質問の答えはペットボトルに
「……面白くない」
机に突っ伏しながら、私はひとり不機嫌に呟く。
「そりゃあ何もせずにいたら退屈だろ。先に帰ったら?」
誰に向かって呟いたわけでもない私の独白だったけど、それは隣の席の眼鏡男の耳に届いたようだった。
放課後の教室、数分前まで多くの同級生で埋まっていたその空間に現在いるのは私とコイツのふたりのみ。
あるいは誰にも拾われるコトなくただの雑音として掻き消えるはずだった私の言葉は、こいつによって意味を成す音になっていた。
けれど、それは私が欲しかった答えではない。
男は、三隅ヒロキは勘違いをしていた。
私、夏目ミオの言葉の真意を。
「……ヒロキを待ってるんじゃない」
顔を上げ、鈍感な眼鏡男の顔をジト目で睨みながら見る。
見れば見るほど冴えない高校生男子だ。
ボサボサの髪、ド近眼の為に掛けている分厚いセンスのない武骨なオシャレ感のない眼鏡。
太ってないのがせめてもの救いだけど、決して鍛えているとは言えない、かといってスラっとしていると表現するには足りない肉付き。彼には「ヒョロっとしている」という形容詞の方が似合う。
よく観察すれば顔立ちは悪くない。この歳頃の男子高校生にありがちな、ニキビだらけな顔とか、脂ぎってテカってる顔というわけではない。
まあ若干青白い気はする顔色をしているが…
「なんだよ? 僕の顔になんか着いてるか?」
不自然なほどの私の視線に気づいた眼鏡男が、ノートから視線を外し、隣の席の私を見る。
やっぱり答えは的外れだったけど。
「別に…何か着いてるから見てるワケじゃないし」
「?」
「……鈍感」
「……いきなり罵倒とは、傷つくな」
嘘ばっかり。そう呟く顔は全く表情を変えていないくせに。
それにいきなりではない。 私はさっきからずっとそう思ってたのだ。 全く突然ではないのだ。
「ヒロキ、ちゃんとご飯食べてるの?」
「なんだよ、急に」
急ではない。さっきからこの男を見ていて思っているのだ。
肉付きが足りない。顔色がイマイチ。
別に病気だとか、身体が弱いとかそういう事情があるわけではないコトは承知している。
この男とは十年以上の付き合いなのだ。
いわゆる、幼馴染みというヤツ。
コイツは私と違って昔から運動が好きではなく、時間があれば本を読んだり、勉強したりと、お日様の下で動き回るというコトを避ける。
私とは真逆だ。私には真似が出来ない。
暇さえあれば外に出て走り回るのが好きな私には考えられない生活だ。
「…ヒロキももっと外に出て動かないとダメだよ」
「ミオはじっとしてるのが苦手だからな」
その回答も間違いだ。
確かに私はじっとしてるのが苦手だというのは合ってる。
ヒロキは私という存在を理解してるコトから来る返事だ。けど間違い。
今は私のコトではない。
私のコトではなく、ヒロキの話をしてるのだ。
「別に僕のコトを待ってなくてもいいだろ。先に帰っていつもみたいに走り回ってくればいいじゃないか」
その提案も的外れ。私の事情をちっとも考慮してない、この男は。
「……宿題、見て欲しいから待ってるの!」
眼鏡男の表情が渋くなる。
「そう言えば、今日の数学。宿題忘れて怒られてたな、お前…」
呆れた感情を込めながらこの男は私に言葉を投げかけた。
「……昨日の分と、今日の分。量が多いから助けて欲しいの」
ブスっとした声で私は呟く。
思い出したくない出来事を思い出させられ、私は更に不機嫌になる。
