藤崎蜜子と真夏のイチャラブ肝試し 後
全身が総毛だった。凄まじい悪寒がつま先から脳天まで稲妻のように走った。
――ここにいてはいけない、戻らなくては。
咄嗟に踵を返し、元来た道を引き返そうとしたそのとき、前方から、ぎいい、といびきのような音が聞こえた。
思わず足を止め、廊下にライトを向けた。何もない。藤崎さんも誰の姿もない。
今度は、がた、がた、と何かを動かすような音が断続的に響いた。廊下からではない。廊下に面した教室の中から聞こえた。
心臓が早鐘のように鳴った。浅い呼吸を繰り返しながら、首を振って恐怖を振りほどこうとした。
ぎいい、という音。余りに普段聞き慣れすぎていて、咄嗟にそれが何なのか理解できなかった。いや、理解を拒んでいた。しかし心はとっくに認めていた。僕はあの音を知っていた。でもそんなはずはない。あの音が、ここで鳴って良いはずがない。
あれは椅子の音だ。椅子を引いたときの音だ。
教室の中にいる誰かが、立ち上がったときの音だ――。
僕は闇を掻きながら、踵を返した。背後で、がらら、と教室のドアが開く音がした。ライトは向けられなかった。怖くてとてもできなかった。
ここから出よう。帰ろう。戻ろう。
頭の中はそれだけだった。
L字型の旧校舎は、その両端に階段がある。僕は上がってきたところは逆の階段を目指し、カーブを突っ切った。
足音は容赦なく僕を追いかけてくる。僕はライトで前方を照らすのも忘れ、手足を動かした。老朽化した木造の床が、今にも抜けんばかりに撓み、軋む。恐怖と焦りで、足がもつれる。僕は何度も転びかけながら、必死に駆けた。止まれるわけがなかった。僕を追う、何者かの気配は、もはや背中に息がかかるほどに迫ってきていた・
薄闇の中、とうとう階段の踊り場が見えた。僕は最後の力を振り絞り、身体ごと投げ出すように階段に向かってジャンプした。
「――こら」
その声とともに、襟首を後ろに引っ張られた。ぐええ、とヒキガエルのような声を漏らし、階段まであと一歩というところで、強かに尻餅をついた。
「恋人から全力疾走で逃げるなんて、感心しないわね。ウィルソンくん」
恐怖と焦燥と尻の痛みでないまぜになった意識に、透明な声が刺さった。藤崎さんだ、今度こそ、間違いなく藤崎さんの声だった。
見ると、腕組みをした藤崎さんが仁王立ちで僕を見下ろしていた。
「ふ――藤崎さん、よかった、無事だったんですね! は、早く逃げましょう、幽霊が、幽霊が追いかけてくるんですよ! 僕もう少しで追いつかれそうに――て、あれっ、でも、僕を追いかけてたのが藤崎さんなら……幽霊は……?」
「失礼ね。いつだって生身よ、この藤崎蜜子はね」
「へっ、えっ? じゃあ、僕は藤崎さんから逃げてた、ってこと?」全身からどっと力が抜けた。「なんだ、もう、やめてくださいよ。本当にビックリしたんですからね」
「わかったなら立ちなさい。来るわよ」
藤崎さんはつま先で落ちたライトを器用に弾き上げると、空中でそれを掴み、元来た廊下を照らした。
「今まであなたを追いかけていたのは確かに私。けれど、今から私たちを追いかけてくるのは、私じゃないの」
「へ――?」
答えを待つ前に、前方の廊下が一つ大きく軋んだ。軋みは一つ、また一つと近づいてくる。ライトを向けたその先で、ぼんやりとした光が、ぽう、と揺らめいた。
「ひ、ひ、人魂!? に、逃げましょうよ、今度こそ幽霊ですよ、藤崎さあん!」
「何を言うの。死体の持ち主が向こうから来てくれるのなら好都合。探すのを手伝ってお礼を一割もらいましょう。どこがいいかしら。動脈? 静脈?」
「どこだっていいから早く逃げましょうってば! ねえ、藤崎さ――うっ!?」
突然、目を開けてられないほど強烈な光が、僕と藤崎さんを照らした。
「――こォら、お前ら。何やっとるんだこんなところで!」
しゃがれた怒号が耳朶を打った。
光の向こうに、よれたシャツに身を包んだ初老の教師の姿が浮かんだ。
「えっ、あれ、幽霊……じゃない?」
「誰が幽霊じゃ、馬鹿たれが。騒がしいと思ったら、またこんなところで夜遊びしおって。危ないから入るなと言われとるだろう。大けがしても知らんぞ、ほれ!」
言って初老の教師は階段の先にライトの光を投げた。
照らされたその先を見て、僕は絶句した。
階段は途中で朽ちて抜け落ち、その底では砕けた木材の破片が、肉食獣の牙めいてこちらに突き出していた。
僕と藤崎さんはしばらく、その抜け落ちた階段を眺めていた。
もし、あの時、藤崎さんが僕を止めなかったら。
もし、あのまま、ここに落ちていたなら。
