藤崎蜜子と福袋
年が明けた。
とはいえ大騒ぎしているのはテレビの向こうの芸能人たちばかりで、僕自身は何も変わらない。僕だけじゃない、誰も彼も、世界ですら、何も変わらない。実はこの一年間は全て夢で、本当は今から二〇一四年が始まるのだと言われても「あ、そう」って感じだ。
その証拠に僕は去年と同じ時間に、同じ格好で、同じ神社に初詣に行こうとしている。
「初詣ぇ? 後片付けがあるんだから行けるわけないでしょ。お父さんでも誘えば?」
「母さんが行かんのなら俺も行かん。妹と行け」
両親の言葉だ。二人ともこたつから出る気配がまるでなかった。
「初詣? 嫌です。そもそも元旦でなくとも、年の初めであればたとえ春でも夏でも初詣になるんです。元旦零時に行く理由もメリットもありません。あれは一種の集団ヒステリー。無意味。ナンセンス。つまり嫌です」
妹の言葉だ。誘ってもないのに目があっただけでこれだ。
去年も全く同じやり取りをした気がする。やはりまだ二〇一四年なのかもしれない。
『あの、もしよかったら一緒に初詣に行きませんか? 僕、実は毎年行ってて、だからってわけじゃないんですけど、藤崎さんも、もし行くなら一緒に、あの、本当、気が向いたら……あ、寝てたらすいません』
藤崎さんに至っては誘っても無視だ。ある意味これもいつも通りだけども。
そんなわけで、僕は年の明けた実感もないまま、身体にこびりつく去年という死骸を引きずりながら夜道を歩いている。
人通りはほとんどない。深夜ということもあるだろうけど、年々減っている気がする。やはり妹の言うように、元旦に初詣に行くなんてのはナンセンスなのだろうか。
ふと、僕は足を止めた。
街灯の下に誰かが立っているのが見えた。
しんとした夜の闇に、真っ赤なロングコートがやけに目立つその人は、顔だけをこちらへ向けた。
「あら、ウィルソンくん。奇遇ね」
聞き慣れたその声に、僕は丸めていた背を伸ばした。
驚きとも安堵ともつかない感情が、白い吐息となって漏れた。
「……伊藤です。新年早々間違えないでください」
「ウィル藤くん」
「伊藤です」
「ウィ藤くん」
「非常に惜しいです。発音的には」
もはや恒例となったやり取りをしつつ藤崎さんに歩み寄った。
変わらない。人の誘いは無視するくせに、気づけば僕の行く先に立つ藤崎さんもちっとも変わらない。
でもそれでいいんだ。年の明けた実感なんてどうでもいいんだ。また藤崎さんとの一年が始まるんだ。今年が何年だろうと大した問題じゃないんだ。
「藤崎さん、ひどいですよ。一緒に行ってくれるなら、メール返してくれればいいのに」
「いいえ、たまたまよ。あなたの言うその、なんとかかんとかファイナル初詣とやらはちんぷんかんぷんだったもの」
「勝手に幻聴部分足さないでください。じゃあこんなところで何やってるんですか」
「待っているの」
「待ってるって……なにを?」
藤崎さんは何も言わず、手に持った封のされた赤い紙袋を僕の前に掲げた。袋には大きな字で【福】と印字されている。
「これ……福袋?」
「そう。正しくは【福袋】と呼ばれるものよ」
「なんでちょっと間違ったみたいにされたんですか僕。え、ていうか、さっき日付変わったばかりですよね。福袋なんていつ買ったんですか?」
「去年よ」
「致命的な物持ちの良さですが」
「でもね、来ないの。ずっと待っているのに」
「だから来ないって何がですか」
「福よ」
藤崎さんは、当然でしょうと言わんばかりの透明な眼差しで僕を見据えた。
絶句した。まさか新年早々、家から出て五分のところで絶句するとは思わなかった。
「いや、あの、えーと」
「生理は来るわ」
「大丈夫、聞くつもりなかったです」
「月に四回来るわ」
「来すぎ」
「毎週月曜日に、暗殺教室を読んでると来るわ」
「それは医師か松井優征先生に相談してください」
「でも福は来ないの」
どうも真剣に言っているようだった。僕は一つ小さく咳払いし、口を開いた。
「あの……えっと、福袋って、持ってたら福が来るものじゃないんですよ?」
藤崎さんは目を見開き、かすかにのけぞった。
「……初耳鼻だわ」
「鼻は置いときましょう。耳だけで意味通じますから」
「耳初めだわ」
「なにちょっと正月にちなんだ間違い方してんですか。ていうかもう絶対初耳って言葉知ってますよね」
「ではこの袋は、何をするためのものだというの」
「普通に開ければいいんですよ。そういうものです」
藤崎さんは信じられないというように、袋と僕とを交互に見た。
「いったい何が入っているの」
