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透明に咲く花  作者:
1/1

邂逅

人間の世界において、認識され無いことは存在しないのと同義だ。


そんなことを思うようになったのはいつからだっただろうか。見えているはずなのに視ることができない、目の前に確かに存在するのに視覚することができない。風景に溶け込んでしまった名前のない何か、色で例えるなら無色透明なそれが僕の身体を蝕み始めてからもうずいぶんと時が経った。十人十色なんて言葉があるけれど、僕にはそもそも色がないのだ。僕はいるはずなのに僕の存在を示す色がない。もしかしたら僕の存在自体、本当は実在しないのかもしれない。そんな現実に怯えながら僕は毎日をやり過ごしている。死なない程度に、生き延びている。


要するに僕は中身のない人間なのだ。空っぽの、つまらない人間なのだ。よくニヒルを気取った子供が自分には感情が無くなってしまったなんて言うことがあるけれど、人間である以上そんなことあるはずがない。もちろん僕にも喜怒哀楽がある。だけど、僕は喜ばない、怒らない、悲しまない、楽しまない。なぜならそれを望まれたから。存在を主張するための色がない僕が、無色透明な僕が、唯一周りの人間に望まれたことだから。


存在しないことが、唯一存在を主張することになる。これはそんな空っぽな僕が経験した少し不思議な、けれどどこにでもありふれた物語。





※※※※※





夏の鋭い朝日がカーテンの隙間から差し込み、僕はその眩しさで目を覚ました。そばに置いてある目覚まし時計が7時5分前を指しているのを見て、まだ眠気で気怠い身体をゆっくりと起こす。


「おはよう」


僕は誰に聞かせるわけでもなく小さな声で呟いた。これは僕の日課であだ。挨拶は、それ自体は何か意味を持つ言葉ではない。だけどどの国にも挨拶と言うものはある。きっとそれは人間同士が気持ちよく過ごすために生みだされた、生きるための工夫なのだろう。だから人は挨拶をする。


「おはよう」


「こんにちは」


「こんばんは」


そしてこれらの言葉は大抵の場合、一人の人間から別の人に放たれ、放たれた言葉は相手から自分へと返ってくる。挨拶は呟くものでなく交わすもの。けれど僕には挨拶を交わす相手がいない。僕が放った挨拶は、誰からも返ってこない。そんなことは分かっている。わかりきっている。それでも僕は毎朝呟く。僕が僕に挨拶を交わさなければ、僕が僕に言葉を返さなければ、僕は自分の存在を自分で認識できなくなってしまうから。


制服に着替え僕は階下のダイニングへと階段を降りた。廊下を進みダイニングのドアノブに手をかけ、そしてゆっくりと深呼吸してからそっとドアを開ける。ダイニングではすでに藤原夫妻が朝食をとっている最中だった。珈琲の良い香りが鼻をくすぐる。けれどそこに僕の分の朝食はない。これは僕にとっての日常で、朝食だけでなく基本的にこの藤原家において僕の痕跡そのものがないのだ。僕はこの家には存在しない存在だから。


トーストを焼いて自分の分の朝食を作り始める。バターを塗ったトーストに、市販のドレッシングをかけただけのサラダ。それらをダイニングテーブルにつくことなく、キッチンに立ったまま牛乳で流し込み、僕はいつものように家を出た。





※※※※※






「あれからもう10年か…」


7月23日。天気は快晴で雲一つない青空がどこまでも続いている。夏の暑い日差しに目を細め、一学期を締めくくる終業式が行われる高校へと足を進めながら、10年前のことをふと思い出しだした。


当時8歳だった僕はどこにでもいる普通の子供だったと思う。少なくとも、挨拶をかわしてくれる友達もいたし、ご飯を作ってくれる母親もいた。父親も僕に優しかったと思う。そんな僕の家族が少し他と違うところがあるとすれば、それは母親が浮気性だったと言うことだろう。昔から男を取っ替え引っ替えしていたらしい母親は、父親と出会ってからも何度か浮気をして揉めていたらしい。けれどそんな母親も結婚してからは夫に尽くす良い妻であり、僕の優しいお母さんだった。あの日までは。


