藤崎さんと伊藤月助
もう、夏だ。
雲一つない初夏の青空を、屋上でひとり、アホみたいに口を開けながら仰いだ。
昼食どきのクラスの喧噪が遥か遠くに聞こえる。
恋やスポーツの季節を目前に、早くも浮かれているのだろう。
屋上には僕のほかに人っ子ひとりいない。
というか、この高校に入学して二ヶ月近く経つけど、ここで誰かに会ったことがない。
一回ぐらい自殺の現場に立ち会っても良さそうなものだと思うけど、さすが進学校、勉強が忙しくてそんな暇もないらしい。
なぜそんなところに僕がいるのかは、僕自身にもよくわからない。
なんとなく、クラスにいたくないだけなんだ。
友だちはできたし、いじめられてもいない。授業についていけないわけでもなく、家庭も円満、タバコも酒もやらない。我ながら、こんなところで孤独に浸る要素なんてないと思うけど、仕方ない。クラスは居心地があんまりよくないんだから、仕方ない。
壁によりかかり、弁当箱を開けると、鶏の照り焼きの臭いが鼻腔をくすぐった。冷凍食品だ。またか、と思わず声に出る。先日、つい口を滑らせ「照り焼きがおいしかった」と言ってしまったため、弁当のおかずにヘビーローテーションされるようになってしまった。母さんは飽きるということを考慮しないんだろうか。
そう思いつつも口に照り焼きを放り込み、白米で追いかける。
うまい。うまいものはうまい。
「あら、また照り焼きなのね」
そうなんだよね、まあ好きだからいいんだけど――。
そう言いかけて、僕の箸が止まった。
……だれ?
この屋上には僕しかいないはずだ。少なくとも、入ってきたときはそうだった。
誰かが入ってきた気配もなかった。僕は屋上の入り口のすぐ傍にいたんだ。入ってくれば嫌でも気づく。
照り焼きを箸に挟んだまま恐る恐る、声の方を向いた。
「こんにちは」
声の主はこくりと頭を下げた。
僕もつられるように会釈してから、ゆっくりと視線を正面に戻した。
いた。いる。とんでもない美少女が僕の横にいつの間にか座っている。
……なんで? いつから? あとこの人なんで僕の隣に普通に座ってるんだ。
まさか幽霊? 受験勉強を苦に自殺した少女の霊が、人恋しさに僕のところに現れたのか?
おちつけ。おちつくんだ伊藤月助。きっと何かを相当ダイナミックに見間違えただけだ。確かめるんだ。そう、見間違いに決まってるんだ。
もう一度、ゆっくりと彼女の方を向いた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
いるじゃん。やっぱいるじゃん。明らかに存在してんじゃん。
というか二回見て思い出した。この人、この顔、知ってるぞ。同じクラスの人だ。
黒髪ロングストレートの姫カット、リスぐらいなら食えるんじゃないかってぐらいぱっちり開いた眼。
綿雪のような肌の白さに、男子顔負けの長身。すらりと伸びた手足。
思い出した。
――藤崎さんだ。クラスメイトの、藤崎さんだ。
見た者の記憶に焼き付いて離れない美少女なのに、誰もその実体を知らない。浮き世離れした容姿も手伝って、やれお忍びで通学してる皇族だとか、精巧に作られたアンドロイドだとか、集団幻覚の一種だとか、荒唐無稽な噂の絶えない、うちのクラスの名物マドンナだ。
そんな人が、なんで僕の隣に座ってるんだ。
……何か喋った方がいいのだろうか?
しかし、なんて声をかければいい。何をいえばいいんだ。こんなことなら幽霊の方がマシだったかもしれない。幽霊なら少なくとも気まずい思いはしなくて済んだのに。
「――あっ、あのう」
「どうしたの。私の顔に何かついてるかしら、ウィルソンくん」
……だれ?
だれー!?
ウィルソンくんって誰!? え、もしかして僕と誰かを間違えてる? 嘘でしょ? そんなドジャースで三割打ってそうな外人と僕の名前間違える? 僕、伊藤だよ? 伊藤月助だよ? 月助とかいてツキノスケだよ?