「それは開けて見てのお楽しみ。何が入ってるかを楽しむのが福袋なんですから。あっ、せっかくだからここで開けましょうよ。今年最初の運試し、みたいな!」
「もし中身が猫だとしたら、もう」
「怖いこと言わないでください。大丈夫です、猫は入ってませんから」
「では、いかなるものが入っているの?」
「えっ、……と、どこで買ったかにもよるんですけど、だいたいは服とか、ちょっとした家電とか?」
「まあ、まあ、まあ」
藤崎さんはその場で小さく飛び跳ねた。
「心躍るわ」
「でしょ? 買った値段よりちょっといいもの入ってたりもするんですよ」
「胸高鳴るわ」
「でしょでしょ? 福袋でしか買えないものとかもあったり!」
「是が非にも素敵だわ」
「ね? ね? 開けちゃいましょうよ!」
「開けてしまうわ。俺っち、服やちょっとした家電が大好きだもの」
「一人称が急に田舎からの転校生みたいになったのはさておいて、開けちゃいましょう。良い物が入ってますよ、きっと!」
「こんなことならもっと早く開けるべきだったわ。どうせ興味もない野球関連のグッズしか入ってないと思い込んでたから」
「あはは、そんなわけないじゃないですか~! あ、ちなみにそれどこで買ったんですか?」
「落合博満記念館」
「開けない方がいいです」
「どうして」
「多分がっかりします、いや絶対」
「なぜ? 中身がサインボールとか色紙や落合流コーチング理論の書籍でない限り、がっかりして自害したりしないわ」
「絶対開けちゃダメです。むしろ買ったことすら不幸な事故です」
「ずいぶん言うわね。けれど落合のサイン入りドライヤーが入っている可能性がまだあるのではなくて?」
「もう勝てない勝負って薄々勘づいてるじゃないですか。やめましょう、そっとしておきましょう」
「そう、少し残念だわ。でもそういうことなら仕方ないわね。――はい」
藤崎さんはそう言って、唐突に僕に袋を押しつけてきた。
「えっ、あの、これ」
「あげる。私にはもう用がないもの」
僕に福袋を無理やり持たせると、藤崎さんはすたすたと歩き出した。
「えっ、あ、あのっ、待って、どこへ行くんですか」
「あなたが言うところの初詣よ。早くなさい、冷えてしまうでしょう――」
言い終わる間もなく、ふわりと白い一片が僕らの間に落ちた。それは間もなく群れを伴って、空の闇からいくつもいくつも降り注いだ。「あら」と言って藤崎さんは僕に向き直った。
「雪よ、ウィルソンくん。傘を出してちょうだい」
「傘……すいません、僕もってきてないんです。まさか降ると思ってなくて……」
「おとぼけね。そこに入っているでしょう」
「――へっ?」
藤崎さんは僕の持つ福袋を指さしていた。半信半疑で袋に手を突っ込むと、中から赤い折りたたみ傘が出てきた。
「少し小さいけれど、仕方ないわね」
傘をさすなり、藤崎さんが隣に入ってきた。
「いきましょう」
白い吐息が顔の産毛を撫でた。かすかに甘い香りがした。気を失ってしまいそうなほど藤崎さんが近い。傘の柄をもって歩く藤崎さんに引っ張られるようにして僕は歩いた。藤崎さんが動く度に、喋る度に、痺れるような甘さが脳天を貫いた。
そこからのことはまるで覚えていない。藤崎さんに何か話しかけられても、ぜんぶ上の空だった。
とにかく僕はその距離が、藤崎さんの体温すらも感じられそうなその距離が、去年とも一昨年とも違うその距離のことだけを考えていた。左肩につもる雪の冷たさぐらいでは、傘の中の温もりに水を差すことすらできやしなかった。
*
「あ、あのっ」
初詣を終えた僕は、やっとのことで声を絞り出した。
「今日は、その、ありがとうございます……じゃなくて、えっと、これからも、今年も、よ――よろしくお願いします」
「無論。――では、私の家はこっちだから」
そう言って藤崎さんは僕に背を向け、傘から出ていった。
「あ――あのっ、藤崎さん」
その背にすがりつくように言う僕を、藤崎さんは上体だけをひねって見た。
「ほ、本当にいいんですか、福袋、もらっちゃって! 待ってたら、福が来るかも知れないですよ!」
藤崎さん振り向いたその姿勢のまま、眉を少し上げ目を細めた。
「来なくても構わないわ」
「どうして?」
「あなたが来たじゃない」
降りしきる雪の中、コートを炎のようにはためかせながら歩く藤崎さんの後ろ姿を、見えなくなるまで僕は眺めた。
身体の芯まで冷えそうな夜の中で、傘を握る手だけがやけに熱かった。
――今年はきっと、いつもと違う一年になる。
そんな確信が僕の中で確かに燃えていた。
*
家に帰って福袋を開けると、野球のボールとコーチング理論の本が出てきた。
その全てに「落合」とサインがしてあった。
藤崎さんの筆跡だった。