家から歩いて30分の公立桜坂高校、その2階3年1組の教室の窓際、一番後ろの席が僕の席だ。学校に着いてからも僕は一言も言葉を発することなく静かに席についた。自分の存在を消すことに慣れてしまった僕は、高校に上がってからも友達が出来るはずもなく、学校でもいつも一人で過ごしていた。


僕は所在なく窓から校庭を見下ろす。校門に立つ先生に元気良く挨拶をするひと、校庭で友達同士ではしゃぐひと、いろんな生徒がいる。僕も友達が欲しいと思ったことがないわけではない。けれど今更人とどう向き合えばいいか分からないし、何よりも、ずっと一人でいた僕は人と関わることが怖かった。


「はぁ……」



いつからこんなに何もない人間になってしまったのだろう……。そんなことを考えたところで仕方のないことなのだけれど。終業式の集合のチャイムが鳴り、僕は小さくため息をついてから体育館へと向かった。





※※※※※






放課後、僕は家に帰らずふらふらと町を当てもなく歩いていた。もともと人との交流が極端に少ない僕にとって、普通の授業日も夏休みもあまり変わらない。大学へ進学する予定のない僕は、暇な学校生活がなくなりさらに暇になるだけだった。だけどこの暇が厄介なのだ。暇は人間を殺す、だから人はスケジュール手帳を予定で埋めることに躍起になるのだ、なんて言っていたひとがいた気がするけどこれは本当だと思う。暇、つまり他にすることがないということは逆に言えば考えることしかできないということだから。僕はこの暇な時間に自分の存在について考えてしまう。自分は本当に存在するのか、もしかしたら僕は僕だけが存在していると勘違いしている幻想なんじゃないのか。勿論そんなことを考えたところで何かが変わるわけじゃない、けれどその考えは僕を無の恐怖に怯えさせるのには十分だった。自分の存在を自信をもって証明できない、無色透明、透明人間。誰からも相手にされず、日々自分から色が抜け落ちて行くのを感じる。僕はその恐怖をなんとかやり過ごしながら毎日を生きていた。


ーーーアナタナンテウマレナケレバヨカッタノニーーー


10年前の呪いの言葉を思い出した僕は、その言葉を頭から振り払う為に俯いていた顔を上げた。ちゃんと前を見て歩いていなかったから気がつかなかったけど、どうやら僕はかなり遠くまできてしまっていたらしい。少し休もうと辺りを見回したが、どうやら住宅地の中の方まできてしまったらしく喫茶店らしきものは見当たらない。仕方なく来た道を戻ろうと少し足を進めると、三叉路の角に骨董屋のショウィンドウがあるのが目に入った。そのショウィンドウに綺麗な懐中時計が飾ってある。別段特別な装飾が施されてるわけでもない、そのなんでもない懐中時計を僕は何故だかとても美しいと思った。そして、僕は吸い込まれるようにお店の中へと足を踏み入れた。






※※※※※





様々なものでごった返している店内の細い廊下を、商品にぶつからないように身を縮めながら歩く。目当ての懐中時計を見つけ、僕はそっと手を伸ばした。


「いらっしゃいませ」


背後から突然声をかけられた僕は驚きに体をビクリと強張らせ、伸ばしかけていた手を引っ込めて後ろを振りかえった。そこにはこの古びた骨董屋には似つかわしくない、腰まである真っ赤な長い髪を一つにくくった背の高い若い女の人が立っていた。


「こんにちは」


そう言って女の人は僕に、見た目に反してとても人当たりの良さそうな笑顔で笑いかける。けれど誰かに声をかけられることも、ましてや挨拶をされることも久しぶりな僕は、その女性の笑顔を見ながら固まってしまっていた。