確かに忘れた私が悪いけどさ、何もみんなの前であんな言い方しなくていいじゃない。
数学の橋本先生、本当に嫌いだ。
で、目の前のこの男にも腹が立つ。
そのくらい察してくれていいのに、わざわざ口に出すなんて、本当に本当に鈍感だ。
「ここでやればいいだろ。分からないところなら教えてやるよ」
再び自身のノートに何かを書き綴りながら呟くこの男は本当に何も分かってない。
鈍感の極みだ。
「……数学のノート、家の机の上だもん」
「………そうか」
ようやく合点がいった、という表情を浮かべるヒロキ。
分かったのなら、切り上げて下校して欲しい。
「…分かった。じゃあもう少しでキリがいいから、もうちょっと待っててな」
視線を私からノートの方に戻すと、ヒロキは再びシャーペンを走らせ始める。
再び訪れる静寂。
私の耳に届くのはヒロキがノートに綴るペンの音と、空いてる窓から響く車の音、時折響く何処かの運動部の部員の声。
微かなBGMはあれども、この教室の主であるふたりの人間は一切言葉を発さずにいる。
この静かな空間が不安を掻き立てる。余計なコトを考えてしまう。
苛立ちと不安とが心でないまぜになり、私の心を恐れに掻き立てる。
普段の私なら、こういう時は体力の続く限り外で走り回り、頭を空っぽにして身体を動かして不安を忘れるんだけど、今日はそれが出来ない。
やったら、明日も橋本先生に雷を落とされる。
宿題は三倍? あるいは四倍? ……考えるのも恐ろしい。
「……面白くない」
「ま、待ってるだけはミオの性に合わないからな」
やっぱりこの返事も嚙み合ってない。
…ん? 合ってるのかな?
なんだか分からなくなってきた……。
分からない。そう分からないのだ。
私はヒロキのコトが分からない。
彼の考えが分からない。この男の態度が分からない。このヒョロ長眼鏡の答えが分からない。
だから不安になる。
だから苛立ってしまう。
だから面白くない。
だから……
だから、聞こうと思った。
だから問い掛けようと思ったんだ。
宿題を手伝ってもらう、というのは口実だ。
いや、手伝って貰わないと死ぬのは事実だけど、それがおもな目的じゃない。
一緒に帰って、帰り道、雑談がてら聞こうと思ってた。
あるいは私の家で、勉強をしながら尋ねようと考えてたんだ。
なのにこの男が中々帰ろうとしないから、こんなちぐはぐした状況になってしまってる。
こんなに辛い思いに耐えなければいけなくなってしまってる。
「…まだ、掛かる?」
「ん…もう少し……んん!」
黙って作業してたからだろう。ヒロキはかすれた声で答えた。
喉がいがらっぽくなったんだろう、ヒロキは昔から喉が弱かった。
机の脇に掛けてある鞄に手を伸ばすと、鞄の中から五百ミリのペットボトルの水を取り出し、口に含む。
「ん……、ミオも飲む?」
「……い、いらない」
ふいにヒロキが私にペットボトルを差し出す。
いま、自分が口をつけた飲みさしのペットボトルをだ。
私は顔を逸らしてそれを拒む。
高校生にもなって、誰かの飲みかけの物に口をつけるなんて出来ない。
いや、女同士なら問題ないけど、異性の……男の子とそんなコトは出来ない。
間接キスになってしまう。
そんな配慮も出来ないのか、この鈍感眼鏡は……。
「そう?」
私のそんな戸惑いも気づかず、この男はペットボトルの蓋を締めると、机の上にそれを置く。
配慮が足りない…。
鈍感……。
そう考えたけど、もし彼が今のを誰にでもやってるのだとしたら?
