藤崎さんとチャットツール
藤崎さんと恋人同士になってから、一週間が過ぎた。
彼女についてわかったことが二つある。
まず、藤崎さんは、一目につく場所では決して僕に話しかけてこない。
僕から話しかければ応じてはくれるけども、向こうから絶対に接触してこない。
次に、藤崎さんは携帯を持っていない。
一度番号を教えてもらおうと思って聞いたが「ないわ」の一言でばっさり切り落とされた。これは多分本当だろう。僕も最初嘘だと思って三回ぐらい聞いたけど、うち二回は同じ返事で一回は無視だった。
以上である。
恋人としての僕たち、伊藤月助と藤崎蜜子の関係はいっさい発展していない。
ゼロ。まったくのゼロだ。
誇張でも謙遜でもない。だって、話しかけてくれないんだもの。相変わらず僕が屋上でご飯を食べていると、横に座ってくるけど、こないだみたいな「あーん」合戦はもう行われない。というかダークマター煮やらパンデモニウム地獄釜茹でやらを涼しい顔でパクついてる。本当は好き嫌いなんか初めからないんじゃなかろうか。
それに僕自身の問題もある。
なし崩しに恋人同士という関係になってしまったが、本当に僕は藤崎さんの恋人で良いのだろうか。いやそりゃ「あーん」合戦のときはやたらドキドキしたし、今でも授業中とかめちゃくちゃ意識するようにはなってしまったけど、まだ心の中は釈然としない想いがわだかまっている。
僕らは本当に恋人同士なんだろうか。
話しかけてもよくわからない言動で煙に巻かれるし、藤崎さんからは話しかけてもこない。そんな関係が本当に――。
あ、ひとつだけ例外がある。
藤崎さんから話しかけてくる、たったひとつの例外。
僕が下校しているときだ。
僕の家まで五百メートルほどのところにある、人気の無い三叉路を過ぎた辺りで、どこからともなく藤崎さんは現れるのだ。
「――あら、奇遇ね」
ふいに背後から声がした。見ると、藤崎さんが小首を傾げて僕を見ていた。
「ねえ、ウィルソンくん」
「あの、何度も言いますけど、伊藤です」
「ウィルソン」
「ですから、伊藤」
「ウィル藤くん」
「無理しないでください」
「ねえ、私、気になっているのだけど」藤崎さんが肩越しに僕の手元を覗き込んだ。「さっきから、それは何をやっているの?」
「ら、ラインですよ。友だちと、ライン」
長い黒髪が僕の耳たぶに触れ、こそばゆさに思わず身を捩った。
「ライン?」
そうだった。藤崎さんは携帯を持っていないのだ。
「えっと、携帯でできるチャットみたいなやつです」
「チャット?」
「何て言えばいいか、まいったな。離れた人とも短い手紙をやり取りできるんですよ」
「?」
「ええと、だから、例えるなら、お互いが飼ってる伝書鳩に手紙をくくりつけて、それを飛ばし合う、みたいな……」
「合点がいくわ」
理解してもらえたようだ。チャットより伝書鳩の方が藤崎さんの中で一般的だったらしい。
「それで、その鳩はどこまでも飛んでいけるの?」
「いやその、実際は鳩じゃないんですよ。電波に乗せてメッセージをやり取りしてるわけなので」
「でん、ぱ?」
「ああ、えっと、伝書鳩の例えでいうなら、風とか風向きですよ。風に乗って飛べる距離であれば、どこでも届くんです」
「辻褄が合うわ。つまりそれで、お友だちと今日のたまげたことなどを話し合うのね」
「ええ、まあ、そんなところです」
「最近たまげた?」
「いえ、僕は別に……。友だちが送ってきたから、返信してるだけなので」
「お友だちは何に対してたまげてるの?」
「何か悩みがあるみたいです。好きな人ができたとか、なんとか」
「ウィルソンくんはそれを聞いてたまげたの?」
「いえ、特に……なんていうか、よくある話ですし」
「それだけ?」
「えっ、まあ、はい」
「そう」そう言って少し考え事をするように顎に手を添えた。「では、見せてごらんなさい」そういうとおもむろに僕に向かって手を差し出した。
「み、見せる、んですか」
「その携帯電話に、鳩の手紙が表示されるのでしょう。見せてごらんなさいな」
「別にいいですけど、見ても面白いものじゃないですよ」
僕は藤崎さんに見えるようにディスプレイを向けた。
竹中:なあ、板東っていたじゃん。中学のとき同じクラスだった。あいつ彼女できたらしいよ。
伊藤:そうなんだ。
竹中:そうなんだ、じゃねえよ。板東だぞ、板東! 体育の授業中、跳び箱の中で弁当食ってた板東がだぞ! 理不尽とおもわねーかよ、俺たちが先だろうがよ、なあ?
