藤崎蜜子と携帯電話と木こり
藤崎さんと付き合っていることがバレた。
その事実を僕が打ち明けたのはたった一人だけれども、相手が相手だけに、翌日には校内全員に知れ渡っていた。
それについては予想していたし、当然来るであろう冷やかしや茶化しも覚悟してはいたけれど、意外ながらそういうのは全然なかった。というより、みんな僕に興味をもったみたいだ。あの藤崎さんとつきあえる人類がいたのか、という意味で。
彼らの好奇心はどうやら、皆は僕に横やりを入れる方向ではなく、なるべくストレスを与えないように、蚊帳の外から僕を観察する方向にいったようだ。ちょうど、実験動物のモルモットを眺めるような心境で。
当事者である僕はもう完全に開き直っていた。
どう思われようと、陰でなんと言われようと、僕は世界でただ一人、藤崎蜜子の彼氏なわけだし、実際僕は彼女のことが好きだし、気づいたら好きになってたし、もうそれ以上でもそれ以下でもない。
藤崎さんの方にも少し心境の変化があったようで、校内でも僕に声を掛けてくるようになった。
「ウィルソンくん、正門にカナブンがとまっていたわよ。二匹」
……その内容は、ほとんど死ぬほどどうでもいいことだったけど。
あともう一つ大きな変化として、僕たちは一緒に帰るようになった。
あとでわかったことだけど、彼女はやっぱりあの三叉路で僕を待ち伏せていたらしい。
どんだけ暇なんだ。
その必要がなくなった今、藤崎さんは、正門に寄りかかって僕を待つようになった。
今日も、もちろん。
「あ、藤崎さん、藤崎さーん。すいません、終礼が長引いて、待たせちゃいました」
「――ええ、まあ、そうね。そうかもしれないわ」
この日藤崎さんの様子がいつもと違った。
いつもなら声を掛けたら、小首を傾げながら微笑みを返してくれるのに、この日は正門に寄りかかったまま、虚空を見ながら一人で喋っていた。彼女にとってその行為は余りにも異質で、手に持っているのが携帯電話だということに気づくまで少し時間がかかった。
「ええ。はい。そうよ。うん。イエス。ヤー」
僕にまったく気づいてないらしい。彼女の目の前に回り込んで、手を振った。
「あら、ごめんなさいね。知っている類の人間に話しかけられたわ。――あら、ウィルソンくんじゃない、どうしたの?」
「伊藤です」
「ウ伊ルソンくん」
「無理やり組み込まなくていいです。……えっと、それ、携帯電話ですよね。買ったんですか?」
「そうよ。両親を担保に入れて契約したわ」
「悪夢みたいなぼったくられ方してますけどまあそれはいいとして、えっ、買ったなら教えてくださいよ。僕の携帯番号、こないだ教えたじゃないですか」
件のチャット事件のあと、藤崎さんが携帯電話に興味をもったので、買ったら教えてほしいと番号を書いて渡していたのだ。
「ひどいなあ、待ってたのに。それに、いま誰としゃべってたんですか?」
「気になるのかしら」
「そりゃあ。まあ。その。僕は。恋人だし。……藤崎さんの」
「木こりよ」
「……木こり?」
「そう、木こり」
「木こりってあの木こりですか? 山とかにいる……そんな知り合い、いたんですか?」
「あら、疑っているのね。では逆に聞くけれど、ウィルソンくん、あなたの(血の)電話帳には、いくつ(血の)メモリーが入っているの?」
「いちいち宿命っぽくしないでください。友だち少ないといっても、それでも五十人ぐらいは携帯に入ってますよ」
「その中の一人でも木こりでないという保証はある?」
「……いや、ほとんどこの学校の生徒なんだから、木こりじゃないでしょ」
「でも全員の現状を完璧に把握できてはいないわよね。番号を聞いたときは木こりでないにしても、今、この瞬間、木をこっていないという保証はございま?」
「えっ」
「ございま?」
「……せん」
「そうね。私の木こりもそういう木こりよ」言って、藤崎さんは再び携帯電話を耳に当てた。「ごめんなさい、お待たせしてしまったわ。ええ、そうよ。あなたそう仰るそのそれと、あれしていたの」
「やけにぼやかすなあ……」
「え? 急に何てことを聞くの。そうね、私も余り詳しくはないけれど、海の幸だと思うわ」
「いったい何の話なんだ」
僕を無視して木こりと楽しそうに話す藤崎さんを見てると、胸の奥に余りに馴染みのない感情がわだかまった。そいつは僕の身体の内側で出口を求めて好き放題に跳ね回る。自分の身体が、音の鳴らない鈴にでもなった気分だった。
「(藤崎さん、藤崎さん)」身振りで藤崎さんに存在をアピールする。「(木こりと、何の話をしてるんですか?)」
