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冬の足音

作者: 実弾

ある冬の夜のことです。

 私はとうとう後悔していました。右手に掲げた紙袋は日本酒の一升瓶でずしりと重く、見上げると遠くの空に月がぷかりと浮かんでいます。碁盤の目状であるこの町を照らすのは、薄暗い街灯と、心細い月明かりしかありません。どこかからの犬の遠吠えと、私の下駄が発てるカラカラという高い音だけがありました。

 私は大きなくさめをしました。無様な格好だと思いつつもかじかんだ左手を懐に入れます。冷や水を浴びているような寒さです。薄着のまま下駄を素足で履いて出てきてしまったから、真に寒い。

 なぜそんな恰好をして外にいるかというと、そう、それはひとえに、私の友人にある日本酒を味わわせたかったからです。


 私はそのとき仕事ため、愛用の旅館に長期滞在しており、早めにの夕餉を終えて遠くからの半鐘の音を聞くともなく聞きながら部屋の窓際の席で一服していたところ、女将が部屋に入ってきて、私宛ての電話があると言います。旅館で唯一電話の置いてある廊下へ行き、誰かしらと思って女将の手から黒電話を受け取るとそれは果たして私の旧友でした。一週間前ここから彼に手紙を送っていたので、彼は私がここにいることを知っていたのです。

 彼は挨拶も早々、今俺は丁度お前のいる町に行き、予約した旅館に泊るつもりだったが、火事が起こってできなくなった、急遽お前の旅館に泊まることになり、それを伝えるため電話した、と言います。先程の半鐘はそこの火事のかとぼんやり思いながら、私は軽く返事をし、電話を終えました。彼の訪問を承知している女将に、これから二人で飲むから用意をお願いしますと頼みました。彼女はかしこまりましたと愛想の良い笑みを浮かべて礼をし、戻っていきました。私は部屋に戻り、また赤ラークを喫みはじめました。半鐘の音はすでに止んでいました。

 五本目の煙草を口に添えたとき、彼が来ました。襖のするすると開く音がして、目を向けると紺の襟巻に顎をうずめ、大きな黒縁の眼鏡の奥に目を細めている友人が見えました。

「お前の手紙にあったように、いい旅館だ。」

 ふっと笑って、

「外は寒いぞ。」

 そう言うと荷物を置いて彼は上着とを脱ぎ、私の向かいの席に座りました。彼と一緒に入室した女将が無言で机の上に二つのコップと、私が気に入る日本酒を置いていきました。

「昨日は大学に用があって金沢に行ってきた。ついでに珍しい酒も買った。まだ夕で早いかもしれないが、久し振りにこれからどうだ。」

 彼は一升瓶を私の前に掲げました。私の初めてみる種の日本酒でした。彼とは文通こそしていたものの、実際に会うのは数年ぶりのことでした。もちろん私は頷いて、私たちは会話に花を咲かせ始めました。

 我々は昔話や最近文壇に現れた新人に対する批評の交換、京都を代表とする古都が近代的都市化によって伝統性が失われつつあることへの嘆きなど、様々な話をしました。

 女将の酒は既に飲み干し、彼の珍酒も切れかけていました。京都の話になった際、私は洛中に唯一残る酒蔵で作られる日本酒に名を挙げ、この酒を知っているかと尋ねました。彼はコップに入った僅かな琥珀色のとろりとした液体を夢見るような眼で見、一気に飲み干した後、

「いや知らないな。」

と言うのです。それで

「この酒の風味こそ京都の味、と言える味だ。飲んでみないか。」

と私が強く勧めると、彼は、そこまで言うんなら飲んでみようと言って笑いました。

 私は承知して、女将さんを呼んでその酒を持ってくるよう言いましたが、生憎今日は切れてしまった、と頭を下げます。

 彼はまた今度でいいだろうと言いますが、つい今私がその酒を褒めたこと、久しく会ってなかったのだからという悔しさ、酒もずいぶん入っていたため前後不覚であったことも手伝って、

