狐の窓
――見えた
奏は“狐の窓”から見える景色から目が離せずにいた。
奏が複雑に組んだ手の真ん中から見える景色には、長く白い髪の女性が居る。
そのスラリとした女性の後ろには、ふわふわした白いしっぽが生えている。
――“見えてしまった”
奏が狐の窓を知ったのは今日の放課後の事だった。
「ねえ奏、これ知ってる?」
奏の友達の理沙が両の手のそれぞれの親指と中指と薬指をつけて話しかける。
「なに理沙?」
「“狐の窓”って言ってね」
理沙はその両の手を右人差し指は左小指に、左人差し指は右小指につける
「こうやって」
続けて理沙はそれぞれの親指につけていた中指と薬指を逆の手の人差し指に重なるように開き
「こうやって」
先ほどのそれぞれ二本の指を逆の手の親指で抱えれるように組み、小指は逆の手の人差し指を抱えるように組む。そして真ん中にできた窓から目を覗かせる。
「こうやると、おばけとか狐や狸が化けてるのがわかるんだって」
「えーっ、そんなのどこで知ったの?」
「お兄ちゃんが教えてくれたんだ」
「理沙のお兄ちゃんって物知りだよね」
理沙は狐の窓を組んだまま教室を見回す。
「違うよ、兄ちゃんはただインターネットで調べたことを私に自慢してるだけだよ」
奏も狐の窓を組む。最初は思うように手が組めなかったが、何度か組み直しているうちにそれらしくなった。
窓から覗いてみる。
「おい、何やってるんだよ」
クラスメートの健二が奏たちを怪訝そうに見ていた。
「あ、健二、後ろに知らない人が立ってる」
「はあ!? なんだよそれ」
健二はチラと後ろを向き、誰もいないことを確認する。
「嘘だよ、バーカ!」
理沙はケタケタと笑う。
「つーか、なにそれ」
健二はまた怪訝そうに二人を見る。
「男子には教えなーい。自分で調べれば?」
理沙はいつの間にか狐の窓を解き、健二と話している。健二は眉をハの字にして天井を見る。
「はあ。またいつもの『男子には秘密』か」
奏はため息をついている健二と得意げな顔をしている理沙を少し面白がりながら狐の窓から見ているのであった。
帰り道にそんなことを思い出した奏は、今も狐の窓が組めるか試しにやってみた。
――あー、やっぱりこれ難しいなあ
組めた窓からいつもの帰り道を覗き込む――別に普段と変わらない。少し変わっているとすれば、いつもは見かけない綺麗な女の人が居ることくらいであった――。
いつもの帰り道が見えるだけだと思った。
けれどもその彼女の当たり前の期待は裏切られた。
――見えた
――“見えてしまった”
まばたきをする。
視界は窓の縁から中にピントを合わせる。見える。
目を閉じて窓を胸元に下げる。いつもの帰り道。
また目を閉じてから窓の中を覗きこむ。やはり見える。白いしっぽが。
――どうしよう
奏は考える。まさか見えるわけ無いだろうと思っていたものが見えてしまった。見たくなかったわけではないが、見えてしまった。いつもの帰り道でこんなものが見れるとは思ってもいなかった。
――どうしよう、どうしよう!
奏の足は震えていた。心臓がどくどく鳴っている。顔から血の気が引いていく。
――追いかけてみよう
奏は突如湧いた好奇心が抑えられなくなった。先ほど見た白髪で狐のしっぽの生えた女の人が気になった。
奏は狐の窓を解くと、両手を握りしめ先程まで狐のしっぽの生えていた女の人の後をそっとついていった。
気がつくと奏は古びた神社の鳥居の前に居た。ここに来る手前の曲がり角で件の女の人を見失いかけたが、この神社の鳥居をくぐるのが見えたのだ。しかし、そこには誰もおらず静寂が溢れかえっている。
――こんなところ、あったんだ
奏は鳥居を潜ろうと右足を踏み出した。と同時にどこかでカラスが大声をあげて飛んでゆくのが聞こえる。
途端に木々がざわめく。奏が鳥居の向こう側に足を踏み入れたのをきっかけに、凝られたギミックが動き出したかの様であった。奏はそれらに偶然ではない様な違和感を覚える。
奏の顔か冷たくなり、汗がでる。踏みとどまる。第六感が警告を鳴らす。
――大丈夫。きっと気のせいだ
奏は自分にそう言いきかせると左足を踏み出す。するととたんに風のざわめきが強くなる。
――気のせいじゃない!