「よく来たね」


そんな僕を不思議がることもせず、機嫌損ねる風でもなく、まるでそれが当たり前のようにお姉さんは僕に話しかける。


「ここはね、出会いの場所なのよ。人と人じゃなくて、人と物のね。」


「人と、物……?」


「人と物。ここにある物はぜーんぶ誰かを待ってるの。」


「待ってる?」


「そう。その懐中時計もそうよ。その時計、貴方にとってもお似合いだもの。」


「あの、でも…僕…お金…」


「お金なんていらないわよ。この時計は貴方を選んだ。それだけで十分だわ。」


「選んだって…僕を?」


「もちろん。」


そういうと、お姉さんは懐中時計へ手を伸ばし、僕にそれを優しく手渡した。僕はそっと懐中時計の蓋を開きーーー


それと同時に真っ白な光に包まれた。





※※※※※





砂漠。

そこは暗闇よりも怖い真っ白な世界。

僕はただひたすらに歩き続ける。

どこまでいってもなにもない。

なにも見えない。

冷や汗が一筋、僕の背中を流れ落ちた。

いつまで僕はここに独りで、ひとりぼっちで……。

ふと顔をあげると遠くに小さな人影がある。白い砂漠に紛れて消えてしまいそうな、真っ白なワンピースをきた髪の長い女の子。

そのワンピースとは対象的な、肩まである真っ黒な美しい髪を風になびかせ、彼女はこの世のものとは思えない程美しい顔で僕に笑いかける。

彼女の笑顔に導かれるように、必死に手を伸ばすけど、僕の指先が彼女に触れることはない。

どうか、どうか一度だけでも、一度でいいから……






※※※※※






「大丈夫?」


お姉さんの声に僕は我に返った。


「今の…何…」


「今のって?」


僕は何が起きたのか分からず、手にある懐中時計を見つめた。今のは一体何だったんだ?僕がみた幻想?白昼夢でもみたのか?夢にしては感じた不安や焦燥感が妙にリアルで背筋を冷や汗が伝った。


「あ、いや…何でもないです。」


「そう……でも無事に出逢えたみたいね。その時計は貴方にあげるわ。」


「え?」


「だってその時計、また動きだしたもの。」


お姉さんの言葉で僕は懐中時計の針がカチカチと小さな音を立てながら回っているのに気がついて目を見開いた。


「これ、止まってたはずじゃ……」


「そう。貴方を選んで、貴方に選ばれてその時計は再び動きだした。だからもう貴方はその時計の立派な持ち主よ。」


「持ち主…僕が?」


「ええ。さあ、それを持って帰りなさい。」


「ありがとうございます。」


「ああ、でも気をつけなさい。人と人との出逢いと同じで、人と物の出逢いも、必ずしも幸せをもたらすわけではないわ。その動きだした時計の時間が、貴方に幸せを運んでくれることを私は願っているから。」


「はい……」


僕は懐中時計を握りしめ骨董屋を後にした。






※※※※※





目もくらむ様な真っ白な砂の上に僕は棒立ちになる。

無音、無臭。

何も感じないのは僕の心が疲弊し切ってしまったからだろうか、それとも、本当にここにはなにもないからなのだろうか。

目の前には満面の笑みを浮かべるあの少女。彼女はくるりと僕に背を向けると、真っ白なワンピースをヒラヒラと靡かせながら踊るように僕から遠ざかっていく。

ああ、まって、まってくれ。君だけなんだ。

君がいなければ僕は、僕はひとりぼっちになってしまう。おいてかないで、僕を独りにしないで。

僕の叫びは声にならない。

僕の願いは君には届かない。

ダメなんだ。

どうやったって僕は君には近づけない。

悔しさに顔を歪めるが、乾き切った僕の瞳からは涙さえ流れやしない。

諦めかけそのとき、音のしないはずの世界で、ふふっ…。と彼女の笑い声が聞こえたような気がした。





※※※※※






「またこの夢か……」


浅い眠りから完全に目覚めると、身体はびっしょりと汗に濡れていた。僕はベッドから起き上がると机の上に置いてある懐中時計に手を伸ばした。この時計を手にしてから、毎晩同じ夢を見るようになった。何もない砂漠に真っ白なワンピースを着た少女。夢の中の僕はいつも孤独に飢えていて、そして少女に触れることを渇望する。あの少女は何を望んでいて、そして夢の中の僕が何をしたいのか、それはまだ分からないけれどこの懐中時計と関係があることだけは確かだった。