「あ、あの、藤、崎さん?」
「あら奇遇、それは私の名前ね。私は藤崎蜜子。参考までに」
「あ、どうも。僕は伊藤っていいます。……えっと、なんでここにいるんですか?」
「あら。では逆に聞くけれど、ウィルソンくんは――」
伊藤です。
「――どうしてここにいるのかしら」
「どうしてって、僕は、いつもここでお昼を食べてるから……」
「では、私もそういったものよ」
「……えっ? そうなんですか。いや、でも、僕毎日ここで食べてるけど、藤崎さんを見かけたことはなかったような」
「当然ね。私は今日はじめてここに来たもの」
うん。
……うん?
「あら、ウィルソンくんたらトンマな顔しちゃって。そうね。ご存じの通りは私がここに来たのは今回が初よ。でもね。私は以前からここに来るのを夢に見てたの。屋上でご飯を食べるイメージトレーニングも万全だわ。相撲で例えるなら、私は力士よ。力士は土俵に上がって勝負をしているときだけが力士ではないでしょう。稽古中もちゃんこ中も、力士は力士なの。つまり今日が私の初場所ということよ。おわかりかしら」
ははーん。
なるほど。この人アレだ。結構アレな人なんだ。
なんていうか僕たちとは精神のステージが違う人なんだ。
僕は照り焼きを戻し、弁当箱に蓋をした。そうとわかれば撤退だ。おそらくとてもじゃないけど、僕の太刀打ちできる相手じゃない。
「そうなんですね。じゃあ僕はこの辺で」
「待ってほしいわ」
「いや本当、急いでるんですいません」
「実をいうと、ウィルソンくんの隣に座ったのは、お願いごとがあるからなの」
「お願いごと? いやでも本当に、もう行かなきゃ」
「すぐに終わるわ、ものの数秒よ」
「はいじゃあ聞くだけ聞きます、なんなんですか」
「私と、恋人同士になってほしいの」
「ぶほぁっ!?」
むせた。すっごいむせた。痛ってぇ。喉から逆流した米粒が鼻の方にいった。痛ってぇ!
「な、な、な、何を言ってるんですか!? 何を!?」
「私と、恋人同士になってほしいと言ったのだけど」
「いやそれは聞こえてましたよ! そうじゃなくて、なんで、だって、僕ら今日ほとんど初めて喋ったのに!」
「そんなに驚かなくてもいいのに」
今日初めてまともに喋った人に、急に恋人になってくれなんて言われて驚かない方がどうかしている。そもそも僕の人生はそういったものと無縁のところにあったし、女子と喋ること自体不慣れだし、それに僕は、なんていうか、ネバーランドの住民っていうか、妖精に近い無垢さがあるというか、ああもうめんどくせえ童貞でーす!
「でも、なんで、な、なんで、恋人だなんて……」
「恋人になるのにも、理由が必要かしら」
僕はただただ何度も頷いた。
藤崎さんは取り乱す僕を意にも介さず、超然とした様子で口を開いた。
「私は今日、母の作ったお弁当を持ってきたのだけれど、その中に私の食べられないものが入っていたの。でも、母の作ってくれたものを残したり捨てることは忍びないわ。そこで思いついたの、ウィルソンくんと恋人同士になればいいんだ、と。そういうことよ」
……ん?
