第3話
「は…い、ご主人……様。」
「……うーん、ご主人様はやめてくれないかな。」
一気に雰囲気が壊れた。
膝の震えも収まり、恍惚とした気分から醒める。
「じゃあ、旦那様で。」
「それもやめてほしいかな。」
「……ギルセレイト様」
「それも嫌だなぁ。」
「……主上。」
「余計ひどくなってないかい?」
「……アンジェリク家ご当主様。」
「……ウーリ、それ、わざとやってないかい?」
「まさか。アンジェリク家ご当主様に気に入ってもらえる呼び名を探しているだけですが。」
「あ、そう。私は、ギルと呼んでほしいな。」
「っ………ギル……様……。」
「よし。」
この人と喋っていると何かがすり減っていく気がする。絶対に気のせいではないはずだ。
だが、見かけによらず子供っぽいからだろうか、さっき感じたあの存在感と圧倒感はすっかり薄れている。
流されてギル様と呼ぶことになってしまったが、そこはもう諦めることにする。
商人にばれたら鞭打ちものだけど。
ギルは、ついてこいというように俺に背中を向けて屋敷に向かっていった。
ハッとした俺は急いでギルを追いかける。
ギルの銀髪は光に溶けるように虹色に輝いている気がした。
まるで、天使の羽根のように。
俺の記憶にある、あの将軍の羽根の色にそっくりだ。
扉をくぐると、最初に目に入ってきたのは白と緑だった。
石で出来た床に、観賞植物がうるさくならない程度に置かれている。
どうやらギルは植物というものが好きなようだ。この屋敷自体、貴族の好まない森のようなところにある。近辺には畑まであるのだ。虫もたくさん来るし、泥も飛ぶ。
つまりギルは普通の貴族じゃないということか。
なるほど。
じゃあそう思っていつも接していよう。
うん、そうしよう。
「ここはね、治安もいいし空気も美味しいし、動物達も皆優しいんだ。魔法も自由に使えるしね。」
「動物たち…?」
「ああ、皆いい子達なんだ。それに、可愛らしい……。あの毛並み、ひょこひょこと歩くあの姿…。心が洗われるようになるんだ。わかるかい、あの愛らしいつぶらな瞳がこちらを見てくるのはたまらないねぇ。リスなどはすぐ逃げてしまうけど、その前にキョトンとした顔をみせるのが特に可愛い。鼻をヒクヒクさせる様子は全ての動物にも共通するね。動かし方は様々であれどあの小さな動きが私の匂いを嗅いでいると思うととても興奮するんだ。あと……」
ああ、わかった。
この人は植物が好きな訳じゃない。
嫌いなわけじゃないんだろうけど、ただ単にセンスが良いだけで、動物好きなだけだ。
…………いや、そうじゃない。
正気に戻れ、自分。あんな奴をただの動物好きと呼んでいいものか。
好き?それじゃ足りない気がする。
動物を語るうっとりした目、甘い声、息を荒らげ体を少し振るわせる様子。
好きという言葉で済ませられないだろう。
愛してる?いや、そんな正常なものではなく……もっとこう別の………盲愛?溺愛……?恋慕、仁愛、慈愛、敬愛、親愛……心酔?いや、狂愛が一番近いかもしれない。
「あの子たちに見られれば心が跳ねて踊りだすんだ。ああ、忙しい、とそっけなくするところもまたいいよね……、あぁ……」
あ、違う。
なんか……あれだ。
コノヒト、タダノヘンタイダ。
普通の動物好きの人、一緒にしてごめんなさい。
「お父様、その辺にして差し上げたらどうですか?」
エントランスの扉の向こうから、一人の少女が顔を覗かせた。
少女と言っても俺と同じくらいに見える。
ギルの娘なのだと一瞬で分かるその銀髪は美しい。
でもその顔も、姿も、あの幼馴染にそっくりで……
「フィリア……っ」
掠れた声は、殆ど音にならなかった。
鼓動がどんどん早くなり、胸の辺りを握りしめる。
俺は涙を堪える為に喉にある熱いモノを飲み込んだ。
