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短編・ほろ苦/切ない

カイルと共に

作者: 悠井すみれ

 夫の葬儀の映像は、世界中で報道された。祖国のために殉職した兵士の棺、そしてそれに寄り添うバディの犬という、感動的なストーリーを添えて。ジャーマンシェパードのカイルは、夫が訓練して戦場でも常に共にあった忠実な軍用犬だった。妻の私はというと、参列者の最前列にいたけれど、カメラのフレームに収まってはいなかった。

 ネットで、テレビで、新聞で。映像に寄せられたコメントは私の誇りにも慰めにもなったけれど、同時にどうしようもない衝動で私の胸は荒れた。


 夫と人生を分かち合ったのはカイルだけじゃない。夫の伴侶は私だった。私が棺に取りすがることがなかったのは、悲しくなかったからじゃない。死は絶対的なものだと、人間の理性で分かってしまていたからだ。カイルは、その賢さは夫が常々話していたけど、しょせんは犬だ。だから死というものを理解できなくて、姿が見えなくなった相棒の匂いに惹きつけられてしまう、ただそれだけだ。


 兵士と犬の絆をもてはやす記事や感想に触れる度に、そう叫びたくて仕方なかった。でも、画面や紙上の向こう側の相手に私の声を届ける術なんてなかった。私は一人でこの悲しみと喪失感と、あと何だか分からない感情に向き合わなければならなくて――だから、そのための方法を一生懸命に考えた。


 * * *


 相談した担当者は、私の考えに賛成しかねるというように眉を顰めてみせた。


「大型犬の飼育のご経験は?」

「ありません。でも、夫から話を聞いていました」

「軍用犬はペットとは違います。訓練に耐えたということは躾が行き届いているということと同義ではありません。PTSDは動物にもあり得ますし……何かの弾みに、訓練された通りの攻撃性を見せてしまうことも――」

「でも、カイルは危険性はないと判断されたのですよね? だから里親を募集していると――私も、必要な講習があるなら受けます」


 引退後の軍用犬の処遇について、微妙な問題もあるのは知っていた。夫が悲しんだり憤ったりしていたのを聞いたことがあるから。

 訓練された犬の中には、一般家庭で寛ぐという環境に馴染めない子もいるし、高すぎる身体能力は犯罪に悪用されることさえあり得る。だから、どうしても「難しい」犬は殺処分されることさえあるのだそうだ。でも、その点、カイルは問題ないということだった。それに、殉職兵士の遺族は少なくとも身元は確かと言えるだろう。世界中に広まった夫とカイルの美談の結末としても、未亡人が引き取るのは順当なもののはずだ。


 だから――担当者が口では渋っていても――要望が叶えられる可能性が高いのを、私はよく分かっていた。そうすることで、カイルと共に過ごすことで夫を亡くした心の隙間を埋められるのではないかと思って。あるいは、私とカイル、どちらがより夫を想っていたのか、確かめたい気持ちが強かったかもしれない。


 * * *


 そして順調に許可が下り手続きが進み、カイルを家に迎える日が訪れた。玄関先に鎮座するシェパードをひと目見て、私は思わず怯んでしまう。覚悟はしていたつもりだったけれど、やはり大きい。従順に私を見上げる黒い目には確かに理性が宿っているけど、黒と茶の毛並みの下には強靭な筋肉を纏っているのが見て取れたし、尖った口吻(マズル)には鋭い牙が潜んでいるのだ。

 でも、矛盾するようだけど、意外と小さいな、とも思った。カイルの三角の耳の先は、私のお腹辺りにも届きそうなのに。――きっと、後ろ足で立って夫とハグする写真を何度も見ていたからだろう。夫のお気に入りだったその写真は、今はリビングに飾られている。私と映った写真は、結婚式のを除けば意外なほど少なくて、カイルと一緒の時の方が彼の表情をよく捉えていたのだ。人間が笑うように、舌と牙を見せて口を開けた――あの写真の朗らかさが、今のカイルからは消えていた。主がいなくなったことで意気消沈して、一回り小さくなってしまったかのよう。


「カイル。来て(フォロウ)


 上下関係を分からせるために、端的に命令を下した時――私の横を、黒い風が駆け抜けた。カイルが命令に反して駆けだしたのだ。巨体が目指すのは、夫の部屋だ。そう気づいた瞬間に、鈍い音が響く。何度も、何度も。


「カイル――いないの! あの人は、もう!」


 カイルが扉に体当たりしているのだ。そう気付いて叫ぶと同時に、目の奥から熱いものが滲んだ。カイルを追いかけて家の中を走りながら、それを拭う。夫とこの家で暮らしたのはごく短い間だった。私と過ごした時間よりも、戦場で――カイルと――過ごした時間の方が長いくらい。でも、夫はここにも、私の傍にもちゃんといたのだ。カイルが匂いを嗅ぎつけて、面影を探してしまうくらいに。彼は間違いなく、私の伴侶だったのだ。