例えば、私だけじゃなくて、他の女の子に……
そんな考えが不意に頭を過ってしまう。
それを見てしまったとき、私はどう思うんだろう。
ヒロキが、他の女の子と……
「ねえヒロキ…」
気付けば声を出していた。
不思議と真剣なトーンで問いかけていた。
意識したつもりはない。 けれど、自分でも驚くぐらい真面目な声調で私はヒロキに言葉を投げ掛けていた。
「ユカリに告白された、ってホント?」
ヒロキの手が止まる。
周りから音が消えた、いや、私の耳に届かなくなった。
聞こえるのは私の心臓の音だけ。
バクバクとうるさいくらい鳴ってるのが分かる。
とうとう言ってしまった。
「トモとかアリサが話してたの聞いてさ。
昨日、ヒロキがユカリに呼び出されて告白されてた、って」
とうとう聞いてしまった。
「ユカリ今日休んでたじゃん。ヒロキはどう答えたの?」
聞いて私はどうしたいんだろうか。
こんなコト尋ねる権利が私にはない、って頭では分かってる。
私とヒロキは幼馴染みというだけで、男女の仲じゃない。
彼女でもないのに、ヒロキが誰に告られたとか、誰と付き合うんだとか、そんな事情に口を挟める道理はない。
でも、私は面白くなかった。
ヒロキの良さは私だけが知ってるんだって思ってたから。
家の事情が苦しいから経済的な負担を掛けないために、奨学金取る為に必死に勉強してるコトも、
毎晩遅くまで勉強してる努力家だってコトも。
一切オシャレに無頓着で、ファッションに一ミリも気を使わない鈍感男でも、
優しくて、頭良くて、面倒見が良くて……
そんなヒロキの良さを理解してるのは私だけ、って思いこんでいたから。
「…………」
ヒロキが黙って私の顔を見つめる。
「……断ったよ」
ヒロキは真面目な表情で答えた。真面目な声調で答えた。
「ユカリ可愛いじゃん。なんで?」
汗が止まらない。でも私は努めて表情を変えないように頑張る。
余裕があるように、何でもないように、サラッと尋ねたような表情にみせるのだ。
私はヒロキの"特別"じゃあない。
なのに、こんな突っ込んだ話をしていいのかが分からない。
だから、世間話の体で聞くようにみせる。
……当初はそう計画していた。
頭の中で思い描いていたシミュレーションでは完璧だった。
一緒の下校、家までの帰り道で、
あるいは何処かに寄ったお店で?
コンビニで?
買い食いしながら商店街の通りで?
ダメなら私の家で、宿題をしながらという形で……
けれど、そのプランは全部崩れた。
余裕はもうない。 自分は笑えているのだろうか。
なんでもないような顔で尋ねられてるのだろうか。
もう自分が今どんな顔をしてるのかも分からない。
というか、そんなことを考える余裕もなかった。
断った? 本当に? 何故?
ヒロキの答えしかもう耳に届かないだろう。
ヒロキの言葉にしかもう反応出来なくなっている。
「気持ちは嬉しかったけど……」
「けど……?」
「彼女を僕の"特別"に見るコトは出来ないなあ、って思ったから」
ヒロキは困ったようにはにかんだ表情でそう答えた。
特別? ヒロキのいう、彼の"特別"な存在とはなんだというのだろうか。
ユカリは残念ながらその条件に合わなかったようだ。
「……勿体ないじゃん! ユカリ可愛いし、それに……」
何故私はユカリを応援するような発言をしてるんだろうか。
これではまるで私が…
「…ミオ、彼女と僕に付き合って欲しかったの?」
この鈍感男は、こういうときに限って、私の考えを読み取ってしまう。
「あ、いや、違くて! 違う! そうじゃなくて!」
いや、違う、そうではない。私はユカリとヒロキに付き合って欲しいわけではない。
世間話の体を装うのを続けたかったのか。なんなのか。
私は私が分からなくなる。
頭が混乱して、パニックになる。
「ひ、ヒロキの特別って何!?」
頭が真っ白になった私の口から出た言葉はコレだった。
ヒロキが目を見開く。
息を飲んで私の顔をその見開いた両目で見つめてきた。
「と、特別! 特別って言ったじゃない!! その特別、って……んん!」
急に叫んだからか、私の声はかすれ、途中でゴホゴホとせき込んでしまった。
その様子に気づいたヒロキは、自分の机に置いてあったペットボトルに手を伸ばす。
が、伸ばした手を止め、少し考えるようにしたあと、