「えっと、ごめんなさい藤崎さん、いまいち理解できなくて、もう一度ゆっくりお願いしてもいいですか? まず?」
「まず、私は母の作ってくれたお弁当を持ってきたの」
「次に?」
「お弁当に食べられないものが入っていたの」
「そして?」
「母の作ってくれたものを残したり、捨てたりはしたくないの」
「そうすると?」
「ウィルソンくんと恋人同士になるしかないじゃない」
「そこ! そこですよ全然繋がってこないのは! その部分のミッシングリンクがでかすぎるんですよ。いったいどういう考え方したらそういう結論に至るんですか!?」
「恋人は、お互いのお弁当のおかずを交換し合うという話を耳にしたからよ」
「そんな理由で!?」
「そんな理由よ」
藤崎さんは眉一つ動かさず言い放った。どうやら本当にそれが理由らしい。
「いや、あのですね……ダメ、ダメですよそんな理由で恋人同士になんかなっちゃ! 恋人同士ってのは、もっと、お互いのことを良く知って、好きだという気持ちを確認しあってからなるものじゃないんですか!」
「では、ウィルソンくんは私に餓死しろと言うの」
「いや、そうは言ってないですけど」
「いやよ。私、死因は火山で爆死って決めてるんだから」
「何そのショッカーの構成員しか叶えられなさそうな夢! とにかく、ダメなものはダメです! どうしても食べられないものがあるなら、僕が食べてあげますから!」
「まあ。それこそダメよ。破廉恥な。恋人同士でもないのにお弁当を食べてもらうだなんて、ほとんどセックスじゃない」
「性行為のストライクゾーン広すぎますよ! どんだけ雑な性教育受けてきたんですか!」
「なんと言われようと断じてダメ。私たち、服を脱げば全裸の状態なのよ」
「だいたいの人類はその状態ですよ!」
「じゃあこうしましょう、このお昼休みの間だけ私と恋人同士になるの。お弁当を食べてもらうだけの後腐れない関係。ランチフレンド、ラフレよ。淫靡な響きね」
藤崎さんは髪をかきあげ、潤んだ瞳を僕に流した。一瞬、呼吸が止まるかと思った。
言ってることはめちゃくちゃだが、この美貌にはドキドキせざるを得ない。
「どうするの。ラフレになるの、ならないの」
「な、なんで、僕なんですか」
「あなた以外に誰がいるの。ここは二人だけよ。私とあなたの、二人だけ」
藤崎さんは、吸い込まれそうなほど澄んだ瞳を僕に据えたまま、意味深に笑んだ。底の見えないその視線は、有無を言わせぬ何かで満ちていた。
「わ――わかった、わかりましたよ! じゃあそうしましょう。今だけ、本当に、今だけですからね!」
「あは。ありがとう。助かるわちょろくて」
「いま、ちょろいって言いました?」
「それじゃあお弁当箱を出すわ」
「ちょろいって言いましたよね?」
僕の言葉は完全に無視して、藤崎さんは鞄からずるりとお弁当箱を取り出した。
「で――でかっ、でっか!」
紅白の格子模様の風呂敷に包まれたそれは、目を疑うほど巨大な弁当箱だった。
「え、ちょっと、何ですかその巨大な弁当箱、いつもそれでご飯食べてるんですか!?」
「不思議かしら」
「不思議も何も、初めて見ましたよそんなの! ぱっと見Xboxかと思いましたよ!」
「見た目は問題じゃないわ。問題は中身よ」
藤崎さんは、紅白の格子模様柄の風呂敷を取り払い、胸の前で十字を切ってから蓋に手をかけ、ゆっくりとその手を挙げていき――「やっぱりダメ!」――勢いよくまた閉めた。
「え、ちょっと、なんで閉めちゃうんですか」
「ダメよ、とてもじゃないけれど裸眼で直視なんてできないわ。おぞましい。この世の終わりだわ」
「どんだけ嫌いだったらそこまで言えるんですか。わかりました、僕が開けますから、弁当箱渡してください」
「後悔するわよ」
そう言いつつも素直に弁当箱を渡してくれた。
弁当箱は、見た目の大きさにわりに重さはそんなでもなかった。蓋に手をかけると、藤崎さんが両手で顔を覆った。僕はそのままゆっくりと蓋を開けた。
「お……これ、は」
「見えるでしょう。手前にそびえ立つ、パンデモニウムの地獄釜茹で!」
「……まさかとは思いますが、この、たけのこの煮付けのこと言ってます?」
「そしてその隣に悠然と寝そべる、世界蛇ヨルムンガンドの暗黒焦熱焼き!」
「イワシの蒲焼きですね」
「さらに一隅ではびこるダークマター煮!」
「豆煮」
「極めつけは中央に陣取る、季節野菜の八つ裂き拷問豆腐包みふっくら七つの大罪揚げよ!」
「がんも」
「ああ、思い出すだけで禍禍しい。なんてこと、神は死んだわ」
「どこがですか! いたって普通、というよりむしろめちゃくちゃおいしそうなお弁当じゃないですか!」
羨ましいほど彩り鮮やかな和風幕の内弁当だった。弁当箱は二重構造になっていて、外側に保冷剤を入れるスペースがある。内容量の割にでかかったのはそのせいだろう。
