元日 嵐の到来(鍛錬開始) (1)
「先ずは、基本的なところから始めるとするか」
その伽凛師匠の言葉を皮切りに僕の武術の鍛練が始まった。
「まあ、お前の身体を見る限り肉体的にはこれ以上はないと言えるほど出来上がっているから特に鍛える必要はないんだが………お前も自覚しているように、その肉体の能力に頭がついていけていない。その為、お前に武術を教える前にその頭と肉体のズレを修正する為のトレーニングをする必要がある」
ということで伽凛師匠の指導のもと昔のカンフー映画さながらの筋トレや平衡感覚等を養うトレーニングが始まった。
肉体の実際の限界と頭の思い込みによる限界のズレを修正するということらしいのだが………。
最初の二時間ほどは一般的にはなじみのないカンフーのトレーニングも行われたが無理だろうと思われるような特殊なトレーニングは行われなかった。が、僕が本当に動けなくなるまで続けられた。
・・・この人、本当に鬼だ。けど、やり馴れない平衡感覚を養うトレーニングも直ぐにコツをつかんで普通にやれるようになったな……うん、ちょっと前の僕では考えられないことだな・・・
僕が床で横になっていると「物覚えの良さには少し驚いたな……平衡感覚など身体操作も悪くない。ただ……お前は肉体的にはまだまだ全然余裕な筈だが……この程度で動けなくなるとは、本当に情けない奴だな」と伽凛師匠に声を掛けられた。
僕は上体を起こしながら「僕は師匠と違って普通の人ですからね」と応える。
「……お前も諦めが悪いな。普通の奴が、あれだけへばっていて数分で回復する別けないだろうが」
「……それについては僕も不思議な気分です」
「お前のその疲労は肉体的な疲労ではなく脳の思い込みに起因する疲労だ。だから直ぐに回復するんだ」
伽凜師匠の説明に僕が胡散臭そうに「そうなんですかー?」と応えると「そうなんだよ」と少し不機嫌そうな返事が返ってきた。
「大学までの長距離走といい今のトレーニングといい、それについてはお前も自覚しているのだろう?」
「………まあ」
・・・確かに、少し休んだだけで、疲れはとれて筋肉疲労も全く感じない。16年間生きてきてこんな疲労と回復は初めてだし、違和感が滅茶苦茶あって気持ち悪いくらいだ……ほんと僕は普通の人じゃなくなったんだと実感させられて、なんとなく孤独な気分になって不安になる・・・
「まあ、その頭と肉体のズレも時間が経てば修正されていくものだが、お前の立場ではそんな悠長なことは言ってられないからな」
そういうと伽凛師匠はニヤリと笑い「それじゃあ本番のトレーニングといこうか」と言う。
「師匠、本番って、今までのは本番じゃなかったんですか?」
「あん? 何言ってんだ? 今までのはただの準備運動だろ?」
僕が「え゛っ?!」と絶句しているうちに伽凛師匠はスカジャンの懐から黒い布を取り出し「ほら、後ろを向け」と僕に言う。
僕が指示道理に後ろを向くと伽凛師匠は僕に黒い布で目隠しをした。
「あの、これは何のトレーニングですか?」
「それはやってからのお楽しみだ」
楽しげに言う伽凜師匠に僕は色々な意味でドキドキしていた。
そんな僕の手を伽凜師匠は引いていく。
僕は伽凜師匠の手の温もりを感じながら更に動悸を速くする。
・・・これから、何するんだろう? 僕どうなっちゃうんだろう?・・・
伽凜師匠はそのまま僕をベンチプレスのベンチまで誘導しそのベンチに僕を横たえさせる。
僕は期待に胸を高鳴らせた。
「お前にはこれから普通にベンチプレスをやってもらう。お前は限界までバーベルを上げ続けろ。回数は私が数えているから気にするな」
・・・ですよねー……筋トレですよねー……別にスケベな事を期待してたわけじゃないけど…………いや、全く期待してなかった訳じゃないんだけど………・・・
「ん? お前、いま、変な期待をしていなかったか?」
あはははは、「まさか、そんなわけないじゃないですか」
