目撃ー真夏の人命救助ー
『警察を呼べ!』
潮風に運ばれてきた叫びに、窓から海を見下ろすと驚くべき光景が広がっていた。
この夏、本当に海岸で見かけた大騒動を書いてみました。
その日は、強い日差しが降り注ぎ、正午前だというのに気温三十二℃を越える暑さだった。曇天が一週間もつづき、日照時間が不足して農作物の収穫に影響が出はじめているとテレビのニュースでも報道されるなか、このまぶしい太陽の光はまさに天の恵みだった。
近所の海岸は海水浴客で混雑し、子どもたちの歓声が潮風に運ばれてくる。都心では今日のような晴天ならば「記録的な猛暑」と表現するのだろうが、関東地方でも北よりでは海からの風が爽やかな地域も多く、エアコン抜きでも涼むことができる。
私の自宅は海岸から幹線道路を跨ぎ、傾斜地を見上げる高台に建っている。直線距離ならば百メートルくらいだろうか。しかし、傾斜した土地一帯に松の木が植わっており、草木の頑丈な蔦にも覆われているため海岸までの近道として利用することはできない。しかも、防風林として役立っている松の木々は手入れを怠っているせいか伸び放題で、二階の窓辺から海を見下ろすと松林が幹線道路や、海水浴場の砂浜と岩場のほとんどを隠してしまっていた。海側にある窓から見えるのは一部の岩場と青い海、水平線くらいだ。
「今日もエアコン要らずだな~」
私はホッとして窓を全開にした。海岸からの風は涼しい。暑さ凌ぎに海からの風を入れるため網戸にしておくことは珍しくはなかった。
前述したとおり、面白いほど色々な音が聞こえてくる。路肩駐車している車のカーオーディオから流れてくる歌。巡回中のパトカーが車上荒らし防止のため車の施錠を促す呼びかけ。はしゃぎ過ぎた子どもを叱りつける母親の声。大学生か社会人か……飲酒を促す大勢の男たちのコール。ひどいときには悪酔いしたひとりが、伏字で書かねばならないような卑猥な叫び声をあげるのまでクリアに聞こえてしまう。
このときも、男たちのかけ声や、どよめきばかりが聞こえていたので、今週末は女性に縁のない野郎集団がやってきたんだな――というくらいにしか思っていなかった。
「ダメだ、ダメだ!ヤバいって!」
男性の野太い声から興奮が伝わってくる。ずいぶん仲間同士で羽目を外しているものだとこちらは苦笑していた。
「無理だって!警察!警察呼べ!」
警察――?
その単語により、私の関心は一気に窓の外へと引きつけられた。この季節、海岸への出動要請が多いのは酔っ払い同士のケンカや、熱中症患者が増えるせいだ。だが急病人ならば救急車を呼べばいい。私は好奇心に逆らえず、ついに窓枠に手をかけて海岸を見下ろすと、予想外の事態が起きていた。
ほとんど松林に覆われてしまっている岩場だが、肉眼でも見える箇所がいくつかあった。一番沖にある大きな岩に赤い布らしきものが張りついてるのが辛うじて見える。
まもなく私はアッと声をあげた。
目を凝らすと布は布でも赤いTシャツだったのだ。
――人間だ……!
それは、Tシャツを着た人間が岩にしがみついている姿だった。人間の黒髪や地味な短パンの色は岩肌のくぼみが作る影と見分けるのが難しかった。赤いTシャツからのぞく首や手足の肌色が唯一の判断材料になった。膝のあたりまで海水につかっている後ろ姿の印象から、おそらく若い男と思われた。周囲で慌てふためく一団が彼の仲間ならば、大体同年齢だろう。男がしがみついている岩場は陸へつづく洗濯岩の一部だが、潮が満ちてきたために退路となる他の岩石は水没してしまっている。彼が避難している岩よりも低すぎたからだ――むしろ、その岩が大きかったから彼は一気に波に攫われずにすんだ。
なぜこんな厄介な場所へ踏み込んだのか……地元の人間ならばこんな事態には陥らない。
――早く警察を呼べ! いや、海上自衛隊か?