「よし、私が今から買ってこよう。」

と宣言するが早いか、もう寒いからと心配して止めようとする彼の手も払って、寒空の下に飛び出ました。彼は私についてこようとしましたが、旅館で待っていてくれ、一時間あれば戻るからと私が我儘を言うと、彼は、早く帰ってこいよと言って私を見送りました。

 ――ちらと後ろを振り返ったとき、眉を八の字にして私を見ながら道で佇んでいる彼の目が、ひどく印象に残っています。


 私の知り合いが、歩いて三十分ほど離れたところで酒屋をやっており、くだんの酒を取り扱っておりましたので、そこに行こうと私は流行り歌を口ずさみながら歩いていました。今思うと、ずいぶんと楽観的な考えでした。そのときにはまだ道の店や家には灯りが点いており、人々が道を行き交っていました。道はいつものように人々の声と足音にあふれていました。酒で火照った体と愉快な感情はしばらく消えそうにないなと私は思いました。

 ですが、しばらく歩けばいつしか酔いは醒め、身を縮め、両手をこすりながら歩く羽目になりました。時折、重ねたたなごころに吐息をかけると、子猫を載せたようなあたたかさを感じます。足はただ前に進むための硬い冷たい機械といった感じで、ここだけが熱い頬とおなじ血と肉とで出来ているとは思えないほどでした。

 気付けば見える限りの店は全て閉まり、道に人はいませんでした。いつもよりもずっと道は狭く感じます。空に浮かんでいる月が私を監視しているといった妄想が一刹那私の頭によぎりました。

 これからどんどん寒くなりそうだ、彼のためにも早く帰ろうと考えると、夜風が吹いて、私の体は身震いしました。ですが、今から引き返すわけにはいきません。どうか店が開いていてほしい、酒が残っていてほしい。

 両脇を締めて手を組み、歯を震わせ、そうほとんど祈りながら歩いていると、前にひとつ、店の明かりと人影が見えました。つい早足になって近寄ると、それは果たして私の目指す酒屋でした。体中が一瞬で暖かくなりました。店先に店主がいて、まさに今店を閉めようとしているところでした。

「すみません、お酒を買いたいんですが。」

 彼はこちらに顔を向けて、しばらく目を細めた後、私と認めたのか「やあやあ、先生、寒いですなあ。」とぺこりと礼をしました。無意識に、手袋をしている彼の手に目がいきました。

 閉店間際に申し訳ないが、いつものあの酒を購入したい、そう言うと主人はほがらかな笑みを浮かべながらうんうん頷いて、やはり気に入りましたか、あれは特別な酒で年に杜氏さんが数百本しか作っていなくて、なんども交渉してここに取り寄せられるようになったんですよ、といったことを笑って話します。彼が笑うと、林檎のように赤く上気した顔が上下に大きく動き、大量の白い息がもわもわと機関車のように出ました。

 あの酒は幸運にも一升だけ残っていました。

「しかし先生、こんな夜分にお酒なんてどうしたんですか。」

 店先でしばらく待つと、瓶の入った紙袋を私に手渡して店主が聞きました。友人にこの酒を飲ませたくなったと正直に答えると、彼は大きな体を揺らして哄笑しました。熊の咆哮かと思えるその太い笑い声は長く続き、私は笑いが終わるまで寒さに身を強張らせて彼の次の言葉を待ちました。きっとこの男には、血液の代わりにウォッカが流れているに違いありません。それほど彼はいつも陽気で豪快に笑ってばかりいました。

 彼が笑い終わり、私が右手で紙袋を受け取ると、彼は差し出した手を裏返して、「んじゃ、お金を」と言いました。

 さてどこにあるだろうと開いた左手で懐をまさぐっていて、私ははっとしました。失念です。財布は旅館に置いたままでした。私は過去の自分を恨みました。

 私は受け取った紙袋をそのまま主人に戻そうとしました。

「どうしました。」

 彼は目を丸くしました。

「どうやら財布を忘れたようです。」

 主人はまた笑って、

「そんなら、ツケということで。」


 その後私は彼の好意に甘え、料金は後日支払うことになりました。また彼は私にカイロをくれ、私は何度も彼に感謝しました。

 店を出て、懐中時計で時刻を確認すると、旅館を出てすでに時間は半時間を優に超えていました。寒さでつい歩幅が短くなり、ゆっくりと歩いたせいでしょう。心配性の彼のことですから、友人は心配して部屋で歩き回っているだろうと私は思いました。急がなくてはなりません。