ヒロキは机の脇に掛けてある自らの鞄の中に手を突っ込み、何かを取り出した。
「ミオ」
席を立ち、私に近づくと、ヒロキは私の背中をさすりながら鞄から取り出したそれを私に差し出した。
ペットボトルのミネラルウォーターだった。
先程の飲みかけたものと違う水。もう一本持ってたのか。
「持って」
穏やかな笑顔で語り掛けながら、ヒロキは私にペットボトルを差し出す。
受け取ると同時にヒロキが更に言葉を続ける。
「未開封だよ? ミオが開けて」
その言葉を受けて、確かめる。
間違いない、開けた形跡がない新品のペットボトルだ。
恐らく先程、私が回し飲みを拒否したから気を使ってくれたのだろう。
「質問に……」
ありがたがったが、話をはぐらかされたり、うやむやにされたくはなかった。
ガラガラ声で文句を口にしかける私。
「大丈夫、大丈夫。
きちんと答えるから。今は飲んで」
でも、ヒロキはきちんと汲み取ってくれたようだ。
穏やかな口調で、私の言いたいコトを察しつつ、飲むように催促してくる。
本当にうやむやにしないか、と疑う気持ちが浮かぶけど、今は水を口にしたいという欲求が上回る。
ヒロキの言葉に甘え、ペットボトルの蓋を開けた。
パキッという音が鳴ったのち、蓋を回し、取り外す。
ペットボトルの口に自らの唇をつけ、容器を傾け始める。
「あ、全部飲まないでね」
「?」
「一口分くらいでいいから残してね、ミオ。
飲むときはゆっくりだよ、ゆっくり。
むせちゃうといけないから……」
飲み始めたタイミングでヒロキが妙な要求を口にした。
意図が分からなかったけれど、声は出せないし、何より喉を潤したかった。
ゆっくりと水を飲み、ヒロキの求めるくらいの量だけを残し、私はペットボトルから自分の口を離す。
「ふう…」
喉を潤し、ひと心地ついた私は、ため息をつく。
「落ち着いた?」
「うん。ありがとう、助かった」
ヒロキが笑みを浮かべながら手を差し出してくる。
ペットボトルを渡してくれ、という意味だろう。
それがあまりにも自然な動作だったため、私は素直に要求通りヒロキにペットボトルを渡した。
そう、渡してしまった。
スッとペットボトルを受け取ったヒロキは、次の瞬間、信じられないコトをしたのだった。
私の顔を見たと思ったあと、彼が笑ったと思った次の瞬間、
ペットボトルを傾け、中に残っていた水をグイっと一気に飲み干した。
「ちょっ!!」
突然のコトに慌てたものの、止める間もなく、私は声を上げるに留まった。
この男……、分かっててやりやがった………。
彼の喉が動き、私の飲み残した水が彼の体内に入ってゆく……
意識したら顔が熱くなってきた。
絶対、私、今、顔赤くなってる。
「飲んじゃった♪」
本当に爽やかな笑顔で、愉快そうにこんなコトを口にする鈍感男。
フフフと笑いながら、空いたペットボトルを私に差し出してくる。
頭が沸騰しそうな状況で、頭が回らない私は、ワナワナ震えながら、空のペットボトルを受け取る。
「ご馳走さま。蓋閉めといてね、ミオ」
ああ、そうだ。蓋開けたの私だから、蓋は私が持ってるや。
なんてどうでもいいコトを何処か他人事のように考えていた。
ヒロキと間接キスしてしまった。
しかもコイツ、悪びれもせず、確信犯でやりやがった。
だんだん頭が回ってくると、恥ずかしさよりも、怒りが込み上げてきた。
「ちょっとヒロキ!」
質問にも答えず、一体どういうつもりなのか。
問いただそうと、我に返って眼鏡男の机を見る。
「あれ…?」
そこは既に空っぽ。
ノートも鞄も何もかもが綺麗になくなっていた。
「ミオ、行くよ」
声のした方を見る。
鞄を抱えたデリカシーゼロ眼鏡が扉の前に立っていた。
「待ってよヒロキ、どういうつもり……」
慌てて帰り支度をする私。鞄に教科書やら机の中のものを突っ込む。
突っ込んでいると、眼鏡男の声が耳に届いた。
「……誰にでもしてるんじゃないからね」
鞄から目を離し、バッと彼を見る。彼は背中を向けていた。
「下駄箱で待ってるよー」
そう言いながら、彼は……
ヒロキは決して私の方は見ず、背中をこちらに向けたまま歩き出していってしまった。
ひとり取り残される私。ふと見るのは左手。
無意識に持ったままとなっていた空のペットボトル。
親指で押すと、ベコッという音が、誰もいない教室に響く。
「素直に答えられんのか……面白くない」