像の男の人は、町の大通りの真ん中に一人で立っている。
誰もが男の人を避けて……なぜそこで立っているのかを聞くこともせずに通り過ぎていく。
男の人の背中は少し丸まり、風が外套をはためかせる。
男の人はそこにいるのに、誰も男の人を見ていない。
なんていうか、わたしがこういう時にかけられる言葉を、わたしはまだ知らない。
でもわたしの胸の奥は、きゅっと痛くなった。
「……お兄さん、その錬金術師って」
「さあ、誰なんだろうな。これはあくまで物語だよ」
お兄さんは笑った。でも、その笑みはどこか寂しそうだった。
暗かった光はそこでふっと消え、部屋には再び朝の温かな陽射しと静けさが残った。