奏は目を見開いて口角をあげていた。顔はずっと冷たいままだ。
心臓はバクバクなっている。呼吸が早くなる。
奏はふと我に返ると、狐の窓を作っていた。そしてゆっくりと窓の中を覗く。
ぼやけた景色の中心に何か白いものが映っている気がするが、窓の中の景色にピントが合う頃には、それは確信に変わった。
――居た……
真っ白な、奏の大きさくらいはありそうな体と、それの倍以上のしっぽを持った狐が。
「……ウギャァーッ!」
獣の様な声を上げたのは奏だった。奏は手をとっくに解いてその場で尻もちをついている。そしてその視界に先ほどの狐は見えない。
「ギャワァーッ!」
奏は一目散に先ほど潜った鳥居をまたくぐり、走りだしていた。
奏は家に帰るなり階段を四つん這いで駆け上がった。
「姉ちゃん姉ちゃん姉ちゃん姉ちゃん!」
そういって奏が開けたドアの向こうには姉の恵が今日もどこから手に入れたのかわからない古い本を机で読んでいた。
「うーん?」
恵はゆっくりと奏に顔を向ける。奏は恵のおっとりとした顔を見て少し安心するも、
「見た見た見た見た! 見ちゃったよぉ!」
と取り乱したままである。
「何を見たのお?」
語尾が何となく伸びた調子で恵は尋ねる。奏は恵のそんな調子で落ち着きを取り戻しつつあったが、息は切れ切れである。
「え、えっと。狐! 見た! 白い狐! ねえお姉ちゃん、お姉ちゃんなら知ってるよね。毎日うねうねした文字で書いてる本読んでるから、わかるよね?」
「白い狐。あら、羨ましいわね。白い狐は良い狐なのよ」
「え? そうなの?」
「そう」
恵はメガネをクイと上げて一つ咳払いをし、話を続ける。
「白い狐はね、人に悪さをしないらしいの」
奏は恵の目を見て「なぜこの人はこんなに楽しそうに尋ねるのだろう」と、先ほどとは別の不安を覚える。
恵は両手を握りしめて目をらんらんとさせていた。
「町中であったの? 山の中じゃなくて?」
「うん、神社にいた」
「すごいすごい! へえ、こんな町中にもいるんだあ」
奏から見た恵は、とても幸せそうだった。一方奏はそんな姉を見てすっかり先程までの緊張が解けてしまった。
しかし布団に入った奏はまた不安にかられた。
――あの狐、良い狐だって言ってたけどもしかしたら私のところに来るかな。それで私になにかするんじゃないかな。
結局十一時に布団に入った奏が眠りに入ったのはその一時間後の事だった。
翌日、奏は件の神社の前にいた。昨夜は奇妙なことも起こらず、気づいたら目覚まし時計に起こされる朝であった。奏は正直つまらないとも思っていた。そしてまたここに来たらなにかあるだろうかと期待をして来てみる。
神社は昨日とは様子が変わって、鳥居には立入禁止のテープが張られていた。
奏は少し残念な気持ちになった。確かに怖い思いをしたが、その後何もないのもつまらない。そんな思いが奏での中でふつふつとしていた。
「あら、昨日もいたわね」
奏の後ろから声が聞こえる。振り向く。昨日、後を追いかけて見失った女の人がそこには立っていた。
「ぎゃっ!」
思わず腰を抜かす奏。そしてすぐにその場で正座をして手を扇ぎながら何度も土下座をする。
「ごめんなさいごめんなさいなにもしませんなにもしませんからどうかおゆるしを!」
一方女の方は目を点にした後、クスクスと笑い出す。
「ごめんなさいね。でもあなた見えちゃったのね」
「いいぃ!」
奏はできることならこの場で意識を失いたかった。しかし意識を失ったらそれこそ何をされるかわからない。相手は今は人の姿だが、あの白い狐かもしれない。姉の恵は『良い狐だから』と言っていたが、それが本当とも限らない。そんな思いが奏の頭の中で錯綜していた。
女は空を仰いだ。そして口を尖らせて右手の指先を当てる。
「そうね……時間があるなら、ちょっと近くの公園でお話でもしましょう? あなたが良ければだけど」
「は、はい。それで許されるのなら私何でもします!」
奏は喉がつっかえた声で言った。
その後二人は場所を移動し、コンビニへ寄り、近くの公園へと来た。
二人が公園のベンチに腰を掛ける。
「さて何から話をすれば良いのか。あなた、私の姿わかってるのよね?」
女が尋ねる。奏は恐る恐る口を開く
「う、うん。えっと、狐の窓でお姉さんを見たら、しっぽが見えて、ついていって」
「あー、私も化けるのが下手になったかしらね」
「えっ、じゃあ、本当にお姉さん、狐なの?」
「あまり大きな声じゃ言えないけどね」
奏の想像が確信に変わる。
「じゃあ、お姉さんは良い狐なの? それとも悪い狐なの?」
奏は恵が言っていたことを確認したかった。
「うーん、狐によるかしら。私は仲良くしてるつもりだけど」
「え、じゃあやっぱり悪い狐もいるの?」