岩にしがみついている男よりも陸に近い岩場いた仲間たちが必死で浮き輪を持って呼びかけている。ロープを結んだ浮き輪を男に投げてもまず距離が足りないうえに、潮流の関係で思うような位置に辿り着くことはないだろう。
甘い。明らかにこの地域の……海の危険を知らない余所者がやらかす事故だった。自分たちで何とかしようというのは大きな間違いだ。自分たちにできること――まずは冷静な判断を下すこと。一秒でも早く救助のプロに任せるべきなのだ。
三年前も海外からの留学生が、仲間と遊びに来たこの海岸で遭難した。友人たちと酒を呷った直後に海で泳ぎはじめたところ、仲間たちが知らぬ間に姿が見えなくなっていた。数時間ヘリコプターで空から捜索しても見つからず、溺死体として発見されたのはそれから三日後だ。波にさらわれるのは一瞬の油断だ。躊躇って時間を無駄に使えば取り返しがつかなくなる。
「何やってんだ……?」
岩にしがみついた男は、打ち寄せる波に無防備だった。波は勢いよく岩に衝突し、砕けるしぶきを男は頭から被る格好になっている。このままでは体温は下がりつづける一方だ。しかし、彼は岩にしがみつくのに必死で、体をずらして波の直撃を避けるなんて真似はできなかった。
――ダメだ、すっかりパニック状態だな
最初に叫んでいた男性が通報したのかパトカーのサイレンが近づいてきた。松林で覆われた幹線道路は見えず、サイレンの音だけで判断すれば三~四台は現場に駆けつけていただろう。松林に隠れてはいたが、警察は関係者から事情を聞くはずだし、同時に男の救助を最優先に準備をしているにちがいない。
私は窓枠から身を乗り出して可能なかぎり、ことの成り行きを自分の目に焼きつけた。急いで下の海岸まで降りて直に見物しろと言う者もいるだろう。しかし、冒頭で述べたとおり斜面は直接海岸へ下るルートとして使えない。迂回して曲がりくねった坂道を下らないと海には辿り着けないのだ。その間にすべてが終わってしまう――そう思うとこのまま事態を見守っているべきだと私は判断した。
風向きが変わったのか、人の声が先程より聞きとりにくくなっている。警察関係の人間と思われる男の声がニ、三聞えた後に、陸のほうから泳いで男に近づくオレンジ色の装備をつけた人物の姿が私の視界に入ってきた。
――救助隊だ!
やっと専門家のお出ましだ。命綱をつけた隊員は慎重に男に近づき、すぐに相手に体に触れず、一時立ち泳ぎでもしているようだった。おそらく混乱している男に冷静に話しかけているにちがいない。今度は救急 車のサイレンの音が近づいてきた。到着と同時にその音はブツっと止んだ。
救助隊員が男に救命胴衣らしきものを頭から被せ、その体に腕を回して安全を確保してからようやく男は岩にしがみついていた手を離した。救助隊員は陸に向けて泳ぐ素振りが見せたし、命綱も陸地から引かれているように見えたが、はっきりしたことはわからなかった。陸に戻る=私の有効視野範囲から外れてしまうからだ。実際、その後岩にしがみついていた男がどういった処置を受けたかはまったくわからない。数分後に救急車のサイレンが再び鳴りはじめ、その音は病院がある都市部へ去っていった。
それが、私が見た一部始終だ。
『そんな中途半端な話があってたまるか!――オチはないのか?』
という指摘もありそうだ。私も声を大にして同じことを言いたい。男がなぜ救助隊に助けを請うことになったか――水没しかけた岩にしがみつく経緯はわからずじまいだ。どんな人物だったのか、おそらく病院に搬送されただろうが、その後どうなったのかも不明である。
翌日、朝刊の地元版の記事をチェックしたが、前日の救助に関する情報は掲載されていなかった。このテのニュースは犠牲者・よほどの物損被害が出ないと活字に起こされることは少ない。
結局、週末の救出劇は無事に人命を救ったものの、それに安堵する私のなかに相対する奇妙な感情を残すことになった。
自分が助け出される過程で、大勢の手を借りた事実を男は理解できているのだろうか。今回のことがトラウマになったとしたら、それはそれで教訓になるだろう――自分が海という大自然の前ではいかに無力であるかを思い知ったのだから。もちろん、野次馬だった私が口をはさむ立場ではないのだが。
――もう一度、かりにもう一度この海岸にくることがあるとすれば……気持ちだけでも生まれ変わってからにしてほしい。
終
最後までご覧いただきありがとうございました。今回文章に起こすのはどうかなー…と迷ったりもしましたが、とにかく挑戦してみました。
ほぼ、自分目線で描いてみました。8月に本当に起きたできごとだけど、物語で書いているとおり詳細はわからずじまいです。警察や消防に問い合わせてもおそらく個人情報にかかわることは答えてもらえないでしょうね(当たり前ですね)。
ただし、実際に海岸でも浅瀬で水の事故は起きています。都市部のプールでしか泳いだことがない人は本当に波の怖さ(離岸流や突然波にもまれたりする)を知らない方が多いので、色々気をつけて海水浴を楽しんでください――という気持ちを込めてみました。