・・・……済みません、笑って誤魔化しましたが、少し、いや、かなり期待してました…………この人、感がいいな、というか、僕が表情に出しすぎなのか?・・・
僕は自分のスケベな期待に恥ずかしさを感じ頬に熱を感じていた。
そんな僕に対して「まあいい」と、伽凛師匠は興味がないように言いバーベルを準備する。
そして、「よし、始めろ」と、僕に指示を出した。
・・・まあ、僕のトレーニングをしてる訳ですからねー……ところで目隠しをしてベンチプレスをするのに何の意味があるんだろう?・・・
僕はそう思いながらも伽凛師匠が準備したバーベルを上げ始める。
・・・軽いな……最初のベンチプレスで上げた10キロよりも軽くないか? 筋トレで少し休憩した後もう一度同じ筋トレをすると最初少し楽に出来るような感じがすることがある。しかも今は目隠しをして力を集中しやすい状態だ。だからかな?・・・
僕は伽凛師匠の言うとおり回数を気にせずにバーベルを上げることだけに専念する。
その後、ベンチプレスだけでなくバーベルを使ったスクワット、デッドリフトを伽凛師匠がストップをかけるまで続け、ベンチプレス、スクワット、デッドリフトを5セットほどした頃、伽凛師匠に目隠しを外された。
「お前が今持っているものを見てどんな気持ちだ?」
「…………正直な気持ち困惑していると言うか、驚いてます」
僕はデッドリフトを終えバーベル持った状態で直立しているのだが、その手には500キロほどのウェイトプレートの嵌まったバーベルがあった。
何故こんなウェイトになっても気がつかなかったのかって? それは、伽凛師匠がウェイトを上げていたことは気がついていたが、やっているうちにバーベルを上げることが楽しくなったというか集中してしまったというか重さなど全然気にしなくなっていたのだ。
何か作業に集中して時間を忘れてしまうとの同じことだろう。たぶん………。
・・・というか、これ、本当に500キロあるのかな? 全然そんな重さに感じないんですけど……片腕でも簡単に持ち上げられそうな気がする・・・
等と僕が不思議な感覚に戸惑っていると、それが表情に出ていたのか伽凜師匠がニヤニヤしながら声を掛けてきた。
「どうだ? 頭が勝手に作っていた限界の壁を気づかずに突破していた気分は?」
「……ハッキリ言って混乱しています」
「だろうな、だがこれでお前の限界が見えなくなっただろ」
・・・今はまだ混乱の方が勝ってるけど、これ、多分、徐々に、というか、興奮する。だって、肉体から力が溢れてるのが脳に直に伝わってきて、この身体なら何でも出来るっていう、全能感、ていうのかな? それが半端ない。恐らく、今までそれを脳が拒んでいただけのような気がする。けど、この感覚、ちょっと収まるまで待たないと不味い気がする・・・
僕は両手に持つバーベルをゆっくりと床に下ろししゃがみ込む。
そんな僕を見て伽凜師匠は僕の頭を優しく撫で「興奮が収まるまでゆっくり休め」と言い近くにあるベンチに腰を下ろした。
道場のトレーニングマシンなどが置かれているトレーニング場の床にしゃがみこんで数分した頃、僕は手を握ったり開いたりした後ゆっくりと立ち上がり身体の動きを確認するように動く。
・・・やっと鼓動は落ち着き脳内の混乱も落ち着いたみたいだ・・・
僕が身体の調子を見ていると「やっと落ち着いたか」と伽凛師匠が立ち上がりながら声をかけてきた。
僕はその師匠の方に目をやりながら「はい。お待たせしてすみません」と応える。
この時僕は肉体から溢れる力による全能感により伽凛師匠にも勝てる、とまでは言はないが負ける気がしなかった。
「お前が無意識に押さえ込み澱んでいた気も流れ始めている。今ならその身体本来の力が出せるようになっているはずだ……だからと言って私に勝てるなどと思うなよ」
「とんでもない! 今の僕でも師匠に勝てるなんて思いませんよ!」
鋭い目を向ける伽凛師匠から殺気に似たものを感じ僕を両手を振りながら全力で否定する。こっわ! この人、人の心も読めるのか?