「気になる?」通話口を指で押さえながら藤崎さんが言う。僕は頷いた。
「パソコンは海の幸か山の幸のどっちだ、と聞かれたわ」
「絶対獲れないと思いますよ。どんだけ欲しいのか知りませんけど」
「ウィルソンくんも木こりに興味があるの?」
「……まあ、ないといえばウソになりますけど」
「ウソを言えば、ないのね」
「あります」
「ふふ。じゃあ、木こりとお話させてあげようかしら」
「えっ。だ、大丈夫なんですか? 僕に電話かわっても……」
「忍法の話はしてないわ」
「僕もしたつもりないです」
「忍法電話がわりの術の話をしたじゃない」
「なんですかそれ」
「まず携帯電話と丸太を入れ替え、次に私の携帯とウィルソンくんの携帯が摩り替わり、慌てふためくウィルソンくんの目の前で私が丸太と入れ替わって、最初に携帯と入れ替わった丸太がウィルソンくんのもつ私の携帯と入れ替わって丸太の」
「ごめんなさい、僕が全面的に悪かったので普通に電話かわってください」
「いいわ」おもむろに携帯を僕にさしだした。「どうぞ。今までは私の木こりだけど、今からはあなたの木こりよ」
「えっ、あっ、はい」慌てて携帯を耳に当てる。どうしよう。勢いで電話をかわってしまったけど、まったく何を喋るか考えてない。なんていえばいいんだ。はじめまして、藤崎の彼氏です? いやいやいや、そんな束縛してるみたいな感じはいやだ。ええと。ええと。
「も、もしもし……。あの。もしもし……もし? もしもし? もしもーし!」
何度呼びかけても、電話の向こうは無音だった。携帯のディスプレイを見ると、待ち受け画面になっている。
「……あの、藤崎さん」
「何かご用?」
「電話、切れちゃった、みたいなんですけど」
「まあ、バッドエンドね」
「え、ええっ。どうしよう、怒っちゃったのかな。怒っちゃいましたよね木こりさん。僕が会話の邪魔したからだ、どうしよう、僕のせいですよね!?」
「では、かけ直して謝りましょう」
「ぼ、僕がですか!? いや、確かに僕が原因ですけど、こ、怖いですよ! 木こりの人としゃべったことないし!」
「多少の大激怒はやむを得ないわ。大丈夫、木こり入らずんば大激怒、という言葉もあるし」
「ないですよ! 捏造したことわざで励まさないでください! ていうか励ましになってるんですかそれ!」
「なら、私に携帯を返しなさい。あなたと、あなたを産んだ両親のかわりに謝っておくから」
「一回り事態を大きくしないでくださいよ!」
「大丈夫、一千万円ほど積むと言えば木こりもにっこりだわ」
「俗っぽいなその木こり! そういうの嫌だから木こりになったんじゃないんですか! だいたいそんな大金用意できるわけないでしょう!」
「おとうさん腎臓とおかあさん脾臓を売れば一発よ」
「なんだそのマフィアの赤ちゃんしか使わなそうな言葉! そんな幼児語あってたまるか! 謝りますよ、僕が謝りますから! ……で、どの番号にかけたらいいんですか?」
「電話帳の『木こり激怒用』よ」
「なんで激怒用の番号が予め用意されてるんだ……ていうか名前とかないんですか、この木こり……うう、嫌だなあ」
震える指で、木こり激怒用番号へ発信する。プッシュ音の後、少し間を置いて、コール音が聞こえ――。
~♪ ~♪ ~♪ ~♪
――ふいに流れ出す聞き覚えのある着信音に、反射的に携帯電話から耳を離した。
「わ、えっ、ちょ、ちょっと、あれっ!?」
「どうなすった」
「ぼ、僕の携帯が鳴っ、え、え? すいません、携帯いったん返しますね! 誰だよもう、こんなタイミングで電話なんて……」ディスプレイされた番号は全く身に覚えがなかった。しかし携帯は鳴り続けるので僕は仕方なく電話に出た。
「あの……もしもし?」
『ええ、もしもされたわ』
「あれ、藤崎さ……え、えっ?」
僕の後ろで、携帯に耳を当てた藤崎さんが意味深に微笑んでいた。
『ウィルソンくんたら、照れ屋さんね。こんな距離で電話だなんて』
「だって、えっ、もしかして、さっきの木こりの番号って、こないだ教えた僕の携帯の……え、ええっ!?」
『あら、嬉しそうな顔ね』
「だって、携帯買ったのに教えてくれないし、木こりとか言ってるし、あでもあの番号は僕で、木こりは存在しないから……あれ? だから……ええと?」
『海の幸? 山の幸?』
「ぼ――僕の幸です!」
その後、僕らはずっと携帯で会話しながら下校した。
携帯を耳に当てながら並んで歩く僕らを、道行く人が不思議そうに見たが、そんなことも僕はどうでもよかった。