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正直に話そう。僕が初めて夕子を見たのはA大学の入学式であった。春の陽気の中で僕はこの日のために買っておいた黒のスーツに身を通して、気分は少し高ぶっていた。スーツは何度か着たことがあったがこれで街を歩くとは妙な自信と興奮が現れ、僕は足取り軽やかにその入学式の行われる会場へ向かったのを覚えている。
しかしながら会場へと近づくにつれてその自信と興奮は徐々に冷めてしまった。辺りに自分と同じようなスーツ姿の男女が増え始めたのだ。それまでは自分の住む町を自分一人で新しい気分で歩けていたものの、一度でも自分と同種の人間に出くわしてしまうと、まるで世界が小さく見えて、それまではしゃいでいた自分が恥ずかしく思えた。まるで自分がA大学の思惑通りにこの巨大な建物に集められて、そしてそこで思惑通りお決まりの挨拶や芸を見させられて、という規定通りのサイクルの中に投げ込まれた気分になったのだ。
混雑する会場の案内図を係りの人間に渡され、それにしたがって誘導されている時にはもう興奮は冷めきっていた。そしてこの冷めきった感情は恐らく僕の周りの新入生にも当てはまっていた事だろう。僕の感情の起伏が徐々に減っていくにつれて会場全体がネガティブな方向へと落ち着いていくのがなんとなく感じ取れた。
会場の空気の落ち着きに連動して僕はこの大学に入学した意義を省みていた。そもそもこのA大学は第一志望ではなかった。言ってみれば入りたくて入った大学ではないのだ。そんな僕にはなんの意義もない、まるでこの入学式のような大学生活が待っているような気さえした。
誰かに四年間はとても短いと聞いていた。確かにそうかもしれないと思った。しかしながら僕はその時間を空間として捉えていた。そして大学生活とはその空間を旅する事だと感じていた。その旅の終わりが卒業であり、就職だ。そしてその空間とはどこの大学へ行くかというよりも、誰が大学へ行くか、どんな人間が行くのかに依存していると思っていた。ある人にとっては勾配のない平坦な一本道かもしれない、またある人にとっては宇宙の端から端を見て歩けるような意義深く、長い旅なのかもしれない。僕にとってこの空間はまるで砂漠のようだ。東西南北全方位を冷たく乾いた砂漠が地平線の彼方まで広がり、僕はただ何も出来ず辺りを見回して落胆している。この砂漠は常に夜で朝はやってこない。その夜闇もまた無限の彼方まで広がっている、そんな薄暗い砂漠の旅が僕にとっての大学生活であるような気がしたのだ。しかし無限とは言っても、大学生活は確実に終わりがある。僕はこの砂漠の旅が何の前触れもなく、突然の終焉を迎えるような気もしていたのだ、この砂漠の旅にも慣れて、少しだが砂漠ならではの景観も見つけていたある日突然、そこに今まで蜃気楼か何かのせいで見えてなかった出口が突然現れるそんな気がしていた。
そう言った成り行きと先行きの不安に包まれた僕の入学式は気づいた時に終わっていた。もしかしたら実はもう旅は始まっているのかもしれないとその時思った。
スーツ姿で何も持たずに砂漠の真ん中へ立って、まず辺りを見渡して、自分のスタート地点に落胆する、今まで見たことのない絶景に感動していられるのは最初の10分だけ、歩き始めるにつれて自分がどうなるのか、どこでこの旅が終わるのか、そんな不安を抱えながら、僕の旅は始まったのだ。
入学式が終わり、それぞれが思い思いの行動を取り始める、ある人は祖父母と桜並木をバックに写真を取っている、またある人は僕と同じように、そんな家族を卑屈な顔して嘲るように見ている。それを見ているうちに全員が全員、快適で理想的な旅ができるとは限らない、そんな当たり前の事をもう一度学び直した。
もう旅は始まっている、後戻りはできない、今は進むしかない。そういった意気込みで桜並木を進む人々の巨大な群れに加わった。
何を考えるでもなく、ひたすらに自分を人の流れの中に押し込んだ。美しいはずの桜並木も今日ばかりは色気も何もないただの有り触れた樹木であった。
もう当の昔にスーツを着ている快感は忘れてしまっている自分に気がついた。思えばこのスーツを買ってくれた母は今日の入学式に出席出来なかった。僕は父を幼い頃に亡くしていて、母方父方の祖父母もいないため身内が出席するとすれば母であった。辺りを見れば殆どが両親や祖父母と来ている。別にこれと言った悲しみはない。寧ろ一人で来ているという自分に対して褒めてあげたいくらいだった。一応言っておくが、先ほどは卑屈な顔をして家族連れを見てしまったが、それは妬みなどではない。妬みではないのだが、不思議と苛立ちを覚えるのだ。原因不明、まるで病のような苛立ちだった。
僕が夕子を始めて見たのは桜並木も終わりが見え始め、人々の群れもまた離散しかけた時の事だった。僕は思わず足を止めそうになった。四五メートル前方を家族と一緒に歩く夕子に僕の意識は一気に集中してしまった。その瞬間、夕子の横顔が鮮明に僕の脳内に記憶されて、彼女から目を離すことができなくなり、直後大きな混乱へ自分が堕ちて行く気がした。君達はきっと大袈裟だ、とか馬鹿げている、とか言うかもしれない、確かにその通りかもしれない。しかしさらに大袈裟に言わせてもらおう。
先ほどまで何の感動もない桜並木も彼女の背景となれば全てが様変わりし、突然その桜の花独特の美しく色づきと儚さを取り戻し、その木の幹は力強く天へと昇り始め、その雄大さを取り戻したのだ。先ほどまで邪魔臭くて、うるさい人間の群れも彼女の背景の一部と化し僕の視界から消え去った。僕は今まで何も知らなくて、そして僕はその一瞬、ほんの何秒かで宇宙の真理を悟ったかのようなそんな解き放たれた気分であった。
ここまで大袈裟に言うと気持ちが良いもんだ、実際にそれほどの衝撃があったかどうかは分からない。しかし実際、僕は彼女に恋をした。本当に覚えているのはそれだけだ。