「まったく、罰が当たりますよ。こんな良いお弁当作ってもらって好き嫌い言うとか……で、どれが食べられないんですか?」
「パンデモニウム地獄釜茹でとヨルムンガンド暗黒焦熱焼きとダークマター煮と、季節野菜の八つ裂き拷問ふっくらがんもよ」
「ほぼ全部じゃないですか! あとなんでがんもだけ途中でちょっとめんどくさくなってんですか」
「食べてくれないのかしら、恋人同士なのに」
「うっ」言葉に詰まった。藤崎さんの目に見つめられると何も言えなくなる。「食べます、食べますよ! 約束は守ります」
「よかったわ。じゃあ、お弁当箱を返してちょうだい」
素早い動きで、僕の手元にある弁当箱をひったくった。
「あれ、お弁当、自分で食べるんですか?」
「何を言うの、私たちは恋人同士なのよ。恋人同士がお弁当を食べさせ合うときに、することは一つじゃない」
「えっと、それってまさか、あの、噂の、『あーんして』とかいう」
「そうよ。今から私がお箸でこの腐臭漂うサタンの臓物を捧げるから、ウィルソンくんはそれを豚のごとく貪ってちょうだい」
「言い方なんとかなりません?」
「ウィルソンくん、はい、あーんして」
藤崎さんは満面の笑みでたけのこをつまんだ箸を向けてきた。
確かに、やると言ったものの……僕は童貞だし、藤崎さんは校内随一の美少女だし、こ、これは想像以上に、照れくさい。
「ダメよウィルソンくん、もっと口を開けて。ほら、あーん」
「は、はいっ」
「もっともっと、あーん」
「こ、こうでふか!」顎が外れんばかりに口を開けた。
「グッドよ。あ、保冷剤は食べられないから抜くわね」
「ヘイヘイヘイ、ちょっと、ちょっとまってください。タイム」
「なにか?」
「いま、僕の口に箱ごと突っ込もうとしませんでした?」
「……してないわ」「しましたよね」
「私が食べられないものを食べてくれるという約束だったじゃない」
「ええ、言いましたよ確かに」
「私、木の箱は食べられないの」
「奇遇ですね僕もですよ。というよりこの学校に通う生徒で箱ごと弁当食うやつなんて一人もいないですよ!」
「わかった。わかりました」
「わかってないですよ! そもそも保冷剤は食べられないとかいう常識は持ち合わせてるくせに――」
「黙ると吉よ、小童」
「こわっぱ!?」
「要するに、ウィルソンくんの身体を犠牲にしないため、食物だけを一つ一つ食べられるサイズにしてから食べさせろということでいいの?」
「一言一句そのとおりですよ! 普通でしょうそれが!」
「そうだったの。存じ上げなかったわ。スーパーベリーメンゴ」
「こんなに謝罪の意志が伝わってこない言葉、はじめてですよ」
「では、気を取り直して、あーん」
今度はちゃんとタケノコを一切れ向けてきたので、黙って口を開けた。
箸の先につままれたタケノコを舌で絡め取る。
かみしめると、独特の歯ごたえと出汁の甘味が口の中に広がった。
……あれ、なんか、普通にめちゃくちゃうまいぞ。
「どうかしら。おいしい?」
「あ、はい、すごく、普通においしいです」
「そう。まだヘドロの沼でハゲタカについばまれる亡者の魂がごとくたくさんあるから、どんどん貪ってね」
「だから言い方」
口を挟む間もなく、次のおかずが差し出される。僕は機械的にそれを口に運ぶ。うまい。どれも紛れもなくうまい。こんなおいしいものを、好き嫌いするなんて、と、食べるたびに釈然としない気持ちが募る。
「ねえウィルソンくん。ご満悦のところ悪いのだけど、私、餓死寸前よ」
「えっ? あっ、そっか」お弁当のおかずを交換するという話だったことを思い出す。「じゃあ、食べます? 僕のお弁当」
「無論よ。どんとこい」
言って、藤崎さんは手を膝の上におき、顎を少ししゃくり口を開けた。
そして、その姿勢のまま身じろぎもしない。
まさか、これは。
「あの、藤崎さん。まさか、僕もやるんですか。あーん、ってやつ」
返事はない。
しかし藤崎さんは、あーん待機の姿勢を一向に崩そうともしない。
やれということなのだろう。
僕は震える箸で照り焼きを一切れつまんだ。
「あ、あの、じゃあ、失礼します。あー……ん、です」
藤崎さんの控えめに開いた口に照り焼きを差し込んだ。
ふふ、と微かに息を漏らしながら、唇の端についた照り焼きのタレを、肌の白さに対して赤すぎる舌が舐めとった。こく、こくと顎を動かしながら、上目に僕の顔を見つめてくる。その目が、なんか、もう、なんかもう……わかんないけど、とにかく僕の脳内でさっきの藤崎さんが言った「ほとんどセックス」という単語がぐるぐる回った。
藤崎さんは無言で、再び口を開けた。
照り焼きを載せやすいよう、少し出した舌の先がちらちらと光っている。
そこにまた照り焼きをのせると、赤い蛇が絡め取っていく。
ああ、やばい。なんかやばい。とんでもないことをしている気がする!