伊藤:いや普通なんじゃないかな。板東、結構顔は良いし。
竹中:いやでも、板東だぞ……。俺らにはそういう浮いた話のひとつも舞い込んでこないのはどういうことだよ。伊藤お前どうなの。最近好きな子とかいんの。
伊藤:いや、別に、いないけど。
竹中:つまんねー奴だなあ。俺はいるぜ。でもちょっと、接点がないっつうか、難しいんだよなあ……彼氏はいないらしいんだけど……。
伊藤:そうなんだ。
「私、見損なったわ。ウィルソンくん」
「え、な、なんで?」
目を見開きながら、藤崎さんが僕を睨んだ。
怒っている。表情は変わらないし理由もわからないけど、明らかに怒っているぞ。
「どうしても何もないわ。何なのこのやり取りは。ウィルソンくん、あなたはまるで自分からたまげようとしていないじゃない。この鳩はたまげるための鳩でしょう」
「いやそれ鳩じゃないし、それに、別に驚くようなことじゃ……普通の話題だと思うし」
「いいえ。これはたまげ度マックスな話題であるし、鳩よ」
「いや鳩は違っ――」
「いいこと、この話題が普通に見えるのは、あなたが普通の受け答えしかしていないからよ。自ずからたまげようとしていない人間に、神はたまげを与えてはくれないわ。『虎穴入らルンバ、虎子を得ず』ということわざもあるでしょう」
「虎穴入らずんば虎子を得ず、ですよね」
「どうしてあなたは、彼の相談にもっと乗ってあげないのかしら」
「え、それは、別に興味がないから、ですけど」
「興味をもつのが怖い、の間違いね。好奇心を失った人間は死体よ」
「そんな大袈裟な……」
「ともかく、こんな毒にも薬にもペプシの新味にもならないやり取りには我慢がならないわ。ええい、もう、こうしてくれる」
藤崎さんが強引に僕の手から携帯をむしりとった。
「あ、ちょっと、何するんですか!」
「あなたに変わって、私が彼とたまげ合うことにするわ」
「そんな勝手な! 返してくださいよ僕の携帯!」
「いやよ。藤崎蜜子はプンスカなの。ウィルソンくんはそこでいつも通りハナクソに名前をつけながら、私のたまげ方を見習っているがいいわ」
「僕に理不尽な性癖押しつけないでください! ちょっと、本当に、返して」
「まず何て言おうかしら『オッス、オラ伊藤! ジグソーパズルにジャムを塗ってたら元の絵が何だかわからなくなってきちまったゾ!』これね」
「せめて正気を疑われない発言にしてくください!」
「……。…………」
携帯をとられまいと背を向けたその姿勢のまま、藤崎さんが固まった。
「……ねえ、ウィルソンくん。これ、どうやって文字を出すの」
ああ、そうだ。携帯もってないんだこの人。思わず溜息が出た。
「もう、使い方わからないのに奪わないでくださいよ。ほら、返してください」
「いやよ。あなたが『オッス、オラ伊藤! ジグソーパズルにジャムを塗ってたら元の絵が何だかわからなくなってきちまったゾ!』ボタンを教えてくれるまで、この子は渡さないんだから!」
「そんなワケわかんないボタンあるわけないでしょう」
「便利なのに、どうして?」
「不便だからですよ!」
「ではあなたが、私のアドバイス通りに返信するし金輪際ハナクソに歴代天皇の名前を当てはめる遊びをやめると誓うなら、返してあげるわ」
「前者はわかりましたし、後者の性癖はにいたっては最初から僕というパッケージに付属してないです」
「じゃあ返しちゃう。はい」
握られていたせいか、しっとりと暖かくなった携帯を受け取った。
「……で、なんて返信すればいいんですか。言っておきますけど、さっきのジグソーパズルどうのこうのは絶対にいやですよ」
「あれにならう必要はなくてよ。要するに、あなたが彼の相談に乗ってあげる意志が伝わればいいの」
「その目的であの文章ひねり出したことに、恐怖を覚えますよ」携帯に視線をおとす。「相談に乗るっていっても……そもそも僕なんかじゃ、解決できないと思うんですけど、彼の悩み。だって、女の子の知り合いなんてほとんどいないですよ」
「そうかしら。どちらにせよ、最初からたまげへの道を閉ざすのは感心しないわね。何かを形で決めつけて行動を拒否する、それはあなたの悪い癖よ、ウィルソンくん」
何かを決めつけて行動を拒否する、僕の悪い癖。
僕の、藤崎さんに対するわだかまりを言い当てられたようで、ぎくりとした。
この人は、たまにまともなことをいうから、よくわからない。
「ほら、はやくはやく。『虎穴入らサンバ、虎子を得ず』よ」
「だからなんでいったん踊るんですか……もう、わかりましたよ」
伊藤:……ところで好きな人って、だれ? うちの学校の人?