「……まあいい」と言い捨てるように言うと伽凛師匠の表情が一瞬だが変わった。
ほんの僅かな瞬間見せた表情だったが、その表情を見た僕は背筋に寒いものが走るのを感じた。
・・・何だったんだろう? 今の師匠の表情……ほんの一瞬だったけど……物凄く嫌な感じたがしたんだけど……僕の気のせいだったのかな?・・・
「本来なら突きや蹴り等の基礎から御雷神明流の基本的な受けの型、攻めの型等、時間をかけ順を追って教えていくのだが……お前には時間がない。ということで、今から御雷神明流の全ての型を見せる。手の動き、足の運び、受けや攻めの時の動き等々、私の五体の先から先までの動きは勿論、全ての動きをしっかりと見て一度で覚えろ。今のお前なら出来る筈だ。もし出来なかったら、分かっているな」
・・・この人、また滅茶苦茶なこと言ってくれるな。けど、最後の言葉に殺気を感じたのは、気のせいじゃないよなぁ……多分………一回で覚えられなかったら尻を蹴り上げられるだけじゃすまない気がする……・・・
等と思っているうちに伽凛師匠が動き出した。
淀みのないその動きは、ある時は水が流れるように柔らかく、ある時は何もかも切り裂く刃のように鋭く力強い。
それは美しい舞いを舞っているようで、ふとすればその美しさに目を奪われそうになる。が、それは今の僕にとっては命取りだ。
僕は必死になって伽凛師匠の一挙手一投足処か呼吸や筋肉の動きその内に流れ迸る気さえも見落とさないように呼吸をすることも忘れるほど集中して伽凛師匠を見続けた。
伽凛師匠は型を終えると、ふぅ、と息を吐き「そんなに見つめるなよ、惚れちまうぞ」と頬を染めながら言う。
・・・師匠……いろんな意味で冗談はよしてください……その上気した頬は御雷神明流の型を行ったことによるものですよね…………貴女にとっては頬が上気するほどの運動量ではなかったと思うのですが……・・・
僕が伽凛師匠の言葉に頬をひきつらせていると、一つ咳払いをして伽凛師匠は口を開いた。
「まあ、冗談はさておき、今からお前には私が見せた型を全てやってもらう」
そう言うと伽凛師匠は腕を組み道場の中央から僕に場を譲るように移動する。
・・・本当に一回見せただけで何も教えてくれないんだ……技も技術も全て見て盗めってか? 大昔の職人かよ!・・・
僕は心の内で愚痴りながらも諦めのため息を吐き師匠に譲られた場に立ち今見たばかりの御雷神明流の型を出来るだけ正確に再現する。
僕が伽凛師匠に見せられ再現させられた型は刀や棒、杖、サイ、ヌンチャク等武器を使ったものも合わせると数十に上った。
伽凜師匠が体感時間で1時間30分ほどかけて終えた御雷神明流の全ての型を僕は倍以上の時間をかけて終えた。
僕が、フー、と息を吐き型を終えると伽凜師匠が口を開いた。
「ほお、なかなかやるじゃないか。荒削りだが一見しただけで気の操作まで真似ることが出来るとはな。よし、その型全て私がやめと言うまで続けろ。相手が目の前にいるイメージをして実戦のつもりでやれ」
その伽凜師匠の有無を言わせぬ命令は僕に反論を許さず従わせるに余りあるほどの殺気にも似た圧力があった。
数十もある型をはじめの数セットは型一つ一つの動きや気の運びについてその意味を考える余裕もなくただただその動作を間違えないようにすることに意識を全て費やしていた。が、数セットもこなした頃、型の動作が身に沁み型の一つ一つの動作の意味を理解し対戦相手をイメージして動くことが出来るようになっていた。
それから更に数十セットほどこなした頃、型の動作と気を自然と合わせ実際に対戦相手がいるといえるほどの動きをするようになっていた。
その後は時間も回数も忘れ型ではあるが実際に敵がいるイメージの中に没入し実戦さながらに集中して受けや攻めの技を繰り出していた。
実際、その型は端から見たらただの型ではなく、その動きは対戦相手が見えるほどに研ぎ澄まされると同時に鬼気迫るものがあった。
「よし! やめっ!!」
その伽凛師匠の声に僕は、はっ、と我に帰り動きを止めていた。
「私も、ダメだなー。流石は次期生命の女神といったところか、これだけの才能を見せられると…………まだまだ全然未熟な果実だというのに少し噛りたくなってしまった」
僕が動きを止めた時、伽凛師匠は我が身を抱き締めるようにしながら呟いていた。
・・・この人、何言ってるんだろう?・・・
「よし、今度は私と乱取りをする。お前が思うように攻めてこい」
伽凛師匠はそう言うと両手を広げる。
その姿は無防備この上なかった。が、僕は攻め込むどころか間合いを詰めることすら出来なかった。
・・・何故だ? 隙だらけにしか見えないのに、殺気も感じないのに近づいただけで殺られる、そんな気がして近づけない・・・
「なんだ? 来ないのか?」
その表情は優しげで全く戦意がないようにしか僕には見えなかった。
・・・むしろ、それが逆に恐ろしく思える・・・
僕は背筋に冷たいものを感じながら伽凛師匠が発する全ての気配を全神経を使いよむ。
「来ないのなら、こっちから行くぞ……」
言うが早いか伽凛師匠が一歩足を踏み出した。ように見えた瞬間、僕は無意識に顔を横に向けながら引き身体を翻していた。
その瞬間、パァンッ!! と大気が爆ぜる大音響が響き一瞬聴力を奪われる。
僕は顔を引いた瞬間、凄まじい勢いで掠めていくものを鼻先に感じていた。
それは紛れもなく伽凛師匠の拳で、その拳の勢いに大気がついていけずに爆ぜたのだ。
体を翻していなかったら今頃鼻先の大気と一緒に僕の頭はスイカ割のスイカのごとくバラバラに爆ぜていたことだろう。って! あっぶねー! 反射的に顔を引いて身体を翻していなかったら死んでたぞ! この人、僕を殺す気か?!