そう思うと背筋を寒くせずにはいられなかった。
「こら、呆けてないでさっさと出るぞ。親御さんには内緒にしといてやるから」
「ええ、ごめんなさい」
「なんだ、こんな人気のないところで、彼氏とイチャついとったんか? ん?」
「そうよ。結婚を前提とした肝試しだったのに、ケチがついてしまったわ」
冗談とも本気とも取れる表情の藤崎さんを、教師は一瞬不思議そうに見たが、すぐさま一笑に付した。
「おもしろい子だな君は! こういう子は大事にせんと行かんぞ、ぼうず、ほら、いつまでもへたってないで、しゃんと立って歩け!」
「あ、はい、すいませ――」
立とうとしたその時、人差し指に何かが触れた。
僕は闇に目を凝らし、薄く光を反射するそれを拾い上げた。
「なんだ、これ……?」
それは薄汚れ、ところどころサビの目立つ、雪の結晶のような形をした金属だった。ボタンのようにも、アクセサリーのようにも見えた。
「行きましょう、ウィルソンくん」
「あ、待って――」
僕は拾い上げたそれをポケットに突っ込むと、藤崎さんたちの後を追った。
*
「それじゃあな、ワシはまだ悪ガキがおらんか見回りしていくから。お前らは真っ直ぐ家に帰るんだぞ、わかったな?」
「――帰る前に、ひとつ、聞いてもいいかしら」
旧校舎の入り口で教師に頭を下げ、帰ろうとした瞬間、藤崎さんが口を開いた。
「ここで昔、自殺したという女子生徒について、何か知らないかしら」
藤崎さんがそう言った途端、教師の顔つきが変わった。
優しげな眉間に無数のシワを寄せ、絞り出すように言った。
「あの子は自殺なんかじゃない。殺されたんだよ、あの子は」
ぶるぶると唇を震わせながら、彼はゆっくりと少女について語り出した。
かつてこの学校に雪子という少女がいた
特別に勉強ができるわけでもなく、運動ができるわけでもない、友人もそれなりで、成績もそれなりの、どこにでもいる少女だった。
だから、彼女はいじめのターゲットとなった。
どこにでもいる少女に味方をする人間はいなかった。
彼の友人も、教師も、彼女を助けるメリットとリスクを天秤にかけ、その結果、世界に掃いて捨てるほどいる、どこにでもいる少女を一人、見捨てることにしたのだ。
いじめはエスカレートしていった。人の出入りの少ないこの校舎に呼び出されては、毎日、毎日、誰の助けも、救いもない、孤独な地獄を、毎日。しかし彼女は生きることを諦めなかった。学校に毎日来たし、授業にも真面目に取り組んだ。
なのに――。
教師は、歯を食いしばり旧校舎をきっ、と睨んだ。
「――夏休みに入ろうというある日、いじめ連中があの子の大切にしていたブローチを盗み、この校舎に隠した。その事実を告げられたあの子は、みんなが帰る中、一人残ってブローチを探し続けたんだ。お母さんからもらった、大事なものだったらしい」
「み、見つかったんですか?」
「……さあな。それを知る前に、あの子は死んでしまった」
「えっ、どうして」
「事故だ。ブローチを探している最中、誤って階段から転落し、頭を強く打ったらしい。夏休み明けに、あの子の死体は見るも無惨な姿で発見された」
彼は、僕らに背を向けた。
「もしかしたら、しばらくは意識があったかもしれん。声を涸らして助けを呼んでいたのかもしれん。見回りさえしっかりしていたら、助けられたかもしれん。しかし生徒はおろか、教師すら、いじめの現場に鉢合わせするのを嫌って、ここに近づかなくなっていたんだ。やがて夏休みに入り、B棟校舎の施錠を命じられた若い教師は、中に誰かいるかも確認せず、鍵をかけてしまったんだ。……あの子は自殺じゃあない。あの子は殺されたんだよ、生徒と学校と教師にな」
そこまで言うと涙声をごまかすように、ひとつ大きく咳払いをした。
知らない少女のはずなのに、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
ふいに、ポケットの中でちくりと、何かが僕の足に触れた。
「さあ、もうこんな話はいいだろう、子どもは帰った帰った!」
「あの、先生っ――」僕はポケットから、さっき拾った金属のアクセサリを取り出した。「その……ブローチっていうのが、どんなものかわからないですけど、これ、拾ったんです。さっき、階段のところで……」
「それは――」
教師はしばらく驚いたようにそれを眺めていたが、やがて震える指でそのアクセサリを受け取ると、おもむろに胸にかき抱いた。
「おお、おお、おお」
大粒の涙が、彼の頬を幾条も伝い、声のならない嗚咽が、夜の静寂を震わせた。