「こんな感じでいいですか」
「御の字よ」
竹中:えっ、何気になる俺の好きな人? え、気になるんだ? あーどーっすっかなー! 教えてもいいけど笑うんだろうな、お前じゃ無理とか言われんだろうなー! 恋愛とかしたことない伊藤にはわっかんねーだろうけど、こういうのって自分が制御できないもんなんだよ。本当に恋ってやつは人を狂わせんだよなあ、そういうの理解できるってんなら、教えてやってもいいけど?
「……ねえ、その携帯電話には、相手の画面から毒霧を出すボタンとかもないのかしら」
「気持ちはわかるけど抑えてください」
「百歩譲って、通話口からカエンタケが生えてくるボタンでもいいわ」
「毒霧噴射ボタンも、国内屈指の毒キノコ生成ボタンもないです」
伊藤:いいじゃん、教えてよ。その人は竹中と同じクラスの子?
竹中:んっなわけねーだろ。もし同じクラスだったら速攻声かけてるし今頃付き合ってるね。俺が最初に見かけたのは全校集会のときかな。マジで、本当に、息止まるかと思ったぜ。
伊藤:一目惚れってやつ? そんなにかわいいんだ、その人。
竹中:逆にどう思う? 俺が可愛くない子に一目惚れすると思う? 俺がそんな見る目ないと思う? この恋愛マスター竹中様が? ダイヤモンドの原石を、見間違うとでも?
「ねえ、ウィルソンくん。その携帯電話にはブラックホール生成ボタンが、」
「ないです。抑えてください」
伊藤:真面目な話、その人の特徴とか名前とか知ってるなら教えてよ。もしかしたら共通の知り合いがいるかもしれないから。
竹中:あー……つーかアレだよ、お前その人と同じクラスだぜ。ここまで言ったらどうせもうバレるから名前言うけど、あの子だよ。藤崎蜜子。
思わず僕と藤崎さんは顔を見合わせた。時が止まったようだった。
虎穴の前でルンバだかサンバだか踊ってたら、とんでもない猛獣が飛び出してきた。
「……あの、藤崎さん。次は、僕、これになんて返信すれば」
「ねえ知ってるかしら。マリリンマンソンの本名はブライアン・ワーナーっていうのよ」
「露骨に話題変えないでくださいよ!」
「あらやだもうこんな時間、私いかなくちゃ」
「ダメです、逃がさないですよ」
「ウィルソンくん私急いでるの。家に帰ってクリアしたドラクエのレベル上げしなきゃ」
「宇宙で五本の指に入るほど後回しにしていいやつですよ、それは! 僕だってこんな展開予想してなかったですよ。どうしたらいいんですか。どう収めればいいんですからこれ!」
「見損なったわウィルソンくん。自分で招いた事態なら、自分で解決するのが筋というものでしょう」
「えー!?」
「男の子なら根性を見せるべきよ。耳たぶついてるんでしょう」
「男女平等についてるパーツですよそこは! でも、だって、これ、どうすればいいんですか……もう……」
「ファイトよウィルソンくん。『虎穴入らゾンビ、虎子を得ず』よ」
「一回死んでるじゃないですか……」
伊藤:知ってる、けど、あの、なんていうか、やめた方がいいと思うよ。うん。
竹中:あーやっぱり? お前もそう思う? 相談したやつ皆そういうんだよねえ。なんかさ、俺も直接話したわけじゃないけど、結構藤崎さんって、なんつーか、アレ系らしいんだよね。言動がぶっ飛んでるっていうかさ。普通じゃないっていうか……わかるだろ、言いたいこと。でもさ、だからこそ逆に! 狙い目だと思わねーか?