 胸元にしまったカイロが熱をほとんど失ったころです。どこかから、私のではない、高い下駄の音が聞こえました。私は思わず立ち止まり、あたりを見渡しました。この碁盤の目状の町には曲がり角が多く、私の見えない角にいるのか、誰も見当たりません。私は息を吐き、そして、くすくすと笑ってしましました。私と同じように、寒空の下、下駄で出歩く馬鹿者がいるのです。つい笑ってしまっても、仕方のないことではないでしょうか。

 不思議にも、次の下駄の音は聞こえませんでした。立ち止まったのか、土の上を歩いているのか、それは分かりません。よく耳を澄ませ、音の全然しないことを確かめて私はまた歩き始めました。そうして歩いていると再び、私のではない下駄の音が聞こえてきました。それに気づいても私はそのまま歩き続けましたが、私とその音との距離が変わらないことを発見しました。これはおかしいぞと思い歩みを止めると、やはりその音も、空気に溶けたかのようにはたと止まりました。

 誰かに付かれているのだろうか、しかしなぜだろう、この酒を盗ろうとしているのだろうか。私は考え、なんだか怖くなって逃げることに決めました。

 ですがいくら歩みを早やめても音は同じ早さで迫ってきます。奇妙なことに、ゆっくり歩けば足音はゆっくりになり、早歩きをすれば足音も早歩きになります。どうやら本当に私を追っているようです。歩きながら何度後ろを振り向いても、誰もいません。ただただ足音のみが聞こえます。足音だけがありました。


 いつしか胸元のカイロは冷え切っていました。街灯を見つけるとその下で私は立ち止まり、街灯の柱に手を置いて体重を預けました。肩が激しく上下するほど息が切れていました。気付かぬうちに、だいぶ体力を消耗していたようです。私は私の来た道、すなわち足音のする方向を睨みました。やはり、誰もいません。カラカラという音はほどかれたように消えていました。寒さではない理由で鳥肌が立っていました。

 私はこのとき時間も、友人のことも、一切忘れて、見えぬ足音の正体についてのみ考え、恐怖していました。いくらなんでも、全く姿の見えないのは不自然です。

 私は物の怪のたぐいを信じない人間でしたが、もしや足音を立てるのは人間ではない存在ではないかと思い始めました。

 そうすれば合点がいく。しかし相手が人間だろうが物の怪だろうが、現状の変わらないことには違いありません。今は音がありませんが、歩き始めればまた音が聞こえ始めるでしょう。第六感というべきものが、刺さるような警報を頭の中で鳴らしていました。見えないだけで、「それ」は「そこ」に「いる」のです。

 息が落ち着くと、私は下駄の緒が切れかけていないことを確かめ、懐中時計やカイロなどを紙袋に入れ、そして紙袋を両手で抱きました。これでさっきよりは足は早くなります。

 私は自分の足元から二十尺ほどさきの場所――もちろん姿は見えませんが、聞こえる音から「それ」との距離を便宜的に決め、「それ」はここらへんだろうと推測していました――をきっと凝視し、大きく息を吸って走り始めました。

 今私がどこに走っているか、私にはわかりませんでした。下駄のカラカラという軽く高い音が嫌に耳に障ります。やはり「それ」は一定の距離を保って私についてきました。もうどうなってもいい、ただ逃げよう、そう私は考えました。物の怪だろうが、なんだろうが、「それ」から逃げよう。額から流れる汗も、経つ時間も無視して、私はひたすら走りました。

 けれども下駄はひどく走りにくい。私は限界に達し、電信柱の側に足を止めました。ふと電信柱に書いてある住所が目に入り、よく見ると、私の知らない地名が書いてありました。私は足音のことも忘れ、青ざめました。どうやって帰ったらいいのだろう。旅館は近くだろうか。もしそのときの私の顔を見れば、人は私を幽霊だと思うでしょう。