「人から見たら悪い狐もいるかもしれないわね。でも彼らも彼らなりの道理があってそうしているの。『他の生き物のことも考えずに森を開拓する連中は追い出さなければならない』って思ってる狐ももちろんいるし、単純に人間たちをおちょくると楽しいからと思っている狐もいるし」
「そうなんだ、狐にも色々な狐がいるんだ」
奏は狐の世界を垣間見た気がした。
「お姉さんは、人間のことどう思ってるの?」
「私? そうねえ。人間に何度も痛い目にあったこともあったわ」
「え、それじゃあお姉さん本当は」
「でもね、それがだんだん歳を取ってくるとそうじゃない人間もいるんだって分かってきたの。特にあなたたちみたいな子どもたちは」
「つまり、どういうこと?」
「私が見てきた限りだと、人間って自分を守るために、他のものの体や心が痛むことを忘れてしまうようなの。でもあなたたちみたいな子どもや、それを忘れていない大人も少しはいるんだって知ったら、少し安心したの。……ここで少し昔話をしようかしら」
女は奏に微笑みながら向き直す。
「昔、あの神社で小学生が何人かが遊んでいたの。それで、遊ぶ場所の取り合いになって、喧嘩になってしまって……」
奏は女の口元を見ていた。そしていくつかの言葉が奏の中である日の情景を思い出させた。
それは奏が幼稚園に入って間もない頃、どこかの神社で健二と遊んでいる時だった。
何かで喧嘩して、つい健二に石を投げてしまった。その石は健二の額に当たり、健二が泣き出した。
幸い奏と健二それぞれのお母さんはそばにいて、傷も大したことではなかった。
健二の母親は
「いいのいいの。また健二が意地悪したんでしょ?」
と許してくれたが、奏の母は強く叱った。しかしそれ以上に、奏は健二がどれだけ痛い思いをしたのかと心を痛め、深く反省した。
そんな遠い日の情景であった。
「あの娘は本当に優しかったわねえ。あなた、覚えてる?」
女は遠い目で、けれども微笑んでそう言った。
「えっ? 私?」
「そう。私ね、あの時こっそり見てたのよ」
「そう、なんだ」
「あなたのあの時の気持ちも、ちゃんと知ってるのよ?」
「え、なんか恥ずかしい」
奏はうつむいて赤面する。
「私はね、あなたにそういう優しい心を持って成長してほしいの」
「そうですか……」
奏は不安だった。自分が果たしてそんな風に大人になれるか不安だった。しかし、女の言葉でその不安は消えた。
「大丈夫よ。あなたはあんな経験をしたんだし、その心は今でも変わってないわ」
女が微笑む。
ここでふと奏は気になったことがあった。奏はこの目の前にいる女もとい狐はきっとそうだと思い、聞いてみることにした。
「あの、あの神社って、壊されちゃうんです?」
「あら、気づいたのね。確かに私はあの神社が建つ前からずっとあの辺りに住んでいたけど。そうねえ、あの神社も相当古くなってたし、人の営みを続けていくにはしかたないかしらね」
「お姉さんは、悲しくないの?」
「悲しくないわ。私はずっとここにいる。ただ、みんなから姿は見えなくなるけどね」
「え? どういうこと?」
「……動物はね、妖力を高めると神様になるんだけど、妖力が高まると姿が無くなるの」
「姿が無くなる? 死んじゃうってこと?」
「死んじゃうっていうのとはちょっと違うかな。しっぽ見える?」
女のその問いかけに、奏は狐の窓を作った。見えない。黒く艶のある髪の毛は確かに窓から見ると綺麗な白髪だったが、昨日見えたはずのしっぽが見えなかった。
「そう、見えないのね」
女は目を細めて微笑んだ。
「こうやって形をもったまま人と話せるなんて思わなかった。しかもあなたみたいな人と」
奏の目からは涙があふれていた。悲しい。だけどもそれとも違う感情が、止めどなく溢れてきた。
「ありがとうね。私みたいなおばあさんと話してくれて」
女が立ち上がり、数歩歩いた。そして少し奏の方を向いて言った。
「そうだ、忠告しておくわね。あまり狐の窓で遊び過ぎないようにね。“あちら側”のものたちは、あなたが“見える”人間だとわかったら悪さをするかもしれないから」
奏はうつむいていた顔を上げた。が、そこには女の姿はなく、ただ木枯らしが吹いていた。
奏はこの話を誰にも話さなかった――言っても誰も信じないだろうと思ったのだ――。
けれども奏は、時折狐の窓を作ってはその窓を覗いていた。また会えないだろうかと、近くにいるのではないかと。
窓の中では、木枯らしの吹く神社の跡地があった。
了
蜂谷涼先生の講座提出課題その2。課題は「視点」だった気がする。
最初は第三者の視点で描写を描いていたつもりだが、「余計な説明文が多い」との指摘を受けた。
改めて文章を見直すと、小説もソースコードと同じで、
「三ヶ月後の自分が内容をすんなり理解できるか」
というのは割と焦点かもしれない。
児童文学っぽいものを意識したつもりだが、かなり失敗している。