僕は懐中時計の蓋をそっと開き文字盤を見つめた。時計はローマ数字と秒のメモリで時間を示すごくありふれた懐中時計で、文字盤の上を滑るように秒針が回っている。


「人と物との出逢い……」


この懐中時計との出逢いが僕に一体なにをもたらすのだろう。そしてそれは僕を幸せにするのだろうか……。そんなことをぼんやりと考えながら僕は支度をして懐中時計を手に家を出た。





※※※※※





基本的に家にいづらい僕は夏休みでも家の外に出る。もちろん外に出たところで何かするわけでもなく、ただ当てもなく歩くだけなのだけれど。今日もいつものようにふらふらと町を歩いていた。空は厚い鼠色の雲に覆われていてこの時期にしては少し涼しい。僕は雨が降り出さないことを祈りながらゆっくりと足を進めた。


目の前の信号が赤になり、僕は横断歩道の前で立ち止まる。この町はそんなに小さいわけではないけれど、偶然なのか僕以外周りには人がいなかった。まるで僕だけが世界から取り残されたみたいだ、なんて馬鹿げたことを考えて僕は誰もいない道路で自嘲気味に笑った。もともと独りでいるようなものじゃないか。誰にも相手にしてもらえないんだから。ああ、だけどそういえばあの骨董屋のお姉さんはすぐに僕に挨拶をしてきてくれたっけ。久しぶりに人と話したな。そんなことを考えながら僕は信号が青に変わった横断歩道を渡り出す。歩き始めてーーー


けれど横断歩道を渡り切ることは叶わなかった。 それまで自分以外誰もいなかったはずの横断歩道に突如、ものすごいスピードで灰色のワゴン車が向かって来たからだ。危ない、そう思った時には遅かった。恐怖で身体が動かなくなってしまった僕にワゴン車は容赦無く突っ込んでくる。ワゴン車とぶつかる寸前、ああ、このまま本当に世界から消えてしまうのか、と僕は諦めて目を閉じた。





※※※※※





強くつむった瞼の裏に映ったのは、真っ白な世界。

僕に背を向けて歩いていた彼女がふわりとこちらを振り向き、ニコリと微笑む。

しかし、僕はその顔を見て目を見開いた。

笑っているはずの彼女の左目からつうっと、一筋の涙が零れ落ちたからだ。

その顔が、今までにないくらいリアルで、僕の方まで泣きそうになってしまう。

どうして?

なんで、君はそんなに悲しそうに笑うの?

動揺した僕は慌てて彼女を抱きしめようと手を伸ばす。

大丈夫。

怖くないよ。

悲しまなくていいんだよ。

そう伝えたくて。

けれど僕の両腕が彼女を包み込もうとしたその瞬間、彼女は僕の腕をするりとすり抜けて、また遠くへ行ってしまった。

まるで、僕から逃げるように…。

ああ、君は…君はいつもそうやって…。





※※※※※





衝撃に身構えていた僕は、いつまでたってもそれがこないことを不思議に思い、閉じていた瞼をそっと開いた。開いて、驚いた。信号の色は赤、僕はまだ横断歩道を渡る前の位置に立っていた。ワゴン車も見当たらない。


「こんにちは。」


わけがわからず混乱する僕は、背後からかけられた声にさらに驚き慌てて振り返った。視線の先に一人の少女が立っている。真っ白なワンピースに黒くて綺麗な長い髪。その少女は紛れもなく夢の中のあの少女だった。


「なんて間抜けな顔をしているんですか。」


驚きを隠せない僕を呆れたように見やり、少女はため息をついた。


「な、なにが……」


起きてるの?僕がそう聞く前に少女はじっと僕を見つめて、そしてはっきりとこう告げたのだった。


「貴方を殺しに来ました。」





※※※※※

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