 電信柱に背を預け、息を整えながら夜空を見上げると、白く丸い満月が風船のように浮かんでいました。星のない夜で、月だけがありました。月の光は心なしかひどく眩く豊かで、月明かりを凝縮した白い乳が月からぽたりと垂れてくるような錯覚にすら襲われました。

 私は止まっていましたが、あの足音は続いていました。これまで保っていた距離を破り、私にどんどん近づいて来るようで、十五尺、十尺、五尺、ついには、もし足音の主に触れられるなら、手を伸ばせば触れられそうなほど近くに来ました。もう私に恐怖はなく、疲労感と諦めが心を占めていました。圧倒的な肉食獣に襲われたかよわい草食動物は、私と同じような気持ちを抱くのでしょう。

 音だけがありました。姿は、どこにもありませんでした。

 「それ」の音は近くまで来ると、少しとまり、今度は兵士がその場で足踏みをするかのように強く規則的な足音を発てました。

 おや、と私は思いました。この足音の主は、私を襲うつもりでなく、なにかを伝えたいらしい。一歩近づくと、足踏みの音は一歩分離れました。三歩近づくと、足踏みの音は三歩分離れました。

 すると、カンカンカンッという強い足踏みの音がし、足音はどこかに行き始めました。どうしたのだろうと思って止まって聞いていると、またカンカンカンッという足踏みの音がし、そして静かになりました。犬がさびしそうにする遠吠えが遠くから聞こえました。

 もしかして私についてこいと言っているのだろうか。

 このとき私に好奇心が泉のように湧きました。よし、ついていく先が地獄だろうが極楽だろうが行ってやろう。

 私が歩き始めると、足音が進みを再開しました。遅くも早くもない、丁度良い進みの早さでした。どことなく、その足音は、誇らしく聞こえました。

 さっきまでは私が追われていたのに、今は私が足音が追っているとは不思議なことだと思いながら、私は音についていきました。このとき私は、このことを友人に――友人とまた会えたらの話ですが――話そうかと考えていました。

 そうして十分ほど歩いていると、見慣れた道に入りました。そのまま付いていくと、なんと道の先に、あの旅館の光があるではありませんか。旅館の前には誰が立っており、白い煙がその誰かの口あたりから出ていました。よく目を凝らすと、それは私の友人でした。彼は煙草を喫んでいたのです。

 私は、あの足音が聞こえないことに気付きました。しばらく立ったままでも、あのカンカンカンッというという音は鳴りませんでした。さっきまでは、音がないからといって、その主がいないとは感じられませんでした。ですがこのとき私は、もう音はしないだろうと直感しました。そして「それ」へのたまらぬ名残惜しさを覚えました。

 「それ」は、私には目的がわからないまでも、私に道案内をしてくれたのです。奇妙なことに、正体不明のものに私は寂しさを抱いていました。

「おーい。」

 私が友人を呼ぶと、こちらを向き、走りにくい下駄ながら駆け足でこちらに来て、「遅かったな。心配したぞ。」と彼は言いました。私は今あった不思議な体験を彼に話そうと思っていましたが、彼の顔を見た途端、その意思が不思議と急激になくなりました。

 それでつい私は返事の代わりに紙袋を渡しました。

 受け取ると彼はいくらか虚をつかれたような表情を浮かべましたが、それがあの酒であることに気付くとにやりと笑って、「じゃあ乾杯といこうか。」

 そうして私達は旅館に戻り、暖かい部屋の中でまた酒を飲み始めました。


 ――以上の文章は、彼が病で死に、葬式を終え、四十九日が経ったいま書いています。

 結局私は、あの体験を彼に話さずに終えました。彼の生きていたころは、なぜあの体験を話したり、書いたりする意欲が私にないのだろうと思っていました。ですが、彼の死んだ今、上に書いたように、あの体験を物語ることができています。

 なぜ以前には書けず、今は書けるのか、私は分かります。

 きっと彼の生前、この物語を彼に話せば、彼はきっとあの音の正体に気付いて恥ずかしがるだろうと私は無意識ながら考えていたのでしょう。

 いま、私は思うのです。帰りのずいぶん遅くなった私を付け、道案内をしてくれたあの足音の正体は、私を心配した彼の生き霊だったのではないかと。

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