「フィリア、ただいま。」
「お帰りなさい。……その方は?」
「私の買った薺だよ。でも、薺として育てる気はあまりない。家族として過ごしてもらおうと思ってね。」
「……お父様のことですからその理由だけではないのでしょう?」
「さすがフィリア。教育を受けた薺のようだったから、仕事を手伝ってもらおうと思って。」
「そうですか……。まあ、良いです。」
少女は納得していないようだったけど、それ以上問い詰めることはなかった。
彼女は悪魔の時と同じようにフィリアというらしい。
悪魔の時のフィリアも常時敬語だったが、何処か違う気がする。
でも、やはり、フィリアとそっくりだ。
「ところで、あなたのお名前はなんですか?私はフィリアといいます。」
「……っえっ!……あ、はい。ウーリと申します。よろしくお願いいたします。フィリア様。」
「んー……。これから家族になるのですよ。敬称も敬語も必要ありません。」
……あ、彼女も確実に父親の血を引いている。
そもそも身分が上のはずのフィリアが敬語を使ってどうするんだ。
「……それはできません。私はギル様に買われた身ですので。」
「あら、じゃあお父様のことをギルと呼ぶのはどうしてなのですか?お父様に言われたからでしょう?じゃあ私のことはフィリアとよんでくださいますよね?」
「……ギル様には様をつけております。そもそもフィリア様が敬語をお使いになっておられるのですから、私だけ使わないというのもおかしな話でしょう。」
「……」
お、言葉に詰まった。父親よりは弱いか。
フィリア様は考え込むように俺の足元を見ていたが、顔を上げてまっすぐ俺を見るとにこりと笑った。
「私のは癖ですもの。仕方がないと思います。」
ひ、開き直りやがったぁっ!
癖で貴族様が最下層の薺に敬語なんか使うなよ。
まあそう思っても本人にそのまま言えるわけがないわけで。
「それでは、私の喋り方も義務ですから。仕方ないですよね。」
「…それでは、私たちの間ではその義務は解除、ということにしましょう。」
「お断りいたします。」
笑顔でバッサリお断りさせてもらいますが何か。
そもそもなぜ敬語を取らなければならない。
やっぱり貴族らしからぬ言動と行動だよな。
そもそも敬語を取りたくないのは意地もあるけどけじめをつけたいからだ。
俺は悪魔ではなく、薺なのだと。
強い存在から弱い存在へと変わっているのだと。
「……慇懃無礼という言葉、知ってらっしゃいますか?」
「…はい。それが何か。」
「私は、慇懃無礼に接せられるなら、普通に喋ってほしいんです。ウーリ君?」
ちっ。何感情論に持ち込みやがるんだ。
あ、言葉が。
危ない危ない。
まあ、敬意を払っていないのは確かだが。
表情を隠すのはうまい方だと思っていたんだがなぁ……。
「確かに慇懃無礼に接しているかもしれませんが、ウーリ君はやめてくれますか、気持ち悪いです。」
「開き直りましたね。それでは私もフィリアと呼んでいただけるまでウーリ君と呼び続けます。それともウーリ様、の方がよろしいですか?」
「やめてください。」
様づけなんか却下に決まってるだろうに、この似非お嬢様。
他人に聞かれたらどうする気なんだか。
笑顔で黒い子の方はやっぱりあの〝フィリア〟とは違うんだ。
天使の皮を被った悪魔だろ、こいつら実は。
「……人前では呼びませんよ。」
「はい!ちゃんと言質とりましたからね。」
「敬語はとりませんし敬称付けはやめてください。」
えーっ、と聞こえてきそうな顔で見つめてきたから、嫌です、と言い切ってやった。
_______そのほんわかした空気の中で、ギルの視線が俺に鋭く突き刺さっていることなど、気づかないふりをして。
読んでいただきありがとうございます。