 夫の部屋に辿り着くと、カイルはやはり扉の前で唸り、しきりに引っ掻いては身体をぶつけていた。扉を破壊せんばかりのその勢いに気圧されて開けてやると、彼は突風のように室内へと飛び込んだ。整えたきり誰も触れていないベッド、クローゼットにきちんとしまった衣類。夫が触れたCDや本棚。どこかの隙間に夫が隠れているとでも思ったのか、カイルはあらゆる隙間に鼻先を突っ込んでいく。彼の任務だった爆発物捜査も、きっとこんな感じだったのだろうか。

 でも、最初はぴんと立っていたカイルの耳も、喜びに激しく振られていた尻尾も、すぐに萎れてしまう。夫はどこにもいない。決して帰ってはこないのだ。夫の残り香に一瞬迷ったとしても、軍用犬の鋭い感覚で、理解してしまったのだ。可哀想な様子、なのだろう。私だって胸が痛む。でも、その痛みは、必ずしもカイルを思い遣ってのものではなかった。


「カイル。そんなに好きならどうして守ってくれなかったの……!」


 項垂れたカイルの傍らに(くずお)れるようにして、私は言ってはいけないことを口にしてしまう。あの葬儀の映像だけでなく、夫とカイルの絆を改めて見せつけられたようだったから。

 私だって分かっている。たとえ寝食を共にしていても、優れた身体能力を持っていても、カイルにもできないことがある。可能なら、カイルだって絶対に夫を守りたかったはずなのに。


「どうして、あの人は――」


 あまりの情けなさに、言葉は宙に浮いて立ち消えた。こんなこと言っても仕方ない、酷いこと。犬に嫉妬した上に八つ当たりなんて。夫が見たら何というか。悲しさと情けなさに絶句して俯くと、頬に熱いものが触れた。涙が堪え切れずに零れた――だけでは、ない。


「カイル」


 カイルの舌が、私の涙を舐め取っていた。湿った鼻先が頬に押し当てられて、少し生臭い息遣いが感じられる。軍用犬の訓練で、人間へのこんな接し方を教わるはずもないのだけど――私を、慰めてくれているみたい。私が悲しんでいることを理解したということは、つまり――


「ああ……分かった、のね……?」


 カイルも理解したのだ。あるいは思う存分嗅ぎまわって納得した、のか。夫が、相棒がもうどこにもいないことを。そして、彼と同じ喪失を、私も抱えていると……? 彼にとっての夫、私にとっての夫。同じくかけがえのない存在を失ったと、分かって――認めてくれたのだろうか。


 温かい毛皮に腕を回すと、カイルは小さく鳴いて私に身体をすり寄せてきた。夫という空白を間に挟んで、私たちは抱き合っている。この空白、欠落は、きっと埋めることはできないのだろうけど。でも、倒れないように支え合っていくことはできるのかもしれない。

 カイルの毛皮を涙で濡らしながら、私はそんなことを思った。


 * * *


「カイル、行きましょう」


 リードを見せると、カイルは尻尾を振って私にまとわりついて来た。我が家に慣れてから食欲も増して、ひと回り大きくなった――というか元に戻った――身体にじゃれつかれるとよろけてしまう。現役時代の頑丈なハーネスではなく、首輪に取り付けるだけのリードにも、彼はすぐに慣れてくれた。夫が語っていた通り、賢い犬だ。それに夫の訓練の賜物でもあるのだろう。そんなところにも夫の面影を感じて、まだしょちゅう目が潤んでしまうのだけど。


 でも、私は笑うことも思い出してきた。夫と歩いた道を、今はカイルと歩いて、夫の思い出をなぞるうちに。夫と何をして何を話したか、カイルに語りかけるうちに。彼が理解できているかは分からないし、悲しみが完全に癒えることもないのだけど。でも、愛した記憶の美しさは、悲しみよりも大事にしなければならないと、思えるようになったのだ。


 多分、カイルと一緒に思い切り身体を動かすのも良い影響になったのだろう。リードを引っ張って走るカイルの力強さ。私の手に伝わる筋肉の躍動。引きずられないように、全身に力を入れなくてはならなくて。

 もちろん、道路ではなく広々とした公園でのことだ。首輪だけにしてあげると、カイルは喜んであちこち駆け回って、他の犬や子供とじゃれついたりもする。軍用犬としての経験は、彼に獰猛さよりも忍耐強さを教えたようで、決して喧嘩に発展するようなことはない。


「大人しい良い子ね。牙を剥くところなんて見たことがない」

「ええ、元軍用犬だったので」


 愛犬家同士での会話の流れで、カイルの経歴に触れることもあった。中には、夫の葬儀の映像を思い出してか、もしかして、と聞いてくる人もいる。でも、その問いかけに私が傷つくことはもうない。


「夫の、最高の相棒(パートナー)だったんです」


 私が愛した人は、誇り高く誠実で、最後まで責務を全うした人だった。カイルとの日々の中で、その理解はすとんと私の胸に落ちてきていた。別れは早すぎたとしても、それだけの人を愛し愛されたことは、決して無意味ではない。


 私はカイルを通して夫を感じ、カイルもきっと私に夫を感じているのだろう。大切な人の思い出を分かち合いながらふたりで生きていくのだ。いずれは、カイルも見送らなければならないのだろうけど、少なくともそれまでは。


 今度は私がカイルの相棒になるのだ。

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