「見つかったんだな、君が、見つけてくれたんだな。ありがとう。本当に、ありがとう。あの子も少し救われる。これはワシが、渡しておくよ」
そういって、教師は、深く、深く頭を下げた
*
旧校舎の見回りに戻った教師のライトが、ゆらゆら揺れるのをしばらく眺めてから、僕らは帰路についた。
校舎を出てから藤崎さんはずっと上の空だった。何か納得いかないような顔つきで虚空を見つめている。
肝試しに邪魔が入ったことに怒っているのだろうか。教師から少女の真相を聞いてから、一言も口をきいてない。白冴えた横顔と、担いだワイヤーカッターが、実に剣呑な輝きを放っていた。
「――ウィルソンくん、ひとつ聞くわ」
視線を虚空に据えたまま、有無を言わせぬ口調で藤崎さんが言う。
「あなた、廊下で誰と喋っていたの」
「えっ」
「とぼけても無駄よ。あなた、誰かと話しながら廊下を歩いていたじゃない」
「いや、誰って……違うんですよ、制服を着てて、髪が長い人がいたから、僕はてっきり藤崎さんだと思って……っていうか、藤崎さんはどこにいたんですか?」
「ウィルソンくんが出てくるまで、教室で座って待っていたの」
「えっ、あの暗い教室で、ライトも持たずに一人で!?」
「質問をしているのは私よ、ウィルソンくん。あなたは、いったい、だれと話していたのかしら」
横目にじろりと僕を睨みながら、肩に担いだワイヤーカッターをカチカチと鳴らした。
まさか、嫉妬しているのだろうか、この人は。僕が他の女性と喋っていたから。
「ちょ、ち、ちがっ、だから僕は、藤崎さんだと思ってたんですよ! でも、藤崎さんが教室にいたんだとしたら、僕が追いかけていたあれは――霊、幽霊だったんだ……」
「ほう、相手が霊なら浮気じゃないとでも?」
「いや相手が霊なら浮気じゃないでしょう! だって、霊、霊ですよ? どうやっても浮気にならないじゃないですか!」
「アドレスも携帯電話も、休日何してるとかも聞いてないのね?」
「聞いてないし聞き方もわかんないし休日も平日もだいたい死んでるだろうし!」
「どこ住みぐらいは聞いたのではなくて?」
「聞いてどうするんですか。霊にどこ住むも何もないでしょう!」
「どこ死にも?」
「なんだそのこの世で絶対使い道のない言葉! だいたい聞くまでもなくあの校舎ですよ!」
「本当に、何も話していないのね」
「だからそう言っているじゃないですか……。あの霊は、ただ僕の前を歩いてただけなんですよ。あの階段のところに行こうとしてたから、もしかしたら、僕に何か見つけてほしかったのかもしれないけど……」
「ふうん、そう」
藤崎さんはそう言うと、徐に目を細め、リズミカルに肩を上下させた。表情にさっきまでの剣呑さはなく、むしろ微かに笑みすら滲んでいた。
「ふふふ。ウィルソンくん。ふふふ」
「何をニヤニヤしてるんですか……さっきまで怒ってたくせに」
「私、許すことにしたわ」
心底愉快げに藤崎さんは言う。
「ウィルソンくんを私から取り上げた挙げ句、同情を引いてあんな場所に連れて行こうとしていたのなら、これはタダじゃおかないと思っていたけれど、ふうん、そう。何も言わなかったのね。ふふふ、そうなのね」
そう言うと、藤崎さんは横合いから僕の顔を覗き込んだ。
「ねえ、気づいているかしら。今宵、藤崎蜜子は鼻高々よ」
「だから何がですか……藤崎さんが何言ってるのか、全然わかんないですよ。あの霊のことも、本当に、今夜はさっぱりわかんないことだらけだ……」
「気にするだけ無駄よ。彼女たちには、もう二度と会うこともないもの」
「彼女……たち?」
藤崎さんは何も答えず、ただ楽しげに肩を揺らしただけだった。
*
夏休みが明けて、僕はあの日旧校舎で会った教師を訪ねた。
迷惑を掛けたことを一言詫びたかったのと、なんとなく、もう一度会っておきたかったからだ。
しかし、それは叶わなかった。
誰に聞いても、そんな先生はいないと言われた。
それどころか、老朽化の進んだ旧校舎は、見回りなどとても出来る状態じゃないため、長らく閉鎖されているということも聞いた。
僕があの日出会ったあの教師は、少女のことを話してくれたあの人は、いったい誰だったのだろう。
肝試し以降、旧校舎にまつわる噂もぱったりと途絶えた。人魂を見たというものも、少女の啜り泣く声を聞いたというものも、全く現れなくなった。
かわりに、新しい噂が一つ増えた。
「おい伊藤、聞いたか旧校舎のシザーウーマンの話! 南京錠もぶち切るぐらいでっけぇハサミを持った女が全力疾走してるってよ、やべーなオイどうなってんだこの学校!」
僕は、真相を話すべきか迷っている。