伊藤:……どういうこと。
竹中:誰も近づかないってことは、ライバルがいないってことじゃん? たぶん噂になるぐらいのアレな人なら、今まで彼氏いたこともないと思うんだよね。適当に話聞いてやりゃすぐに懐くんじゃねーかなと俺は睨んでるわけよ。顔と身体は見ての通り超いいからさ。もし面倒クセー感じになったら別れることだって出来るしさ。連絡先さえわかればなー。なんかだーれも友だちいねーくさいんだよねあの人。ダメ元で聞いてみるけど、お前は連絡先知ってたりする?
携帯を握る指に力が入る。液晶が、みしりと音を立てて軋んだ。身体が熱い。胃袋に溶けた鉄を流し込まれたみたいに熱い。毛穴の一つ一つが沸騰している。なんでこんな気持ちになるのかわからないが、横で藤崎さんが見ているのにもかかわらず、僕の指は勝手に動いていた。
伊藤:諦めなよ。
竹中:あー。やっぱ知らない? そうだよなあ。お前まじめだし、あんな頭おかしい系の女と仲良いわけねーよな。
――放っておけよ。
脳裏で誰かが囁いた。
内心はお前もめんどくさい人に絡まれたと思っているんだろう。だったら放っておけば、竹中のような物好きが、いずれお前からそれを取り除いてくれる、と。
その声は誰でもない、僕自身の声だった。
その声を振り払うように、僕はさらに指を動かした。
伊藤:僕がいるから。
竹中:は? 何言ってんの? オイオイまさかのお前も藤崎狙い?
伊藤:僕の彼女だ。藤崎さんは僕の恋人なんだ。
指が燃えるように熱い。携帯の液晶が割れるんじゃないかというぐらい、勝手に力が入って、熱い。
頭の中は真っ白だった。藤崎さんが画面を見ていることも構わないぐらい、僕は無心でメッセージを打っていた。何も考えていなかった。
友人の暴言に対する怒りや憎しみや悲しみや蔑み、そういうものが多分あったと思う。けど、このとき頭の中にあったのは、守ることだけだった。藤崎さんの恋人という僕の、おそらく世界で唯一の取り柄を、必死で、必死で守ることだけだった。
携帯が鳴る。指が反射的に通話ボタンを押した。
『おい伊藤どういうことだよ、お前があの藤崎と付き合っ――』
「どうもこうもない、藤崎さんは僕の恋人だ。僕の一番好きな人だ」
『ウッソだろ、なあ冗談だろ伊藤よぉ、なあ。どうやったんだよ。まさかお前も目つけてたのか? アレ系だから簡単にいけると思ったのか?』
「うるさい。二度と藤崎さんをそういう風に言うな。キッカケはともかく、僕はいま、ちゃんと藤崎さんが好きなんだ。好きになれると思ってるんだ。お前もそうなら、かかってこい。どうしても藤崎さんが欲しいなら、僕から奪ってみせろよ。口だけ達者で、そんなことも出来ないなら、部屋の隅っこでハナクソに歴代大統領の名前でもつけて遊んでろ!」
それだけ言って振り払うように電話を切った。
顔が熱い。耳たぶまで熱い。鞄が熱い。制服が熱い。学生靴が熱い。
僕は携帯をしまい込んで歩き出した。初夏の薫風で、少しでも身体を冷やしたかった。
ああ、なんだ。何やってんだ僕は。
あんなこと、藤崎さんの前で、あんなこと!
でもやったことに後悔はない。正しいけど何やってんだ僕は! もう!
「ウィルソンくん」
耳元で声が聞こえた。
「たまげた?」
火照った脳裏に藤崎さんの声がそよいだ。
「たまげました、たまげましたよ、本当に!」
私も、と言って藤崎さんは微笑んだ。
いつも通りの、涼しくて無敵の顔だった。
僕は決めた。
この人を、誰より好きになることをたった今決めた。