無防備に開かれた口に、食べ物を運ぶというこの行為は、とんでもなく背徳的で、秘密に満ちた行為だ。
静寂に耐えきれず、おいしいですか? と聞こうとした瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。
さっき聞かれたときは、特に意識もしなかったけれど、この問いは要するに、自分のさしだしたものを受け入れてくれるか、拒否するかを聞いていることになる。
もし、もしも!
僕の鶏照り焼きが精子で、藤崎さんの口が卵子だと仮定するなら!
僕が食べさせ、藤崎さんが「おいしい」と言えばもうそれはセックスになっちゃうんじゃないか?
このままでは、セックスが完成してしまうのでは――!?
「あ、あのっ! どう、ですか? おいしい、ですか!?」
藤崎さんは照り焼きを呑み込み、囁くように言った。
「普通」
あれぇー?
*
その後も僕たちによる食べさせ合いは続いた。しかし藤崎さんのお弁当は結構なボリュームがあったし、そもそも僕はこのあーん合戦をする前に自分の弁当を半分程度平らげていたことと、あとなぜか後半、藤崎さんが僕の弁当のおかずまでも僕にあーんし始めたこともあってか、僕の胃袋はすぐに限界を迎えた。
「も、もう、無理です。お腹が……もうホント無理」
「あら、まだ私のお弁当が残っているのに」
「だ、だって、ほぼ全部食べてるし……あと後半なぜか、僕の弁当まで僕に食べさせてるし、誰だってお腹いっぱいになりますよ!」
「そう」藤崎さんは名残惜しそうに箸を引っ込めた。
「……ところでウィルソンくんは、部活動に入っているのかしら」
「入ってないですけど」
「それじゃあ放課後、私の家に一緒に行きましょう」
「へっ――へえ!? なんでそうなるんですか!」
「夕飯のとき、私の嫌いな物が出るかもしれないじゃない。ウィルソンくんがいないと、私は満足に食事も取れないのよ。居てもらわなくちゃ困るわ。その朝も、その次の昼も」
「そんな、むちゃくちゃですよ、無理に決まってるじゃないですか」
「では、私とずっと恋人同士になりましょう」
藤崎さんは僕にそっと手をさしだした。
「あなたが私と、ずっと恋人でいてくれるなら、私の家にくる必要もないわ。恋人の言いつけなら、私はちゃんと守る。そういう女ですもの」
藤崎さんはまたあの澄んだ目でじっと僕を見た。何を考えているかわからない、どこまで本気で言ってるのか、それとも全部冗談なのか、それすらもわからない。
だけど、僕はもう考える間もなく、さしだされた手を握っていた。
藤崎さんは微笑んだ。僕もつられて笑った。
「それじゃ、お弁当を食べてしまわないと。もうすぐお昼休みが終わってしまうわ」
そう言うなり、残ったオカズをひょいひょいと口に放り込み始めた。
「え、ちょっと、あれっ? それ、嫌いなんじゃ……た、食べられるんですか?」
「当然ね、だって私が作ったんだもの」
「へ? それ、って、あの、どういう」
「蒲焼きは少し塩気が強いわね。次回までに改善しましょう」
「それヨルムンガンドの、あれ? え?」
すっかり平らげた弁当箱をてきぱきと仕舞い、藤崎さんは立ち上がった。
「戻りましょう、伊藤くん。授業が始まってしまうわ」
藤崎さんは返事も聞かずに、甘い香りだけを残して去っていった。
僕はぼんやりと、その香りが消えるまでその場に座り込んでいた。
こうして、すぐそこまで迫った夏を待たずに、僕に恋人ができた。
たぶん、できた、のだと思う。