僕は背中に冷たいものを感じながら身体を翻した勢いのまま更に伽凛師匠から距離をとっていた。
「ふむ、この程度はかわせんとな」
僕は伽凛師匠の次の攻撃をかわすために全身の全ての神経を使い身構える。
「創星、逃げてばかりでは終わらんぞ。私にカウンターでも当てなければな」
・・・それは攻めてこい、ということでしょうか? ついさっきまでど素人だった僕に化け物の貴女に対してどうしろと?・・・
「……お前、やっぱり度胸あるな。この状況で失礼なことを考える余裕があるとはな」
・・・師匠、やっぱり僕の心読んでますよね?・・・
「まあ、冗談はおいておいて、徐々にスピードを上げていくぞ……」
・・・冗談なのかい! ほんと、この人いろんな意味で怖いな・・・
「……前にも聞いたが、お前は次期生命の女神なのだから殺しても死なないんだったよな」
・・・勘弁してください! あの時は肯定しましたが、貴女の無理は僕には絶対無理です! 貴女に殺されたら、僕、確実に死にます! 多分……・・・
僕が心で悲鳴を上げると同時に伽凛師匠から殺気に似た凄まじいまでの圧力を感じる。が、チッ、と伽凛師匠が舌打ちするとその圧力は霧散する。
少しの間、伽凛師匠は腕を組みイラつくような態度をとっていたが、「分かってるさ! 私だって親父殿を怒らせたくない! 死なない程度に力を押さえるに決まっているだろ!」と言うと諦めたように息を吐く。
「射陰の奴が煩いから死なない程度にしておいてやる。お前も攻撃を返せるようなら返してみろ」
・・・さっきの独り言、突然何事か? と思ったけど射陰さんとテレパシーか何かで会話してたのか………射陰さん、有り難う御座います、僕、死なずにすみそうです。けど、半殺しの目にはあいそうな気がするのは、僕の気のせいであることを祈ります・・・
等と僕が考えている内に伽凛師匠は動いていた。
僕が気がついた時には左腕が吹き飛んでいた。
余りの突然のことに左腕が吹き飛んだ直後は痛みもなく何が起きたのか理解できなかったが、少しすると悲鳴も上げることが出来ないほどの激痛が左腕に走り身動きが出来なくなる。
「おいおい創星、油断してるんじゃないぞ。私は殺す気はないが、油断しているとお前死ぬぞ」
伽凛師匠の言葉に僕は激痛に堪えながらも背筋に冷たいものが走るのを感じた。
因みに僕の左腕は吹き飛ばされた直後、砕かれた骨や筋肉など時間を巻き戻すように引っ付き再生していた。
「……それにしても……高い再生能力は持っているだろうと思っていたが、ここまでのものとは思わなかったな。道場に張ってある結界の再生効果が発動する前に直ってやがる」
そう言うと伽凛師匠はニヤリと嗤い、「これなら少しは楽しめそうだ」と言う。
僕は左腕の痛みが和らぐのを感じながら「ご、ご勘弁……」と涙声で呟いていた。
僕はもう逃げたしたい気持ちで一杯だった。
「言っておくが、今のはスピードも威力も最初の正拳突きと同じだぞ。まだまだ、ここからスピードも威力も上げていくんだから気を抜かずしっかりと見て感じて動けよ」
それから少ししてやっと痛みが収まり僕は左腕の調子をみるように腕を動かす。
「痛みは収まったか?」
・・・この人、腕の痛みが収まるまで待っててくれたんだ。意外と優しいのかも……・・・
「はい、お待たせしてすみません」
「よし、今度からは待たんからな」
・・・えっ?! 何で? ……前言撤回、やっぱり、この人、鬼だ・・・
「実際の命のやり取りの場では痛かろうといって攻撃を待ってくれる敵はいないぞ。それどころかここぞとばかりに攻めてくる!」
「それは、その通りかもしれませんけど……だからといって、鍛練でここまでしないといけませんか?」
「何を言ってるんだ? お遊戯みたいなゆるい鍛練をしていて、実際の戦闘で身体が動くと思うか? 痛みで身動きがとれず大切なものを奪われるのを黙って見ていいたいのか?」
「それは………絶対に嫌です!」
「だったら、どんなに痛くてもどんなに辛くても動け! 痛み辛さに動きを鈍らせるな!」
「はい!」
「よし! 続けるぞ!」
「はい!」
僕は伽凛師匠の言葉に乗せられ、鍛練と言う名の拷問を数十時間受け続けることとなった。




